高野悦子は、1929年生。東宝退社後、パリ高等映画学院(IDHEC)に留学。岩波ホールが設立された1968年に、同ホールの総支配人に就任した。1974年からエキプ・ド・シネマを主宰し、世界の埋もれた名画の上映する運動を行った。1985年から東京国際映画祭国際女性映画週間のプロデューサーをつとめ、1997年に東京国立近代美術館フィルムセンター初代名誉館長に就いた。
本書の第1部は、エキプ・ド・シネマの11年目(1984年)から20年目(1994年)までの10年間を回顧し、作品をめぐる話題やエキプをとりまく情勢の変化を綴る。
映画への愛情ときらめく洞察もさりながら、映画仲間(中野好夫、野上弥生子、川喜多かしこ、山本安英、ルタ・サドゥール夫人)を惜しむ追悼文が読む者の心にしみる。
第2部は、10年間に上映した53本の作品を紹介する。付録として、LIST OF CAST AND PRODUCTION TEAMS 及び映画祭一覧がつく。
読者は、一見した作品については記憶をよみがえらせ、観てない作品には食指をそそられるだろう。
「はじめに」によれば、最初の10年にくらべて、岩波ホールに類似したミニ・シアターが増加した。名画を愛する人がそれだけ増えたわけだ。こうした社会情勢の変化だけではない。高野悦子自身の内面的変化があった。名画の生みの親にはなれなくても育ての親になることはできる、という覚悟ができたのだ。
育ての親になるとは、名画を紹介し、観る人を増やしていくことだ。
観る場所は岩波ホールでなくてもよい。めったに岩波ホールを訪れることはできない地方住まいの者も、エキプの運動をつうじて、あるいはその一環としての本書をつうじて、作品の名を記憶しておけば、いずれ観る機会が訪れる。
たとえば、『歌っているのはだれ?』(ユーゴスラビア、1980)はNHKで放映された。『芙蓉鎮』(中国、1987)は当地でも自主上映された。
あるいは、ビデオ/DVDがある。たとえば『ダントン』(ポーランド・仏合作、1982)、『マルチニックの少年』(仏、1983)、『ローザ・ルクセンブルク』(西独、1986)、『八月の鯨』(英、1987)、『達磨はなぜ東へ行ったのか』(韓国、1989)。こうした作品のビデオやDVDが日本に普及するにあたってエキプのはたした役割は小さくあるまい。
著者は、映画の上映を別の大衆運動に展開する「創造的な興行」も試みている。たとえば、アンジェイ・ワイダ監督『コルチャック先生』が岩波ホールで上映されたとき、ポーランドの「クラクフ日本美術センター」建設資金のための募金箱が置かれた。運動は順調に広がり、4年間で参加者は13万人となり、目標額の5億円に達した。1993年5月28日の地鎮祭には高野悦子も出席した。
映画を愛する思いがみなぎる本書は、映画好きをしてますます深みに誘いこむ、危険かつ蠱惑的な本だ。
□高野悦子編『エキプ・ド・シネマ Part2』(講談社、1994)
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本書の第1部は、エキプ・ド・シネマの11年目(1984年)から20年目(1994年)までの10年間を回顧し、作品をめぐる話題やエキプをとりまく情勢の変化を綴る。
映画への愛情ときらめく洞察もさりながら、映画仲間(中野好夫、野上弥生子、川喜多かしこ、山本安英、ルタ・サドゥール夫人)を惜しむ追悼文が読む者の心にしみる。
第2部は、10年間に上映した53本の作品を紹介する。付録として、LIST OF CAST AND PRODUCTION TEAMS 及び映画祭一覧がつく。
読者は、一見した作品については記憶をよみがえらせ、観てない作品には食指をそそられるだろう。
「はじめに」によれば、最初の10年にくらべて、岩波ホールに類似したミニ・シアターが増加した。名画を愛する人がそれだけ増えたわけだ。こうした社会情勢の変化だけではない。高野悦子自身の内面的変化があった。名画の生みの親にはなれなくても育ての親になることはできる、という覚悟ができたのだ。
育ての親になるとは、名画を紹介し、観る人を増やしていくことだ。
観る場所は岩波ホールでなくてもよい。めったに岩波ホールを訪れることはできない地方住まいの者も、エキプの運動をつうじて、あるいはその一環としての本書をつうじて、作品の名を記憶しておけば、いずれ観る機会が訪れる。
たとえば、『歌っているのはだれ?』(ユーゴスラビア、1980)はNHKで放映された。『芙蓉鎮』(中国、1987)は当地でも自主上映された。
あるいは、ビデオ/DVDがある。たとえば『ダントン』(ポーランド・仏合作、1982)、『マルチニックの少年』(仏、1983)、『ローザ・ルクセンブルク』(西独、1986)、『八月の鯨』(英、1987)、『達磨はなぜ東へ行ったのか』(韓国、1989)。こうした作品のビデオやDVDが日本に普及するにあたってエキプのはたした役割は小さくあるまい。
著者は、映画の上映を別の大衆運動に展開する「創造的な興行」も試みている。たとえば、アンジェイ・ワイダ監督『コルチャック先生』が岩波ホールで上映されたとき、ポーランドの「クラクフ日本美術センター」建設資金のための募金箱が置かれた。運動は順調に広がり、4年間で参加者は13万人となり、目標額の5億円に達した。1993年5月28日の地鎮祭には高野悦子も出席した。
映画を愛する思いがみなぎる本書は、映画好きをしてますます深みに誘いこむ、危険かつ蠱惑的な本だ。
□高野悦子編『エキプ・ド・シネマ Part2』(講談社、1994)
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