自分が短編小説のアンソロジーを編むならば、どの作品をえらぶことになるだろうか。
長谷川四郎の初期の短編は、はずせない。ただ、一作家一編の制約をもうけると、選択に難儀する。『シベリア物語』と『鶴』の諸作品は、いずれも甲乙つけがたく、選出するのに悩む。
あえて蛮行をおかすならば、短編集の表題作になっている『鶴』をえらびたい。
ごく簡単にいうと、戦友が脱走する話だ。
この戦友、矢野一等兵は、語り手吉野と友情めいた交情があって、その関わりが短い小説の過半を占める。暢気な、ともいえる語り口で進行するのだが、小説がおわりに近づくころ、急転直下の展開になる。
矢野は、遠謀深慮から不寝番の順番を吉野と代わってもらう。吉野は、戦友が脱走を敢行するまで気づかない。加えて、矢野が期待したらしいとおりに、友情から上司への報告を故意に省いてた。それまで二人がわりと親しかったのは周知の事実だったであろうし、主人公が立哨中の(またはその直前)の事件である。とがめられなかったのは、静穏がつづいて士気がたるんでいたせいか。
いや、軍隊という階級社会の非情さは描かれてはいる。ただ、長谷川四郎らしい静かで茫洋たる描き方なので、うっかりすると見逃してしまうのだ。
監視哨舎が砲撃を受けて、監視兵たちは後方へしりぞく。退却の道が開けたとたん、将校は望遠鏡を置き忘れてきたことに気づく。そして、これは軍律違反であることも思い出す。そこで、「誰か一人行って」とってきてくれ、と命令をくだす。「確信を失い、従来の傲慢さがなくなって」「懇願の調子」で。将校は「漠然と」下士官に命令を発し、下士官はこれを上等兵へ、上等兵はこれを古年兵へ、古年兵はこれを主人公に伝える。「最後に私に届いた時は、それは全員の発した命令のようになっていた」
かくて、吉野は死地におもむく。あらかじめ定められた道をあゆむかのごとく、飄々たる軽さで監視哨舎へたち戻る。片われのいない道行である。そして戦死するのだが、死の直前まで冷静かつ茫洋たる語り口は乱れない。あたかも死者の霊が語るかのように。
長谷川四郎は、南満州鉄道株式会社に入社後、1944年に応召、興安嶺の山中でソ連軍の捕虜になり、シベリアに抑留された。帰国は1950年。
翌1951年に『シベリア物語』を書きはじめた。当時42歳。
作家として出発した当初から、大人の風格をただよわせていた。太宰治と同年生まれの長谷川は、太宰とは逆に主観的な言辞を漏らさない。一見無表情で、低音の淡々とした語り口の背後には、一種の含羞があり、ある種の諦念があり、諦念は頑健な肉体によって、時に大陸的な茫洋たるユーモアと化して噴出する。
長谷川の公平で透徹したまなざしは、自分自身をも相対化する目から発っしている。当然ながら、日本人と中国人とを人間として区別しない。短編集『鶴』の冒頭におさめる短編『張徳義』は、戦さに翻弄される中国の民衆を張徳義という一個人をつうじて感傷のない乾いた文体で描きつくす。
短編『鶴』は、軍隊の厳しい階級構造を相対化し、軍人の掟に従って死地へおもむく語り手吉野を相対化し、すべてを大陸的茫洋が穏やかに包みこんで、あとに醇々乎たる読後感をのこす。この読後感は、『シベリア物語』と『鶴』の全編が与えてくれる。
□長谷川四郎『鶴』(『現代日本文學体系第73巻 阿部知二・田宮虎彦・丸岡明・長谷川四郎集』、筑摩書房、1973、所収)
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長谷川四郎の初期の短編は、はずせない。ただ、一作家一編の制約をもうけると、選択に難儀する。『シベリア物語』と『鶴』の諸作品は、いずれも甲乙つけがたく、選出するのに悩む。
あえて蛮行をおかすならば、短編集の表題作になっている『鶴』をえらびたい。
ごく簡単にいうと、戦友が脱走する話だ。
この戦友、矢野一等兵は、語り手吉野と友情めいた交情があって、その関わりが短い小説の過半を占める。暢気な、ともいえる語り口で進行するのだが、小説がおわりに近づくころ、急転直下の展開になる。
矢野は、遠謀深慮から不寝番の順番を吉野と代わってもらう。吉野は、戦友が脱走を敢行するまで気づかない。加えて、矢野が期待したらしいとおりに、友情から上司への報告を故意に省いてた。それまで二人がわりと親しかったのは周知の事実だったであろうし、主人公が立哨中の(またはその直前)の事件である。とがめられなかったのは、静穏がつづいて士気がたるんでいたせいか。
いや、軍隊という階級社会の非情さは描かれてはいる。ただ、長谷川四郎らしい静かで茫洋たる描き方なので、うっかりすると見逃してしまうのだ。
監視哨舎が砲撃を受けて、監視兵たちは後方へしりぞく。退却の道が開けたとたん、将校は望遠鏡を置き忘れてきたことに気づく。そして、これは軍律違反であることも思い出す。そこで、「誰か一人行って」とってきてくれ、と命令をくだす。「確信を失い、従来の傲慢さがなくなって」「懇願の調子」で。将校は「漠然と」下士官に命令を発し、下士官はこれを上等兵へ、上等兵はこれを古年兵へ、古年兵はこれを主人公に伝える。「最後に私に届いた時は、それは全員の発した命令のようになっていた」
かくて、吉野は死地におもむく。あらかじめ定められた道をあゆむかのごとく、飄々たる軽さで監視哨舎へたち戻る。片われのいない道行である。そして戦死するのだが、死の直前まで冷静かつ茫洋たる語り口は乱れない。あたかも死者の霊が語るかのように。
長谷川四郎は、南満州鉄道株式会社に入社後、1944年に応召、興安嶺の山中でソ連軍の捕虜になり、シベリアに抑留された。帰国は1950年。
翌1951年に『シベリア物語』を書きはじめた。当時42歳。
作家として出発した当初から、大人の風格をただよわせていた。太宰治と同年生まれの長谷川は、太宰とは逆に主観的な言辞を漏らさない。一見無表情で、低音の淡々とした語り口の背後には、一種の含羞があり、ある種の諦念があり、諦念は頑健な肉体によって、時に大陸的な茫洋たるユーモアと化して噴出する。
長谷川の公平で透徹したまなざしは、自分自身をも相対化する目から発っしている。当然ながら、日本人と中国人とを人間として区別しない。短編集『鶴』の冒頭におさめる短編『張徳義』は、戦さに翻弄される中国の民衆を張徳義という一個人をつうじて感傷のない乾いた文体で描きつくす。
短編『鶴』は、軍隊の厳しい階級構造を相対化し、軍人の掟に従って死地へおもむく語り手吉野を相対化し、すべてを大陸的茫洋が穏やかに包みこんで、あとに醇々乎たる読後感をのこす。この読後感は、『シベリア物語』と『鶴』の全編が与えてくれる。
□長谷川四郎『鶴』(『現代日本文學体系第73巻 阿部知二・田宮虎彦・丸岡明・長谷川四郎集』、筑摩書房、1973、所収)
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