政治家は、たったひとつの失言で、政治家の席からすべり落ちることがある。
失言はげにも恐ろしい・・・・が、仕事のさいちゅうに千の失言を吐いても、その地位を断固まもった奇特な人がいる。
すなわち、ヨハン・ゲオルク・アウグスト・ガレッティがその人である。
ガレッティ先生は、18世紀末から19世紀半ばにかけてドイツのギムナジウム(9年生学校)で歴史と地理を教えた。生涯に残した著作40冊あまりの数からすると、当時は偉大な学者だったらしいが、その著作は極東に伝わっていない。伝わっているのは、御大自身は伝えたいとは思っていなかったにちがいない失言の山である。
それだけ、面白かった、ということだろう。
じじつ面白い。さっそく披露させていただこう。ちなみに、数字は本書の通し番号だ。本書にはぜんぶで700件収録されている。ここでは、ことに楽しい動物ネタを最初にあげる。
「539 カンガルーはひとっ跳び32フィート跳ぶことができる。後足が二本でなくて四本なら、さらに遠く跳べるであろう」
「544 ライオンの遠吠えは猛烈なもので、何マイルも離れた荒野でも、吠えたてた当のライオンの耳に達する」
前足2本、後足4本、計6本? ガレッティ先生は、象だけではなくてカンガルーも昆虫に分類しているらしい。
何マイルも離れた荒野の、当のライオンはドッペルゲンガーでしょうね。
などと、どの部分が失言なのか、いちいち指摘するのは野暮というものだ。
動物ネタはわかりやすいが、
「044 古代にも大砲があった。大弓で発砲した」
こう大まじめで講義されると、生徒たちは一瞬混乱したにちがいない。そうか、古代では大砲の弾丸を大弓で飛ばしたのか・・・・。
当然、クレームがついたことだろうが、先生、ちっともへこたれない。
「602 教師はつねに正しい。たとえまちがっているときも」
開きなおっていますね。それどころか、わかりの悪い生徒には皮肉をとばす。
「624 君たちは先生の話となると、右の耳から出ていって左の耳から入るようだな」
皮肉まで失言するのは愛嬌というものだ。この先生なら、「きみ、講義を聴くときはちゃんと耳を開いて、目を澄ますものだよ」と注意しかねない。
ところで、こんな失言を生徒はどんな顔で聞いていたのだろうか。内心のおかしさをこらえながら、クソ真面目な顔で聞いていたのか。それとも、一同、おおいに笑ったのか。
読者としては、哄笑した、と想像したい。ガレッティ先生、生徒たちの横隔膜のけいれんの発作が過ぎ去るまで、呆然と、もしかすると謹厳な顔で待ち受けたのだ、と。生徒たちからは、森羅万象におよぶその学識に敬意を表されるとともに、奇癖を愛されていたにちがいない。さもなければ、その失言が代々の生徒に語り継がれることはなかっただろうし、没後、グスタフ某によって編集、出版されることもなかったはずだ。
そこには、教師と生徒とのあいだに、少々のことでは崩れない堅固な師弟関係、あるいは共同体があったのではないか。
こう想像してこそ、万事こせこせした21世紀からしばし抜けだして、おおらかな時代のおおらかな笑いを共有することができる。
□池内紀編訳『象は世界最大の昆虫である -ガレッティ先生失言録-』(白水社uブックス、2005)
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失言はげにも恐ろしい・・・・が、仕事のさいちゅうに千の失言を吐いても、その地位を断固まもった奇特な人がいる。
すなわち、ヨハン・ゲオルク・アウグスト・ガレッティがその人である。
ガレッティ先生は、18世紀末から19世紀半ばにかけてドイツのギムナジウム(9年生学校)で歴史と地理を教えた。生涯に残した著作40冊あまりの数からすると、当時は偉大な学者だったらしいが、その著作は極東に伝わっていない。伝わっているのは、御大自身は伝えたいとは思っていなかったにちがいない失言の山である。
それだけ、面白かった、ということだろう。
じじつ面白い。さっそく披露させていただこう。ちなみに、数字は本書の通し番号だ。本書にはぜんぶで700件収録されている。ここでは、ことに楽しい動物ネタを最初にあげる。
「539 カンガルーはひとっ跳び32フィート跳ぶことができる。後足が二本でなくて四本なら、さらに遠く跳べるであろう」
「544 ライオンの遠吠えは猛烈なもので、何マイルも離れた荒野でも、吠えたてた当のライオンの耳に達する」
前足2本、後足4本、計6本? ガレッティ先生は、象だけではなくてカンガルーも昆虫に分類しているらしい。
何マイルも離れた荒野の、当のライオンはドッペルゲンガーでしょうね。
などと、どの部分が失言なのか、いちいち指摘するのは野暮というものだ。
動物ネタはわかりやすいが、
「044 古代にも大砲があった。大弓で発砲した」
こう大まじめで講義されると、生徒たちは一瞬混乱したにちがいない。そうか、古代では大砲の弾丸を大弓で飛ばしたのか・・・・。
当然、クレームがついたことだろうが、先生、ちっともへこたれない。
「602 教師はつねに正しい。たとえまちがっているときも」
開きなおっていますね。それどころか、わかりの悪い生徒には皮肉をとばす。
「624 君たちは先生の話となると、右の耳から出ていって左の耳から入るようだな」
皮肉まで失言するのは愛嬌というものだ。この先生なら、「きみ、講義を聴くときはちゃんと耳を開いて、目を澄ますものだよ」と注意しかねない。
ところで、こんな失言を生徒はどんな顔で聞いていたのだろうか。内心のおかしさをこらえながら、クソ真面目な顔で聞いていたのか。それとも、一同、おおいに笑ったのか。
読者としては、哄笑した、と想像したい。ガレッティ先生、生徒たちの横隔膜のけいれんの発作が過ぎ去るまで、呆然と、もしかすると謹厳な顔で待ち受けたのだ、と。生徒たちからは、森羅万象におよぶその学識に敬意を表されるとともに、奇癖を愛されていたにちがいない。さもなければ、その失言が代々の生徒に語り継がれることはなかっただろうし、没後、グスタフ某によって編集、出版されることもなかったはずだ。
そこには、教師と生徒とのあいだに、少々のことでは崩れない堅固な師弟関係、あるいは共同体があったのではないか。
こう想像してこそ、万事こせこせした21世紀からしばし抜けだして、おおらかな時代のおおらかな笑いを共有することができる。
□池内紀編訳『象は世界最大の昆虫である -ガレッティ先生失言録-』(白水社uブックス、2005)
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