大岡昇平は、若年の一時期と旅行中のほか日記をつける習慣がなかった。1970年代のなかば、もの忘れがひどくなったのを自覚して簡単な日録をつけはじめた。これを膨らませ公表用日記が『成城だより』である。
『成城だより』は1979(昭和54)年11月8日から1980(昭和55)年10月17日までで、大岡昇平は1909(明治42)年3月6日生まれだから、70歳から71歳にかけてのことだ。
ちなみに、『成城だよりⅡ』が1982(昭和57)年1月1日から同年12月15日まで、72歳から73歳にかけて。『成城だよりⅢ』が1985(昭和60)年1月1日から12月13日まで、75歳から76歳にかけて。
最後のあとがきは77歳の誕生日(1986(昭和61)年3月6日)に記された。2年後、1988(昭和63)年12月25日に大岡昇平は鬼籍に入る。享年79。
要するに、『成城だより』は、大岡昇平の70歳から76歳までの6年間にわたる晩年の思想と行動を、2回の中断をはさんで、詳細に垣間見せる。
厚生労働省の簡易生命表によれば、大岡が没した1988年の平均寿命は、男性75.54歳(女性81.30歳)だ。
大岡は、当時の平均寿命より少し長く生きたわけだ。
ちなみに、2009年では男性79.59歳(女性86.44歳)だ。この20年間余のうちに男性4歳強(女性5歳強)、平均寿命が伸びたことになる。
ところで、講談社文芸文庫版『成城だより』は2001年に刊行された。その解説で、加藤典洋はこう書いている。
『成城だより』は、「文学的な日録でありつつなお、1980年代前半を生きる、年老いた戦後文学者の日々の生活感を伝える。気がついてみればこれは、またとない日記文学の傑作ではないか。そういうことにわたしは今回、これが書かれて20年もして、はじめて気づいたところなのである」
しかし、『成城だより』に記されるのは、時代の中の「生活感」だけではない。加齢に伴う「生活感」も少なからず記される。いや、少なからずとは控え目な言い方であって、ズバリいえば頻出する。試みに身体に係る懸念ないし不調を記した箇所に付箋を貼ってみるとよい。100枚では足りない。
大岡が公表を予定して書いた日記(『成城だより』)全体は、加藤が日記文学の傑作と評価するように、きわめて独特な内容と文体をもち、万人に普遍的ではない。
しかし、大岡が日記の片隅に書きとめた老化は、万人に共通する。いま、晩年の大岡の年代にある者は、『成城だより』に、もう一人の自分を見いだすことができる。そして、定年をむかえる団塊の世代は、そう遠くない将来、自分の心身がどのように変貌するかを、大岡の日記から見てとることができる。
大岡昇平という稀代の自己分析家は、明晰なまなざしをもって、自分の身体の衰えを驚くべき冷静さで観察している。若くしてランボーに親しんだ大岡は、「私は一個の他人である」という警句を知らなかったはずはない。あるいは、アランの「魂とは物質に抵抗するものである」も当然知っていただろう。
「歳月は勝手に来て勝手に去る」とは、山本夏彦一流の皮肉な洞察だが、人間の身体もまた、その精神とは別個に、勝手に成長し、勝手に衰えるのである。
身体の衰弱に伴って精神も衰弱するのが通常だが、大岡昇平という巨大な知性は、身体だけを勝手に衰弱させた。こうした人もいるのだ。近年では、免疫学者にして文筆家の多田富雄も、身体とは独立に知性を維持した一人だ。
事は高齢者に限らない。老若男女を問わず、事故、病気その他の理由によって身体機能の低下に直面する者にとって、大岡昇平や多田富雄は一つのモデルとなるだろう。
以下、『成城だより』から一部を引く。【 】内は、引用者による補注である。
*
1979年
11月8日(木) 晴 【70歳】
「1976年来、白内障手術、二度の心不全発作で、老衰ひとく、運動は散歩だけとなる。それも駅まで15分の距離で疲れる。往復できず、帰りはタクシーとなる」
「スモークドビーフサンドなるものメニュにあり、ローストビーフより塩気少いとのこと、それは心不全にはよいので、注文する。ついでに百グラム買い、駅に行くのをやめて、引き返す。歩行距離は駅まで片道と同じぐらいなり。駅付近へ行って、本屋の新刊棚をのぞいても、このところ原稿製造のために、読むべき本たまりあり、買っても読めない」
11月12日(月) 晴
「【8月に大野正男との対談を】気軽に引き受けたけれど、7月より体調悪くなり、しくじった。三度の対談はなんでもなかったが、その後の整理、加筆に手間取る。新年号原稿の中へ割り込んで来て、閉口す」
「温かい日続く。暖かいうちに、散歩しておかないといけない。12月から外出禁止となる。心不全には風邪が敵、発熱がよくない」
「散歩の必要。大腿筋のごとき大きな筋肉を働かすと、脳内の血行が活発になるとの説あり。実際、古今東西に歩行の詩文多く、筆者も以前は行き詰まると書斎内をぐるぐる歩き廻ったものだった。この頃はその元気はないけれど、とにかく歩いて膝を屈伸するのに快感あり。こんなことにも快感を意識しなければならぬとは、情けないことになった」
11月13日(火) 晴
「白内障手術してより空間感覚かわり、その上、椎骨血管不全、つまり立ちくらみあり、よろよろ歩きにて、コンサートに行けず、音楽のよろこぶべき来訪なり」【「音楽」は、大江健三郎持参の武満徹の新作レコード『イデーンⅡ』『ウォータ、ウォータ』『ウェイブズ』などを指す。】
1980年
1月16日(水) 晴
「順天堂病院。11時着。レントゲン、心電図。先月あった心臓肥大去る。暮の18日から、まるひと月、何もしなかったのだから、よくなるわけだ。利尿剤は週に2日1日1錠、あとは半錠に減る。つまりあまり疲れない日が5日あることになる」
「となりの東京医科歯科大病院に『海』編集長塙嘉彦君入院しあり。面会謝絶だが、奥さんに挨拶して帰るつもり。病院裏のスナックへ入って、スパゲティを食べたが、自動ドア絶えず開閉して、寒気を感じる。お茶の水は風邪強く、寒いのなり。歯科大の正門まで百メートルの道歩くのがこわくて、失礼させてもらう。/すでに感じた寒気にて風邪を引いたのではないか、との恐怖あるなり。店を出ればタクシーすぐ来て、助かる。車の中はあったかい。/成城に帰り、すぐ寝てしまう。別に寒気なく、大丈夫のようなり」
3月6日(木) 曇 【71歳】
「わが71度目の誕生日。ケーキ、花など下さる方あり、感謝感激の至りなるも、当人はあまりめでたくも感ぜず、戸まどい気味なり。71歳まで生きられると思っていなかった。戦争に行ったのが35歳の時なれば、戦後35年、もはやそれと同じ歳月を生きたことになるのなり」
「戦争に行った人間は、なんとなく畳の上で死ねないような気がしているものなれど、すでに手足の力なく、眼くらみ、心臓鼓動とどこおり、よろよろ歩きの老残の身となっては、畳の上ならぬ病院の、酸素テントの中なる死、確実となった。ところが『現代詩手帖』3月号芹沢俊介氏の『“戦中派”の戦後』を見ると、鮎川信夫の文章よりとして『親族の軍人が口にした』という『畳の上で死ぬ方がよほど恐しい』との言葉引用しあり。これもわかる。されば畳の上でしぬのがこわいので、あらぬ幻想にかられるに非ずやと疑う」
「寒気ややゆるみ、庭前の梅、咲きはじむ。しかし起きるのはやめておく。娘と孫来る。誕生日のケーキを切ったが、なるべく小さいのをもらう。糖尿病に悪ければなり。娘のみ『おめでとう』と唱うる声、うつろにひびく」
3月12日(水) 晴
「またもや寒き日。順天堂大の北村和夫教授の定期診察日(先月はさぼった)。レントゲン、心電図、快調とのこと。関西まで長距離旅行の許可出る。昨年6月の状態に、やっと戻った。『堺事件』について調査旅行可能ということ」
「家人と共に50階のパーラーまで上って一服。筆者は二度ばかり、このあたりのホテルに泊まって、40階より俯瞰景の経験あるも、なんだか20階くらいの感じしかしない。白内障手術して空間せばまりたるなり。もはや常人にあらざる悲哀」
【参考】大岡昇平『成城だより(上下)』(講談社学芸文庫、2001)
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『成城だより』は1979(昭和54)年11月8日から1980(昭和55)年10月17日までで、大岡昇平は1909(明治42)年3月6日生まれだから、70歳から71歳にかけてのことだ。
ちなみに、『成城だよりⅡ』が1982(昭和57)年1月1日から同年12月15日まで、72歳から73歳にかけて。『成城だよりⅢ』が1985(昭和60)年1月1日から12月13日まで、75歳から76歳にかけて。
最後のあとがきは77歳の誕生日(1986(昭和61)年3月6日)に記された。2年後、1988(昭和63)年12月25日に大岡昇平は鬼籍に入る。享年79。
要するに、『成城だより』は、大岡昇平の70歳から76歳までの6年間にわたる晩年の思想と行動を、2回の中断をはさんで、詳細に垣間見せる。
厚生労働省の簡易生命表によれば、大岡が没した1988年の平均寿命は、男性75.54歳(女性81.30歳)だ。
大岡は、当時の平均寿命より少し長く生きたわけだ。
ちなみに、2009年では男性79.59歳(女性86.44歳)だ。この20年間余のうちに男性4歳強(女性5歳強)、平均寿命が伸びたことになる。
ところで、講談社文芸文庫版『成城だより』は2001年に刊行された。その解説で、加藤典洋はこう書いている。
『成城だより』は、「文学的な日録でありつつなお、1980年代前半を生きる、年老いた戦後文学者の日々の生活感を伝える。気がついてみればこれは、またとない日記文学の傑作ではないか。そういうことにわたしは今回、これが書かれて20年もして、はじめて気づいたところなのである」
しかし、『成城だより』に記されるのは、時代の中の「生活感」だけではない。加齢に伴う「生活感」も少なからず記される。いや、少なからずとは控え目な言い方であって、ズバリいえば頻出する。試みに身体に係る懸念ないし不調を記した箇所に付箋を貼ってみるとよい。100枚では足りない。
大岡が公表を予定して書いた日記(『成城だより』)全体は、加藤が日記文学の傑作と評価するように、きわめて独特な内容と文体をもち、万人に普遍的ではない。
しかし、大岡が日記の片隅に書きとめた老化は、万人に共通する。いま、晩年の大岡の年代にある者は、『成城だより』に、もう一人の自分を見いだすことができる。そして、定年をむかえる団塊の世代は、そう遠くない将来、自分の心身がどのように変貌するかを、大岡の日記から見てとることができる。
大岡昇平という稀代の自己分析家は、明晰なまなざしをもって、自分の身体の衰えを驚くべき冷静さで観察している。若くしてランボーに親しんだ大岡は、「私は一個の他人である」という警句を知らなかったはずはない。あるいは、アランの「魂とは物質に抵抗するものである」も当然知っていただろう。
「歳月は勝手に来て勝手に去る」とは、山本夏彦一流の皮肉な洞察だが、人間の身体もまた、その精神とは別個に、勝手に成長し、勝手に衰えるのである。
身体の衰弱に伴って精神も衰弱するのが通常だが、大岡昇平という巨大な知性は、身体だけを勝手に衰弱させた。こうした人もいるのだ。近年では、免疫学者にして文筆家の多田富雄も、身体とは独立に知性を維持した一人だ。
事は高齢者に限らない。老若男女を問わず、事故、病気その他の理由によって身体機能の低下に直面する者にとって、大岡昇平や多田富雄は一つのモデルとなるだろう。
以下、『成城だより』から一部を引く。【 】内は、引用者による補注である。
*
1979年
11月8日(木) 晴 【70歳】
「1976年来、白内障手術、二度の心不全発作で、老衰ひとく、運動は散歩だけとなる。それも駅まで15分の距離で疲れる。往復できず、帰りはタクシーとなる」
「スモークドビーフサンドなるものメニュにあり、ローストビーフより塩気少いとのこと、それは心不全にはよいので、注文する。ついでに百グラム買い、駅に行くのをやめて、引き返す。歩行距離は駅まで片道と同じぐらいなり。駅付近へ行って、本屋の新刊棚をのぞいても、このところ原稿製造のために、読むべき本たまりあり、買っても読めない」
11月12日(月) 晴
「【8月に大野正男との対談を】気軽に引き受けたけれど、7月より体調悪くなり、しくじった。三度の対談はなんでもなかったが、その後の整理、加筆に手間取る。新年号原稿の中へ割り込んで来て、閉口す」
「温かい日続く。暖かいうちに、散歩しておかないといけない。12月から外出禁止となる。心不全には風邪が敵、発熱がよくない」
「散歩の必要。大腿筋のごとき大きな筋肉を働かすと、脳内の血行が活発になるとの説あり。実際、古今東西に歩行の詩文多く、筆者も以前は行き詰まると書斎内をぐるぐる歩き廻ったものだった。この頃はその元気はないけれど、とにかく歩いて膝を屈伸するのに快感あり。こんなことにも快感を意識しなければならぬとは、情けないことになった」
11月13日(火) 晴
「白内障手術してより空間感覚かわり、その上、椎骨血管不全、つまり立ちくらみあり、よろよろ歩きにて、コンサートに行けず、音楽のよろこぶべき来訪なり」【「音楽」は、大江健三郎持参の武満徹の新作レコード『イデーンⅡ』『ウォータ、ウォータ』『ウェイブズ』などを指す。】
1980年
1月16日(水) 晴
「順天堂病院。11時着。レントゲン、心電図。先月あった心臓肥大去る。暮の18日から、まるひと月、何もしなかったのだから、よくなるわけだ。利尿剤は週に2日1日1錠、あとは半錠に減る。つまりあまり疲れない日が5日あることになる」
「となりの東京医科歯科大病院に『海』編集長塙嘉彦君入院しあり。面会謝絶だが、奥さんに挨拶して帰るつもり。病院裏のスナックへ入って、スパゲティを食べたが、自動ドア絶えず開閉して、寒気を感じる。お茶の水は風邪強く、寒いのなり。歯科大の正門まで百メートルの道歩くのがこわくて、失礼させてもらう。/すでに感じた寒気にて風邪を引いたのではないか、との恐怖あるなり。店を出ればタクシーすぐ来て、助かる。車の中はあったかい。/成城に帰り、すぐ寝てしまう。別に寒気なく、大丈夫のようなり」
3月6日(木) 曇 【71歳】
「わが71度目の誕生日。ケーキ、花など下さる方あり、感謝感激の至りなるも、当人はあまりめでたくも感ぜず、戸まどい気味なり。71歳まで生きられると思っていなかった。戦争に行ったのが35歳の時なれば、戦後35年、もはやそれと同じ歳月を生きたことになるのなり」
「戦争に行った人間は、なんとなく畳の上で死ねないような気がしているものなれど、すでに手足の力なく、眼くらみ、心臓鼓動とどこおり、よろよろ歩きの老残の身となっては、畳の上ならぬ病院の、酸素テントの中なる死、確実となった。ところが『現代詩手帖』3月号芹沢俊介氏の『“戦中派”の戦後』を見ると、鮎川信夫の文章よりとして『親族の軍人が口にした』という『畳の上で死ぬ方がよほど恐しい』との言葉引用しあり。これもわかる。されば畳の上でしぬのがこわいので、あらぬ幻想にかられるに非ずやと疑う」
「寒気ややゆるみ、庭前の梅、咲きはじむ。しかし起きるのはやめておく。娘と孫来る。誕生日のケーキを切ったが、なるべく小さいのをもらう。糖尿病に悪ければなり。娘のみ『おめでとう』と唱うる声、うつろにひびく」
3月12日(水) 晴
「またもや寒き日。順天堂大の北村和夫教授の定期診察日(先月はさぼった)。レントゲン、心電図、快調とのこと。関西まで長距離旅行の許可出る。昨年6月の状態に、やっと戻った。『堺事件』について調査旅行可能ということ」
「家人と共に50階のパーラーまで上って一服。筆者は二度ばかり、このあたりのホテルに泊まって、40階より俯瞰景の経験あるも、なんだか20階くらいの感じしかしない。白内障手術して空間せばまりたるなり。もはや常人にあらざる悲哀」
【参考】大岡昇平『成城だより(上下)』(講談社学芸文庫、2001)
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