語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

書評:『サイゴンから来た妻と娘』

2011年02月22日 | ノンフィクション
 著者は、ベトナム出身の夫人を通じてベトナム文化あるいはベトナム人気質を見る。たくましい生活力、旺盛な食欲、それを満たすための執念、子どもに対する愛情と厳しさ、万事みずから決断する者のもつ独特の深さ・・・・。
 著者は職業ジャーナリストなのだが、その文章は客観的叙述をこえて、不思議な包容力を醸しだしている。異文化に対するいくぶんの違和感と、妻子に対する愛情がないまぜになった観察は、単なる観察をこえて、ベトナム的なものへの考察に広がっている。この広がりがあるからこそ、本書は私小説的回想にとどまっていない。
 たとえば、「市場文明圏」(著者の造語である)。

 雨期の前になると、うまそうなマンゴーが出まわる。売り子は、無知な異邦人には2千ピストル(当時2千円)とふっかける。ベトナム人相手なら半額の千ピストルで済ませる。
 だが、勝手知ったる著者の細君は「2百ビストルにしなさい」と一気に5分の1の値段を切り出す。当然、相手は渋る。「そんな、あんた--9百ピストルにしておこうよ」
 「ダメ、250ピストル」
 このあたりから交渉が本格化する。
 最初から正直な言い値を言い合って時間を節約したら、と著者は思うのだが、「そう思うこと自体が、そもそも、せわしないスーパーマーケット文化圏の発想なのだろう。市場文化圏では、この、私たちの目には消耗的でもあり、ムダにも見える日々のかけ合いそのものが、生活の実質らしい」
 このかけ合いはセレモニーではない。生活をかけた真剣勝負だ。かたや相場の二倍、三倍をふっかけ、かたや平然と五分の一に値切る手合いだから、ともにかたときも油断がならない。「売り手は日頃のよしみでまけるわけにはいかないし、買い手も過去の恩義で不当な値をのむわけにはいかない。目つきも顔つきも油断なく身構え、義理人情抜きの、キツネとタヌキになる」
 相手の顔色を読みながら駆け引きしなくてはならない。これ以上注文をつけたら相手が傷つき、怒り出すな、と思ったらいったん引いて、お世辞の一つや二つは言わねばならない。このへんの呼吸がわからないと駆け引きできない。
 一事が万事。ベトナム人のこうした交渉能力は、停戦交渉でも発揮された。

 なぜわずか1ピアストルにこだわるか。
 無駄に使えば「あいつは金の価値を知らない」と馬鹿にされる。ひとたび馬鹿にされたら、次からはカモにされて、家屋敷さえむしりとられる。
 ベトナムの社会にはこうした苛酷さがある。飛ぶ鳥を落とす権勢をほこったグエン・カオ・キ元副大統領も、ひとたび失脚するや、釣瓶落としに凋落した。
 奔放に見えて苛酷、悠長に見えてまったく気を許せないベトナム社会の自由の状況に耐えていくには、自前の価値観をしっかりと固めておかねばならない、と著者はいう。
 ちなみに、フランス人も米国人も、しわい駆け引きをする。
 だが、日本人は、売り手の言い値の8割で妥協する「アッサリ型」か自分の言い値を譲らない「頑固型」の2種類に分かれるそうな。交渉能力に欠けるのである。

 距離的にはさほど遠くないベトナムだが、遠い米国よりもよく知らない・・・・というのが大方の日本人だろう。
 当時サンケイ新聞社記者だった著者、近藤紘一は、ベトナムとその民を日本人に身近くひきよせてくれた。惜しくも1986年没、享年45歳。あまりに早すぎる死だといわねばならない。

□近藤紘一『サイゴンから来た妻と娘』(文春文庫、1981)
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