(1)日本は、もともと大規模な地震が非常に多い国だった。ところが、終戦直後の昭和南海地震を最後に、阪神淡路大震災までの50年間は、日本列島の歴史でも地震が少ない時期だった。その間に、奇跡の経済成長を遂げ、日本は経済大国になった。
1991年にバブル景気が崩壊し、「失われた20年」が始まった。1995年の段階でも本格的な景気回復はなかった。そこに阪神淡路大震災が起きた。その後、橋本龍太郎内閣が誕生し、1997年に消費税の税率を上げ、1998年からデフレに突入した。
地震が活動期に入った途端、経済成長が吹き飛んだ。1995年より今のほうが名目GDPが低い。
(2)戦後、例外的に大地震のない50年間、はからずも冷戦構造の中で核の傘に守られ、近隣諸国との安全保障上の問題を主体的に考える必要がなかった。しかも、右肩上がりの経済成長の恩恵をぬくぬくと享受できた。平和な時代だった。その中で、日本人は「死」をまじめに取り合わなかった。カタストロフィについても考えず、日常生活の中のリスクすらそれほど考えずに生きてきた。その時代が、阪神淡路大震災前後にガタガタッと終わった。
時代の流れは1995年に変わったが、その後の15年間、さながら何も変わっていないかのように生き続けている日本人が大量にいた。
そのまっただ中で、再び大震災が日本列島を襲った。
この震災は、「危機の中で生きている」ことを思い起こさせる。
(3)3・11後、山ほど言説があるが、実際どう変わったのかに関する言説は少ない。しかし、例外はある。
これから語るべきは死ではなく、死者論だ。たくさんの死を目の前にした時、われわれは死者についてどう考えるべきか。日本人は死者をどう扱ってきたのか。【若松英輔『魂にふれる 大震災と、生きている死者』】
(4)われわれ人類は、過去、本当にたくさんの災難に苛まれてきた。振り返ると、人類が進化してきたのは、肉や魚や野菜を食って成長してきたのと同じように、災難というものを食ってきたからだろう。とすると、もし人間に災難があまり降りかからなければ、人々は飢餓状態になるだろう。つまり、われわれの社会の調子が狂ってしまい、活力や元気をなくし、おかしくなってしまうのではないか。災難こそ、日本人を日本人たらしめた・・・・。【寺田寅彦「災難雑考」】
寺田寅彦は、関東大震災後にこう感じた。村上春樹は、阪神淡路大震災後に、1995年を境に日本の時代が変わった、という。
(5)しかし、日本人の大多数は、寺田寅彦のいわゆる「食う」ことをしなかった。なぜか。
最終的に人間は、本来的な人間と非本来的な人間の2種類に分かれる。そのあり方を時間制について言えば、本来的時間性と非本来的時間性だ。本来的時間性に生きる人間とは、死を十二分に理解している人、死に対して先駆的に覚悟する人だ。自分が死ぬことを当たり前のように認識している人だ。他方、非本来的な人間は、死を予期できない。自分が死ぬと理屈では分かっていても、肝では分からない人は、非本来的時間のうちに生きている。人間の道徳的な退廃は、自らの死を認識することができないことに起因する。この現実の中で、この大地の上でしっかり生きていこうという覚悟は、自らの死の認識から芽生えてくる。自分が死ぬとわかっているからこそ、今のこの時間を一生懸命に生きることができる。逆に、死を考えていないと、昨日のことが今日も続き、今日のことが明日も続く、というように無限にのんべんだらりと生きる人間になってしまう。【ハイデガー『存在と時間』】
寺田寅彦のいわゆる「災難を食う」とは、ハイデガー流に言えば、死をありありと改めて理解する、ということだ。非本来的に生きがちな人間が、再び本来的時間性のうちに生きる契機を得る。それが「災難を食う」ということだ。
ところが、あの巨大な大震災といえども、日本員に災難を食わせるには至らなかった。非本来的時間性のうちにあって、平和という共同幻想を抱いて生きている日本人には効果がなかった。
実際、震災の前後で、結局何も変わっていない。いつもの日常生活が繰り返されるのが実態だ。
(6)政治と災害は、けっこう奥深いところでつながっている。
岸和田のだんじり祭は、まさに避難訓練だ。町中を走り回ることで、どこからどう逃げればいいかを知悉する。しかも勢いよく走るので、道路などをある程度大きくしておかねばならない。そういう意味で防災と関係している。
室根神社(岩手県南部、室根山)では3年に1回、陸奥室根の荒祭りをやる。神輿が山の高台まで先陣争いをする。そこに一つの掟があって、海の方角を絶対に振り返ってはいけない。これは津波からの避難訓練だ。
ネパールのある祭りも、災害対策、防災訓練のシンボリックなものだ。シンボリックなものや儀式的なものの操作を研究する社会人類学の手法で解き明かすことができる。
文学や芸術の中にも災害や防災の記憶が残っている。『方丈記』一つをとっても、日本人がいかに災害や死と隣り合わせで生きてきたかがわかる。
(7)政治をマツリゴトというように、政治の原型は祭りだ。
人間は自分の利益を考えて利己的に動くと協力できない。ところが、協力しないとみんなが損をする。典型例は、囚人のジレンマ。
数人なら、協力したほうが得だ、と理解できる。しかし、村単位になると難しい。町単位になると、もっと無図kしい。国家単位になると、ほとんど不可能になる。
では、どうすれば国家や政治が生まれるのか。その由来は祭りだ。みんなが一斉に集まって興奮状態に陥って、神輿を担いで走ったり踊ったりする。それが原型になって、長い年月をかけて政治が生まれ、国家が生まれる。だから、もともと人間の非合理なものが政治の根幹にある。【ホセ・オルテガ】
災害の時には、人間は協力しないといけない。でも、協力できない。ところが、人間は不思議なことに、祭りという形で協力行動を表現してきた。それは政治の原型でもある。こういう原初的なものを、今回の大震災でわれわれは目の当たりにしたのではないか。
以上、藤井聡/中野剛志『日本破滅論』(文春新書、2012)の第1章「大震災を食う--危機論」に拠る。
↓クリック、プリーズ。↓
1991年にバブル景気が崩壊し、「失われた20年」が始まった。1995年の段階でも本格的な景気回復はなかった。そこに阪神淡路大震災が起きた。その後、橋本龍太郎内閣が誕生し、1997年に消費税の税率を上げ、1998年からデフレに突入した。
地震が活動期に入った途端、経済成長が吹き飛んだ。1995年より今のほうが名目GDPが低い。
(2)戦後、例外的に大地震のない50年間、はからずも冷戦構造の中で核の傘に守られ、近隣諸国との安全保障上の問題を主体的に考える必要がなかった。しかも、右肩上がりの経済成長の恩恵をぬくぬくと享受できた。平和な時代だった。その中で、日本人は「死」をまじめに取り合わなかった。カタストロフィについても考えず、日常生活の中のリスクすらそれほど考えずに生きてきた。その時代が、阪神淡路大震災前後にガタガタッと終わった。
時代の流れは1995年に変わったが、その後の15年間、さながら何も変わっていないかのように生き続けている日本人が大量にいた。
そのまっただ中で、再び大震災が日本列島を襲った。
この震災は、「危機の中で生きている」ことを思い起こさせる。
(3)3・11後、山ほど言説があるが、実際どう変わったのかに関する言説は少ない。しかし、例外はある。
これから語るべきは死ではなく、死者論だ。たくさんの死を目の前にした時、われわれは死者についてどう考えるべきか。日本人は死者をどう扱ってきたのか。【若松英輔『魂にふれる 大震災と、生きている死者』】
(4)われわれ人類は、過去、本当にたくさんの災難に苛まれてきた。振り返ると、人類が進化してきたのは、肉や魚や野菜を食って成長してきたのと同じように、災難というものを食ってきたからだろう。とすると、もし人間に災難があまり降りかからなければ、人々は飢餓状態になるだろう。つまり、われわれの社会の調子が狂ってしまい、活力や元気をなくし、おかしくなってしまうのではないか。災難こそ、日本人を日本人たらしめた・・・・。【寺田寅彦「災難雑考」】
寺田寅彦は、関東大震災後にこう感じた。村上春樹は、阪神淡路大震災後に、1995年を境に日本の時代が変わった、という。
(5)しかし、日本人の大多数は、寺田寅彦のいわゆる「食う」ことをしなかった。なぜか。
最終的に人間は、本来的な人間と非本来的な人間の2種類に分かれる。そのあり方を時間制について言えば、本来的時間性と非本来的時間性だ。本来的時間性に生きる人間とは、死を十二分に理解している人、死に対して先駆的に覚悟する人だ。自分が死ぬことを当たり前のように認識している人だ。他方、非本来的な人間は、死を予期できない。自分が死ぬと理屈では分かっていても、肝では分からない人は、非本来的時間のうちに生きている。人間の道徳的な退廃は、自らの死を認識することができないことに起因する。この現実の中で、この大地の上でしっかり生きていこうという覚悟は、自らの死の認識から芽生えてくる。自分が死ぬとわかっているからこそ、今のこの時間を一生懸命に生きることができる。逆に、死を考えていないと、昨日のことが今日も続き、今日のことが明日も続く、というように無限にのんべんだらりと生きる人間になってしまう。【ハイデガー『存在と時間』】
寺田寅彦のいわゆる「災難を食う」とは、ハイデガー流に言えば、死をありありと改めて理解する、ということだ。非本来的に生きがちな人間が、再び本来的時間性のうちに生きる契機を得る。それが「災難を食う」ということだ。
ところが、あの巨大な大震災といえども、日本員に災難を食わせるには至らなかった。非本来的時間性のうちにあって、平和という共同幻想を抱いて生きている日本人には効果がなかった。
実際、震災の前後で、結局何も変わっていない。いつもの日常生活が繰り返されるのが実態だ。
(6)政治と災害は、けっこう奥深いところでつながっている。
岸和田のだんじり祭は、まさに避難訓練だ。町中を走り回ることで、どこからどう逃げればいいかを知悉する。しかも勢いよく走るので、道路などをある程度大きくしておかねばならない。そういう意味で防災と関係している。
室根神社(岩手県南部、室根山)では3年に1回、陸奥室根の荒祭りをやる。神輿が山の高台まで先陣争いをする。そこに一つの掟があって、海の方角を絶対に振り返ってはいけない。これは津波からの避難訓練だ。
ネパールのある祭りも、災害対策、防災訓練のシンボリックなものだ。シンボリックなものや儀式的なものの操作を研究する社会人類学の手法で解き明かすことができる。
文学や芸術の中にも災害や防災の記憶が残っている。『方丈記』一つをとっても、日本人がいかに災害や死と隣り合わせで生きてきたかがわかる。
(7)政治をマツリゴトというように、政治の原型は祭りだ。
人間は自分の利益を考えて利己的に動くと協力できない。ところが、協力しないとみんなが損をする。典型例は、囚人のジレンマ。
数人なら、協力したほうが得だ、と理解できる。しかし、村単位になると難しい。町単位になると、もっと無図kしい。国家単位になると、ほとんど不可能になる。
では、どうすれば国家や政治が生まれるのか。その由来は祭りだ。みんなが一斉に集まって興奮状態に陥って、神輿を担いで走ったり踊ったりする。それが原型になって、長い年月をかけて政治が生まれ、国家が生まれる。だから、もともと人間の非合理なものが政治の根幹にある。【ホセ・オルテガ】
災害の時には、人間は協力しないといけない。でも、協力できない。ところが、人間は不思議なことに、祭りという形で協力行動を表現してきた。それは政治の原型でもある。こういう原初的なものを、今回の大震災でわれわれは目の当たりにしたのではないか。
以上、藤井聡/中野剛志『日本破滅論』(文春新書、2012)の第1章「大震災を食う--危機論」に拠る。
↓クリック、プリーズ。↓