(承前)
(4)「分島改約」という主権の放棄
(a)1879年6月、グラント・米国前大統領が清朝政府からの依頼に応じ、日清間の調停を行ってから事態は変化した。翌1880年8月18日から同年10月21日まで、北京で日清間交渉が行われた。
(b)琉球問題での譲歩、別方面での利益獲得・・・・をグラントから勧められていた日本は、李鴻章の意向を探るべく竹添進一郎を事前に派遣。同年3月26日に竹添・李会談が実現した。竹添は口上書を提出した。
①琉球南部諸島(先島諸島)が日本を領有すると台湾(中国の属国)を脅かそうとする勢いがあるように見える。李鴻章が争っている理由がここにあることがようやく分かった。
②日本に西洋と動揺の内地通商権を与えるなら、日本も<琉球の宮古島と八重山島を中国の領土と定めて、両国の国境線を引いても構いません>【「日本竹添進一郎説話」】。
③李鴻章はしかし、②を「ドサクサ紛れの要求」だとして拒んだ。
(c)井上馨・外務卿は、宍戸・特命全権大使に与えた「談判手続内訓状」で、依然として「分島」と「改約」の「抱き合わせ」を堅持するよう命じた。なぜか。関税自主権回復の新条約を米国と調印していた(1878年7月)が、領事裁判権・協定関税の相互承認といった日清修好条規中の変則な不平等性を改正しなければ、米国が条約改正後に「最恵国待遇」を発動する危険があったからだ。
(d)追い風になったのは、露清間の領土問題だった(サンクトペテルブルグで当時交渉中)。日露に「挟み撃ち」されることを恐れる清朝は、当初から日本に妥協的だった。交渉の結果、宍戸は1880年10月、2島の清領化と引き換えに欧米なみの最恵国待遇や内地通商権を認める内容の条約改正案に合意し、調印を待つだけになった。
(e)しかし、清朝内部交換から、この案への批判が出てきたため、調印が少しずつ引き伸ばされていった。露清間交渉が解決し、「挟み撃ち」のリスクが大きく低下したのだ。・・・・以降、調印を催促する日本側と、のらりくらりと引き延ばし策を図る清朝側との対立、という構図がしばらく続く。「分島改約」の構想は、御破算になった。
(5)資源確保のための「分島」撤回
(a)先島諸島の主権は日本に残った。ただし、その原因は、日本の「毅然たる対応」などではなく、同意に達していた改正条約に清朝が調印しなかったことに由来する。
(b)先島諸島が経済的利益のために、日本政府に主権を危うく遺棄されそうになった事実は重大だ。外務省のいわゆる「固有の領土」は、先島諸島の「分島」政策を無かったことにしたい欲望が隠されている。
(c)清朝は、1880年代、軍事力で日本より優勢にあった。対露外交が一段落して以降、経済的に自立不可能な先島諸島のみを領有するより、琉球の親清朝的な旧勢力の回復を、つまりは「外藩」としての琉球の維持をめざすほうが、日本に対する安全保障という意味でも合理的と考えるようになっていた。
(d)日本も、井上馨・外務卿が榎本武揚・駐北京公使に宛てて1885年5月16日付けの英文電信を送った頃には、「分島改約」に関心を失っていた。欧州植民地主義の東漸、先島諸島における石炭産出という事情が背景にあった。
(e)同年4月20日の榎本武揚・李鴻章会談でも、榎本は先島諸島における石炭産出に言及し、鶏龍と石炭脈がつながっているのかもしれないと述べ、しかも「宮古諸島」を「我が属島」と明言している【「榎本公使李鴻章ト対話記事」】。
(f)欧州の植民地政策にしても、井上らの最も念頭にあったのは、前年まで行われていた清仏戦争だ。この戦争の戦場の一つがまさに台湾北部の鶏龍で、ここも炭坑で有名な場所だった。この時点で日本が恐れていたのは、清朝のみならず、欧米列強までもが台湾はおろか、琉球諸島まで浸蝕してくることだった。
(6)尖閣諸島の領有化
(a)安全保障、天然資源確保・・・・という観点から先島の領有継続が決まると、次に周辺海域で他国より先に未発見の島嶼を見つけ、占有権を確立して日本領にしておくことが必要になった。その結果、未開拓の無人島として確認されたのが、大東諸島と尖閣諸島だった。
(b)大東諸島は、①定住可能な水資源があったこと、②中国大陸や台湾から一定の距離があったことから、占有権の論理にしたがい、1885年に日本領として宣言された。
(c)尖閣諸島はどうか。大東諸島の日本領編入と同じ1885年9月22日、西村捨三・沖縄県令が山県有朋・内務卿に宛てた上申で、「『中山伝信碌』(徐葆光・清朝来琉冊封使の著)に載っている釣魚台・黄尾嶼・赤尾嶼と同じものではないかという疑いがないわけではございません」として、占有権を主張すると微妙な緊張が走る可能性を示唆し、そのうえで、日本領であることを告げる国標を立てよう、と伺いを立てた。山県は、井上馨・外務卿と協議のうえ、同年12月5日に井上と連名で西村に国標建設却下の命令を下した。
(d)日本にとって、当時、尖閣諸島に関して配慮すべきは、欧米列強ではなく、海軍力で日本に勝る清朝だった。北洋艦隊は7,000トン級の戦艦を複数所有し、まだ4,000トン級しか持たない日本海軍と比べ、その海軍力の差は歴然としていた。
(e)だが、1880年代前半の「分島」政策放棄により、先島諸島の周辺島嶼を逆に、なるべく日本の主権下に置こうという狙いが生まれていた。
(f)尖閣諸島とその周辺地域を用いる水産業者を管理する必要があり、1890年になると、沖縄県知事から尖閣諸島の所管官庁を定めたい、という伺いが届くようになる。しかし、それでもなお、国標設置(=領有化)には踏みきれず、大東諸島とは正反対の道を歩むこととなった。
(g)1893年11月2日、奈良原繁・沖縄県知事が、漁業取り締まりのための標杭設置をまたもや中央政府に要請した。日清戦争直前のこと。沖縄県当局は、日清戦争のドサクサの中で尖閣諸島問題の解決を図ったのではない。とはいえ、日清の軍拡競争で緊張が走る中、琉球諸島の主権をめぐる争いは、大東と尖閣に達した時点で、すでに沸点に達していた。
(h)1895年1月4日、日本の戦勝が決定的な局面で、尖閣の日本領編入が行われた。その背景には、あくまで先島諸島(=沖縄県)の一部として扱いたい日本側の意向が強く影響していた。
(7)結論
(a)尖閣諸島に国標を設置するまでの間、日清間で尖閣諸島問題が話し合われたことは皆無だった。
(b)清朝からすると、清朝は沖縄県設置に反対した(沖縄県の帰属を争った)。よって、琉球海域に存在する尖閣諸島について、自国領だとわざわざ独自に述べる必要はなかった(尖閣諸島に限った帰属問題の議論を出す必要はなかった)。尖閣諸島の帰属問題と沖縄の帰属問題とは同じ位相にある問題だった。
(c)日本は、先島諸島放棄を企画した(中国は企画していない)。
(d)(b)を一挙に解決したのが日清戦争だ。日清戦争の結果、台湾が日本に割譲されたので、沖縄の帰属問題も考える必要のない問題となった。日本政府は沖縄問題を国内問題として扱ったため、下関条約でも尖閣諸島はおろか、沖縄の帰属自体が全く触れられなかった。法理的な意味での沖縄の帰属問題は棚上げされてしまった。しかも、尖閣諸島もまた、割譲の対象としてではなく、ぎりぎりのタイミングで沖縄県の管轄に編入されたため、下関条約の議論から抜け落ちてしまった。
(e)十五年戦争後、沖縄は米軍の占領下に置かれ、その後日本に返還されたため、法理上の帰属問題は議論の場もないまま今日に至った。法理的な決着がついていないから、日中双方とも自国領だと主張する法理が構築可能だ。そのため、尖閣問題は消え去ることがない。しかも、それは、沖縄現地に歴史的主体性が存在していることを必ず無視する形で行われている。
(f)(b)と(c)が不可視されることで、尖閣諸島は「固有の領土」たる地位を手に入れる。だから、外務省の説明には、この2点の説明がない。
(g)尖閣の歴史(1885年以前)を見ないと、沖縄帰属問題に係る法理上の不一貫性が曖昧になる。「固有の領土」という題目がひたすら唱え続けられることになる。歴史に目をつぶれば、国威発揚の領土ナショナリズムが幅をきかすだけだ。民主党政権の前には「対話」があった。いま、対話のチャンネルが閉ざされたまま、題目を唱え続けるだけだと、法理上の問題が残る。尖閣諸島問題は解決されない。
以上、羽根次郎「尖閣問題に内在する法理的矛盾 ~「固有の領土」論の克服のために」(「世界」2012年11月号)に拠る。
【参考】
「【尖閣】諸島「領有化」の歴史と法理 ~琉球の実効支配~」
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(4)「分島改約」という主権の放棄
(a)1879年6月、グラント・米国前大統領が清朝政府からの依頼に応じ、日清間の調停を行ってから事態は変化した。翌1880年8月18日から同年10月21日まで、北京で日清間交渉が行われた。
(b)琉球問題での譲歩、別方面での利益獲得・・・・をグラントから勧められていた日本は、李鴻章の意向を探るべく竹添進一郎を事前に派遣。同年3月26日に竹添・李会談が実現した。竹添は口上書を提出した。
①琉球南部諸島(先島諸島)が日本を領有すると台湾(中国の属国)を脅かそうとする勢いがあるように見える。李鴻章が争っている理由がここにあることがようやく分かった。
②日本に西洋と動揺の内地通商権を与えるなら、日本も<琉球の宮古島と八重山島を中国の領土と定めて、両国の国境線を引いても構いません>【「日本竹添進一郎説話」】。
③李鴻章はしかし、②を「ドサクサ紛れの要求」だとして拒んだ。
(c)井上馨・外務卿は、宍戸・特命全権大使に与えた「談判手続内訓状」で、依然として「分島」と「改約」の「抱き合わせ」を堅持するよう命じた。なぜか。関税自主権回復の新条約を米国と調印していた(1878年7月)が、領事裁判権・協定関税の相互承認といった日清修好条規中の変則な不平等性を改正しなければ、米国が条約改正後に「最恵国待遇」を発動する危険があったからだ。
(d)追い風になったのは、露清間の領土問題だった(サンクトペテルブルグで当時交渉中)。日露に「挟み撃ち」されることを恐れる清朝は、当初から日本に妥協的だった。交渉の結果、宍戸は1880年10月、2島の清領化と引き換えに欧米なみの最恵国待遇や内地通商権を認める内容の条約改正案に合意し、調印を待つだけになった。
(e)しかし、清朝内部交換から、この案への批判が出てきたため、調印が少しずつ引き伸ばされていった。露清間交渉が解決し、「挟み撃ち」のリスクが大きく低下したのだ。・・・・以降、調印を催促する日本側と、のらりくらりと引き延ばし策を図る清朝側との対立、という構図がしばらく続く。「分島改約」の構想は、御破算になった。
(5)資源確保のための「分島」撤回
(a)先島諸島の主権は日本に残った。ただし、その原因は、日本の「毅然たる対応」などではなく、同意に達していた改正条約に清朝が調印しなかったことに由来する。
(b)先島諸島が経済的利益のために、日本政府に主権を危うく遺棄されそうになった事実は重大だ。外務省のいわゆる「固有の領土」は、先島諸島の「分島」政策を無かったことにしたい欲望が隠されている。
(c)清朝は、1880年代、軍事力で日本より優勢にあった。対露外交が一段落して以降、経済的に自立不可能な先島諸島のみを領有するより、琉球の親清朝的な旧勢力の回復を、つまりは「外藩」としての琉球の維持をめざすほうが、日本に対する安全保障という意味でも合理的と考えるようになっていた。
(d)日本も、井上馨・外務卿が榎本武揚・駐北京公使に宛てて1885年5月16日付けの英文電信を送った頃には、「分島改約」に関心を失っていた。欧州植民地主義の東漸、先島諸島における石炭産出という事情が背景にあった。
(e)同年4月20日の榎本武揚・李鴻章会談でも、榎本は先島諸島における石炭産出に言及し、鶏龍と石炭脈がつながっているのかもしれないと述べ、しかも「宮古諸島」を「我が属島」と明言している【「榎本公使李鴻章ト対話記事」】。
(f)欧州の植民地政策にしても、井上らの最も念頭にあったのは、前年まで行われていた清仏戦争だ。この戦争の戦場の一つがまさに台湾北部の鶏龍で、ここも炭坑で有名な場所だった。この時点で日本が恐れていたのは、清朝のみならず、欧米列強までもが台湾はおろか、琉球諸島まで浸蝕してくることだった。
(6)尖閣諸島の領有化
(a)安全保障、天然資源確保・・・・という観点から先島の領有継続が決まると、次に周辺海域で他国より先に未発見の島嶼を見つけ、占有権を確立して日本領にしておくことが必要になった。その結果、未開拓の無人島として確認されたのが、大東諸島と尖閣諸島だった。
(b)大東諸島は、①定住可能な水資源があったこと、②中国大陸や台湾から一定の距離があったことから、占有権の論理にしたがい、1885年に日本領として宣言された。
(c)尖閣諸島はどうか。大東諸島の日本領編入と同じ1885年9月22日、西村捨三・沖縄県令が山県有朋・内務卿に宛てた上申で、「『中山伝信碌』(徐葆光・清朝来琉冊封使の著)に載っている釣魚台・黄尾嶼・赤尾嶼と同じものではないかという疑いがないわけではございません」として、占有権を主張すると微妙な緊張が走る可能性を示唆し、そのうえで、日本領であることを告げる国標を立てよう、と伺いを立てた。山県は、井上馨・外務卿と協議のうえ、同年12月5日に井上と連名で西村に国標建設却下の命令を下した。
(d)日本にとって、当時、尖閣諸島に関して配慮すべきは、欧米列強ではなく、海軍力で日本に勝る清朝だった。北洋艦隊は7,000トン級の戦艦を複数所有し、まだ4,000トン級しか持たない日本海軍と比べ、その海軍力の差は歴然としていた。
(e)だが、1880年代前半の「分島」政策放棄により、先島諸島の周辺島嶼を逆に、なるべく日本の主権下に置こうという狙いが生まれていた。
(f)尖閣諸島とその周辺地域を用いる水産業者を管理する必要があり、1890年になると、沖縄県知事から尖閣諸島の所管官庁を定めたい、という伺いが届くようになる。しかし、それでもなお、国標設置(=領有化)には踏みきれず、大東諸島とは正反対の道を歩むこととなった。
(g)1893年11月2日、奈良原繁・沖縄県知事が、漁業取り締まりのための標杭設置をまたもや中央政府に要請した。日清戦争直前のこと。沖縄県当局は、日清戦争のドサクサの中で尖閣諸島問題の解決を図ったのではない。とはいえ、日清の軍拡競争で緊張が走る中、琉球諸島の主権をめぐる争いは、大東と尖閣に達した時点で、すでに沸点に達していた。
(h)1895年1月4日、日本の戦勝が決定的な局面で、尖閣の日本領編入が行われた。その背景には、あくまで先島諸島(=沖縄県)の一部として扱いたい日本側の意向が強く影響していた。
(7)結論
(a)尖閣諸島に国標を設置するまでの間、日清間で尖閣諸島問題が話し合われたことは皆無だった。
(b)清朝からすると、清朝は沖縄県設置に反対した(沖縄県の帰属を争った)。よって、琉球海域に存在する尖閣諸島について、自国領だとわざわざ独自に述べる必要はなかった(尖閣諸島に限った帰属問題の議論を出す必要はなかった)。尖閣諸島の帰属問題と沖縄の帰属問題とは同じ位相にある問題だった。
(c)日本は、先島諸島放棄を企画した(中国は企画していない)。
(d)(b)を一挙に解決したのが日清戦争だ。日清戦争の結果、台湾が日本に割譲されたので、沖縄の帰属問題も考える必要のない問題となった。日本政府は沖縄問題を国内問題として扱ったため、下関条約でも尖閣諸島はおろか、沖縄の帰属自体が全く触れられなかった。法理的な意味での沖縄の帰属問題は棚上げされてしまった。しかも、尖閣諸島もまた、割譲の対象としてではなく、ぎりぎりのタイミングで沖縄県の管轄に編入されたため、下関条約の議論から抜け落ちてしまった。
(e)十五年戦争後、沖縄は米軍の占領下に置かれ、その後日本に返還されたため、法理上の帰属問題は議論の場もないまま今日に至った。法理的な決着がついていないから、日中双方とも自国領だと主張する法理が構築可能だ。そのため、尖閣問題は消え去ることがない。しかも、それは、沖縄現地に歴史的主体性が存在していることを必ず無視する形で行われている。
(f)(b)と(c)が不可視されることで、尖閣諸島は「固有の領土」たる地位を手に入れる。だから、外務省の説明には、この2点の説明がない。
(g)尖閣の歴史(1885年以前)を見ないと、沖縄帰属問題に係る法理上の不一貫性が曖昧になる。「固有の領土」という題目がひたすら唱え続けられることになる。歴史に目をつぶれば、国威発揚の領土ナショナリズムが幅をきかすだけだ。民主党政権の前には「対話」があった。いま、対話のチャンネルが閉ざされたまま、題目を唱え続けるだけだと、法理上の問題が残る。尖閣諸島問題は解決されない。
以上、羽根次郎「尖閣問題に内在する法理的矛盾 ~「固有の領土」論の克服のために」(「世界」2012年11月号)に拠る。
【参考】
「【尖閣】諸島「領有化」の歴史と法理 ~琉球の実効支配~」
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