(1)敗戦後この方、日本人はさながら南の島の楽園に住んでいるかのような錯覚に陥っていた。普通に勉強して普通に就職すれば、とにかくご飯が食べていけた。それはすばらしいことだったが、リスクというものを忘れてしまった。平和な空間の中でわれわれは政治をなくし、制度をなくし、そしてモラルをなくした。
その結果が3・11後の政治の停滞だ。復興事業もろくに行わず、TPPだの増税だのと騒いでばかりいる。挙げ句の果てには、橋下徹なる人物を祭り上げてメディア総出で政治ショーを楽しんでいる。みんな、自分たちが南の島のパラダイスにいると思い込んでいる。
(2)現実は、グローバル資本主義の暴走によって、どんどん世界大恐慌のリスクが迫り来ている。東日本大震災が首都直下地震と西日本大震災の予兆であることは、科学的にほぼ明々白々な状況にある。かつ、中国が空母をもつような状況で国防を怠っていると、ますます危機が深まっていく。
一寸先にまで「死」の危機が近づいているのが実態なのに、それが見えていない。平和主義の虚構が脳髄の奥の奥まで浸透してしまったからだ。
(3)さらに、平和ぼけ空間の中で何もかも失った果てに、日本人同士の同胞意識、ナショナリズムという精神の制度もなくしてしまった。歴史や文化、風習を共有する「日本人」ではなく、遺伝子が日本民族であるにすぎない片仮名の「ニホンジン」になってしまった。よって、東北の人に対する同胞意識も溶解してしまった。
多くの日本人が今回の震災を「食う」ことができなかったのは、これがわが同胞に降りかかった天災なのだ、という感覚が薄かったからだ。さながら遠い場所の赤の他人がかわいそうな状況に遭遇してしまった、という程度の認識しかなかったのではないか。
危機意識も同胞意識もなくしたニホンジンたちは、せっかくそこにある災難を食うことができない虚弱体質になってしまった。
(4)全体としては(3)のような事態ではあっても、表層の流れはそうであっても、若松英輔の死者論のように日本民族を一つの塊と見ると、深層の流れにおいては震災を「食う」という事態が潜在的に生じていたのではないか。被災者の佇まいに、そうした潮の流れを見いだすことができた。
ただし、あくまでも被災者の佇まいの中に見いだしたに過ぎず、非被災地の人々の言動からは、軽薄な偽善的な匂い以外を感じ取ることは困難だった。
(5)「助けなきゃ。一つになろう」が偽善でないならば、行動で示さなくてはならない。しかし、実際に起きているのは、その逆だ。
その典型例は、こうだ。3月に600年に一度の大震災が起きて、全力で対応しなければならないのに、この国は6月に財源の話をし始めた。これは、「自分の親や子が死にかかっていて、お金を出して治療すれば助かるという時に、お金がもったいないから見捨てる」という話に近い。
国レベルでいえば、戦争が起きたら、どの国も戦時国債を発行して必死に防衛する。財源がない、といって軍艦を造らなければ占領されてしまう。だから、とりあえず借金をして、軍艦を造って、戦争が終わったら返していく。これが常識だ。
今回の震災の場合、外国から借金してでも、まずは救済、復興をしなければいけない。しかも日本は、外国から借金する必要はない。むしろ、世界で最も外国にお金を貸している国だ。
その日本が6月には財源の議論を始めた。財源の制約があるから、お金を出せないと政治家たちが言い出した。なのに、それを誰もおかしいとは言わない。マスメディアも財源の議論をむしろ積極的に捉えている節がある。だから、「一つ」にはなっていない。
(6)「一つになろう」は、たしかに建前だ。建前であってもよい。それは仕方ない。だが、本当に建前だけで済ませてしまっている。しかも、建前を過剰にしてみせれば、本音は出さなくてもいいように思われている。全く最低だ。
「一つになろう」というようなきれい事はあまり言わないけれども、見捨ててもおけないので、やるべきことをきちんとやる。そういう人々は、マスメディアでは注目されていないが、確かにいる。
しかし、マスメディアに出てくる光景は、きれい事を過剰に言っておけば、本音では利己的でも、誰からも非難されない。「私たちは、こんなに被災者思いのいい人だね」とお互いで言い合っているだけだが。
以上、藤井聡/中野剛志『日本破滅論』(文春新書、2012)の第1章「大震災を食う--危機論」に拠る。
【参考】
「【震災】によって日本人は変ったか ~震災を食う~」
「【震災】避難が残す割り切れないもの ~津波てんでんこ~」
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その結果が3・11後の政治の停滞だ。復興事業もろくに行わず、TPPだの増税だのと騒いでばかりいる。挙げ句の果てには、橋下徹なる人物を祭り上げてメディア総出で政治ショーを楽しんでいる。みんな、自分たちが南の島のパラダイスにいると思い込んでいる。
(2)現実は、グローバル資本主義の暴走によって、どんどん世界大恐慌のリスクが迫り来ている。東日本大震災が首都直下地震と西日本大震災の予兆であることは、科学的にほぼ明々白々な状況にある。かつ、中国が空母をもつような状況で国防を怠っていると、ますます危機が深まっていく。
一寸先にまで「死」の危機が近づいているのが実態なのに、それが見えていない。平和主義の虚構が脳髄の奥の奥まで浸透してしまったからだ。
(3)さらに、平和ぼけ空間の中で何もかも失った果てに、日本人同士の同胞意識、ナショナリズムという精神の制度もなくしてしまった。歴史や文化、風習を共有する「日本人」ではなく、遺伝子が日本民族であるにすぎない片仮名の「ニホンジン」になってしまった。よって、東北の人に対する同胞意識も溶解してしまった。
多くの日本人が今回の震災を「食う」ことができなかったのは、これがわが同胞に降りかかった天災なのだ、という感覚が薄かったからだ。さながら遠い場所の赤の他人がかわいそうな状況に遭遇してしまった、という程度の認識しかなかったのではないか。
危機意識も同胞意識もなくしたニホンジンたちは、せっかくそこにある災難を食うことができない虚弱体質になってしまった。
(4)全体としては(3)のような事態ではあっても、表層の流れはそうであっても、若松英輔の死者論のように日本民族を一つの塊と見ると、深層の流れにおいては震災を「食う」という事態が潜在的に生じていたのではないか。被災者の佇まいに、そうした潮の流れを見いだすことができた。
ただし、あくまでも被災者の佇まいの中に見いだしたに過ぎず、非被災地の人々の言動からは、軽薄な偽善的な匂い以外を感じ取ることは困難だった。
(5)「助けなきゃ。一つになろう」が偽善でないならば、行動で示さなくてはならない。しかし、実際に起きているのは、その逆だ。
その典型例は、こうだ。3月に600年に一度の大震災が起きて、全力で対応しなければならないのに、この国は6月に財源の話をし始めた。これは、「自分の親や子が死にかかっていて、お金を出して治療すれば助かるという時に、お金がもったいないから見捨てる」という話に近い。
国レベルでいえば、戦争が起きたら、どの国も戦時国債を発行して必死に防衛する。財源がない、といって軍艦を造らなければ占領されてしまう。だから、とりあえず借金をして、軍艦を造って、戦争が終わったら返していく。これが常識だ。
今回の震災の場合、外国から借金してでも、まずは救済、復興をしなければいけない。しかも日本は、外国から借金する必要はない。むしろ、世界で最も外国にお金を貸している国だ。
その日本が6月には財源の議論を始めた。財源の制約があるから、お金を出せないと政治家たちが言い出した。なのに、それを誰もおかしいとは言わない。マスメディアも財源の議論をむしろ積極的に捉えている節がある。だから、「一つ」にはなっていない。
(6)「一つになろう」は、たしかに建前だ。建前であってもよい。それは仕方ない。だが、本当に建前だけで済ませてしまっている。しかも、建前を過剰にしてみせれば、本音は出さなくてもいいように思われている。全く最低だ。
「一つになろう」というようなきれい事はあまり言わないけれども、見捨ててもおけないので、やるべきことをきちんとやる。そういう人々は、マスメディアでは注目されていないが、確かにいる。
しかし、マスメディアに出てくる光景は、きれい事を過剰に言っておけば、本音では利己的でも、誰からも非難されない。「私たちは、こんなに被災者思いのいい人だね」とお互いで言い合っているだけだが。
以上、藤井聡/中野剛志『日本破滅論』(文春新書、2012)の第1章「大震災を食う--危機論」に拠る。
【参考】
「【震災】によって日本人は変ったか ~震災を食う~」
「【震災】避難が残す割り切れないもの ~津波てんでんこ~」
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