語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【原発】金曜デモの変化・主張の多様化 ~ふくしま集団疎開裁判~

2012年10月11日 | 震災・原発事故
 (1)脱原発というシングル・イシューが説得力をもつのは、それが日本においてまったく他人事ではなく、「私たちは“99%”だ」という思いを共有できるからだ。
 最近、国会周辺に人々が拡散した結果、首都官邸前の集会のような求心力は低下した。しかし、その分、掲げるテーマが多様化し、集会参加者に流動性が加わり始めた。
 あちこちの官庁前で小さな渦のような集会が持たれるようになった。ドラム隊が順ぐりに訪問し、「再稼働反対!」「子どもを守れ!」のシュプレヒコールに強烈なリズムを与え、景気づけしていく。小さな渦と、それを加速しながらつなぐ新しいデモのスタイルだ。

 (2)散在する渦がよりどころにする台風の目のような場所がある。1年前から福島の女性たちが座り込みを続けている経産省前のテント村だ。
 9月11日、座り込み1周年の日、テント村に集まってきた人々が「かんしょ踊り」(「会津磐梯山」の原型)の講習会を始めた。「かんしょ」は「一心不乱」の意(会津方言)。苛斂誅求に抗議する農民の情念がこもっている、とされる。正規の盆踊りから排除され、占領期のGHQにも禁止された。それが、思わぬ復活を遂げ、いまでは「ドラム隊」と並んで国会周辺のスタンダードになりつつある。にわか仕立ての「かんしょ踊り」の一群が、経産省の周囲を練り歩いた。

 (3)テント村の筋向かいの文部科学省前では、「ふくしま集団疎開裁判」【注】の抗議集会。ここでも「かんしょ踊り」が恒常化している。 
 教育を受けるに安全な場所とは、日本の場合、法定で年間1mSv以下だが、郡山市にはそれをはるかに超える地区が多く存在する。しかし、福島地裁郡山支部は、債務者である郡山市が進めている除染活動やモニタリングの結果から切迫した危険性はないとして、原告の申し立てを退けた。その理由とされたのは、この裁判の原告による集団疎開の要求が認められれば、同様の教育環境にいる他の生徒たちにも適用されねばならず、そのためには原告・被告ともに被る負担を比較考量せざるをえないとし、郡山市が警戒区域でも計画的避難区域でもないことから、個人の自己決定に委ねるしかない、というものだった。
 この裁判について、マスメディアはほとんど取り上げてこなかった。
 しかし、毎週金曜日に文科省前で行われるアピールからさまざまな情報を得ることができる。
 <例>昨年12月、国連総会で、「子どもの権利条約」に「個人通報制度」が創設された(それぞれの国で救済手段を閉ざされた場合には、子ども自身がジュネーブの国連人権高等弁務官事務所に国への不満を申し立てられる)。これを日本はまだ批准していない。・・・・マスメディアがこれを報じた例はほとんどない。
 今秋、ジュネーブ人権理事会の調査団が福島を訪れ、子どもの置かれている状況をヒアリングする。・・・・この情報もあまり知られていない。

 (4)経産省の裏では、レゲエやラップで火炎瓶テツさんがTPPに抗議する。「TPPとACTA(偽造品の取引の防止に関する協定)が脱原発の妨げになっている」という主張だ。脱原発をグローバルな視野で論じようとしているのだ。
  (a)TPPは、国際企業のルールがどこかの国の国内法に優先する。国際的商取引の枠組みのなかに原子力産業があるかぎり、脱原発は無理だ。
  (b)ACTAは、情報の引用や拡散が規制できる。マスコミは情報の隠蔽に加担する。その隙間をぬって集めたインターネット情報でこうして集まることが困難になる・・・・。

 (5)この外にも、オスプレイの普天間配備に反対するグループ、「生活保護、恥じゃない」と叫ぶ受給者のデモも行われている。

 (6)マスメディアは、子ども裁判の存在、脱原発と国際社会の関係をほとんど報じない。「デモをしない社会」から「デモをする社会」に変貌しつつある現実を見ようとしていない。
 渦巻く不信や怒りが、これ以上無視され、見て見ぬふりの政治が行われれば、「今すぐデモクラシーを!」が次のシングル・イシューになるかもしれない。

 【注】「【原発】ふくしま集団疎開裁判 ~ネットの「世界市民法廷」~

 以上、神保太郎「メディア批評第59回」(「世界」2012年11月号)の「(1)“デモのある社会”のメディア」に拠る。
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