(1)空間とならぶ時間というものも、心で見る世界ではそれにふさわしいあらわれ方をする。時間とは何かの質問にこたえるのは本来非常にむずかしい。カントにならって、直感の形式であると答案にかくこともできようし、ものが変化していく過程において、その変化の前と後を示すために導入された量だとこたえることもできる。素朴な大概の人は、時というもののは一つの線の上にならんだ無数の点々で、それが絶え間なく未来から流れこんで現在という一つの時点となり、瞬間の後には過去に入って去ってゆくものだ、そして一旦去った時間は二度とよびかえせない一方的なものだと考えている。それから今日の一日の長さと昨日の一日の長さとはもちろん同じだし、一年の長さは365日できまっていると考えるものがふつうである。
(2)ところで昨日の一日と今日の一日の長さが同じかどうかを私どもの体験でためすとしよう。昨日の私が多忙な一日を送ったとすれば、仕事に忙殺されているあいだ、私は時間にかまっていられないから、そのときにあっては時はどんどんたってしまう。気がついてみるともう夕刻になっている。しかし仕事が終わってからあとで、その多忙の日の時間をふり返って見つもるときは、その一日は長かったとうけとられるのである。これと逆に、することがなくて時間をもてあましながらすごす日には、時はなかなかたってゆかない。ところがあとになってからこの日のことを思いかえすと、この退屈だった日は短い一日だったと回想される。つまり有能な一日は早くたつが、あとからは長かったと思われ、無能な一日はなかなか暮れないけれども、あとからすれば短かったと思われる。
(3)こうした生活の豊富さの大小と時の長さの関係を示す見事な例がある--
精神医学者のフランクルがアウシュビッツの強制収容所での自分の体験を記録したところによると、「収容所では毎時毎時に加えられる悪意のある難癖にみたされているので、囚人にとっては時間がほとんど限りなくつづくように思われる。しかしもっとも大きな時間感覚--たとえば一週間というものは、気味わるいほど早く過ぎ去ってゆく。だから私が、収容所では一日の長さは一週間よりも長いと言うと、仲間はいつも賛成してくれた。それほど時間体験は不気味な逆説的なものだった。(中略)
(4)この種の時間体験は前から知られていることで、ショーペンハウエルは、子供の時代から老人に至る人生の経過のあいだには、時がだんだんとはやくたってゆく経験--一人のこらずの老人が味わって知っている経験を次のように書いている。
「若い時代には時間のたち方はとても遅い。だから人生のはじめ四分の一は一番幸せな時代というにとどまらず、一番ゆっくりした時代でもある。子供の頃には何をみても何に出あっても、みなあたらしいことなので、一つ一つが意識に上ってくる。そのため一日一日は際限のないほど長い。児童の数時間は老人の何日かより長いのである。年をとるほど、意識にあがるものは減り、物事は印象をのこさずに過ぎ去ってしまう。それで時の流れはいよいよ速くなってゆくのだ」
(5)年をとればとるほど、毎日はすみやかに明けては暮れてゆき、あとから思いかえすと、昼と夜とが入りまじって無味な灰色の一日一日のくり返しとなる。年齢にともなうこのような変化を生理学的過程を基礎として考える人もあるけれども、その全部が宿命的な生理学的変化とはいいにくい。現代の哲学者のボルノウも指摘しているとおり、時がはやく過ぎてゆくのは、その人の生活が型にはまったくり返しの毎日になり、無内容になっているためである。年をとった人でもはじめての土地に行ってすごした短い休暇の間などでは、あたらしい体験が次々と刻印されるために平常よりも時間がのびる。それから今までおだやかな楽な生活をしていた老人で、戦災にあったためにあくせくはたらかないと生きてゆけないような境涯に一転してからは、一年の長さがはるかにのびた人もある。
したがって、毎日の生活が習慣化した無味な反復と怠惰とにおちいらずにいとなまれてゆくならば、私どもの一日、一月、一年が、年の寄るのと一緒に短縮することは決してない。去年なり昨日なりをふり返ってみて、その年その日の体験的時間が長かったならば、自分は実のある生活をおくったのだとわかる。
(6)未来、過去ということばを私たちはいつも気軽に使いなれているために気にとめてみることもないけれども、未来というものはことばの字義からくる「今ここにまだこない」という意味だけではない。将来こういう生活がくると良いという将来における現在像を、私どもは何らかぼんやりと今において傾いてもっているわけであって、未来はその意味で現在的性質をそなえている。それから過去の方も、もう過ぎ去ったことで今の自分には縁がないというものではなくて、過去の生活は現在の自分の背後にあって、現在の自分の行動にも将来像にも役をはたしている生きたものである。
未来と過去は現在という点を境にして一直線上に右と左に無限にのびているものというよりも、現在ここにいる私の眼の前の方向に未来があり、背中のうしろの方に過去があるという方が真実である。そして若い人では未来は前方ほとんど無限に深い奥行きをもってつづいており、将来の自分の生活の設計がまだ無形の場合には「未来を仰ぐ」という表現があうように、未来は眼の前の方でやや上向きの歩行に憧憬の感情をともなってあらわれるし、洋々とした設計が心のなかにできているときは、「未来を見はるかす」視線となって前の方にひろびろとした視界をもってあらわれる。
(7)過去の場合も同じで、過去を背負っているとか過去にひきずられると表現されるように、背負っている場合には重い人生経験がつまっている自分の過去を背負いながら、前に向かって営々と生活をきずいてゆく。一方過去にひきずられる生活では、自分は未来を前に見ていながらも、ずっしりと背後にたまった過去のために歩くこともできない。「未来に向かう存在」であることによってはじめて私たちは自分を確保できるのであるが、眼は前を望んでいても足が前にでないというと、腑甲斐のない自分をもどかしがる気持となる。
(8)それから老齢になって、自分の過去の経験ばかりを語るようになれば、その人は動きの絶えた過去のなかに定住して、そこに自分の現在を置いている。年老いて自分の前の未来がとうとう完全に消費されてしまった人では、あるものは過去の生活時間だけである。自分の前に少しの奥行きの未来ものこっていないことを発見すれば恐怖におちこむはずであるが、そうした場合には大概の人では昔の成功したこころよい経験がよびおこされ、自分の現在は過去へひとりでにずり動いて、正面にいよいよやってきた「無」の恐怖に体面しないですむようになる。
□島崎敏樹『心で見る世界』(岩波新書、1960)の「Ⅰ心で見るということ」の「行動と時間」から引用
↓クリック、プリーズ。↓
【参考】
「【心理】姿勢や表情から読み取れる心理」
「【心理】視線から相手の心理を読み取る」
「【心理】ノンバーバル・コミュニケーション」
「【心理】しぐさから心を読みとる ~ボディランゲージ~」
(2)ところで昨日の一日と今日の一日の長さが同じかどうかを私どもの体験でためすとしよう。昨日の私が多忙な一日を送ったとすれば、仕事に忙殺されているあいだ、私は時間にかまっていられないから、そのときにあっては時はどんどんたってしまう。気がついてみるともう夕刻になっている。しかし仕事が終わってからあとで、その多忙の日の時間をふり返って見つもるときは、その一日は長かったとうけとられるのである。これと逆に、することがなくて時間をもてあましながらすごす日には、時はなかなかたってゆかない。ところがあとになってからこの日のことを思いかえすと、この退屈だった日は短い一日だったと回想される。つまり有能な一日は早くたつが、あとからは長かったと思われ、無能な一日はなかなか暮れないけれども、あとからすれば短かったと思われる。
(3)こうした生活の豊富さの大小と時の長さの関係を示す見事な例がある--
精神医学者のフランクルがアウシュビッツの強制収容所での自分の体験を記録したところによると、「収容所では毎時毎時に加えられる悪意のある難癖にみたされているので、囚人にとっては時間がほとんど限りなくつづくように思われる。しかしもっとも大きな時間感覚--たとえば一週間というものは、気味わるいほど早く過ぎ去ってゆく。だから私が、収容所では一日の長さは一週間よりも長いと言うと、仲間はいつも賛成してくれた。それほど時間体験は不気味な逆説的なものだった。(中略)
(4)この種の時間体験は前から知られていることで、ショーペンハウエルは、子供の時代から老人に至る人生の経過のあいだには、時がだんだんとはやくたってゆく経験--一人のこらずの老人が味わって知っている経験を次のように書いている。
「若い時代には時間のたち方はとても遅い。だから人生のはじめ四分の一は一番幸せな時代というにとどまらず、一番ゆっくりした時代でもある。子供の頃には何をみても何に出あっても、みなあたらしいことなので、一つ一つが意識に上ってくる。そのため一日一日は際限のないほど長い。児童の数時間は老人の何日かより長いのである。年をとるほど、意識にあがるものは減り、物事は印象をのこさずに過ぎ去ってしまう。それで時の流れはいよいよ速くなってゆくのだ」
(5)年をとればとるほど、毎日はすみやかに明けては暮れてゆき、あとから思いかえすと、昼と夜とが入りまじって無味な灰色の一日一日のくり返しとなる。年齢にともなうこのような変化を生理学的過程を基礎として考える人もあるけれども、その全部が宿命的な生理学的変化とはいいにくい。現代の哲学者のボルノウも指摘しているとおり、時がはやく過ぎてゆくのは、その人の生活が型にはまったくり返しの毎日になり、無内容になっているためである。年をとった人でもはじめての土地に行ってすごした短い休暇の間などでは、あたらしい体験が次々と刻印されるために平常よりも時間がのびる。それから今までおだやかな楽な生活をしていた老人で、戦災にあったためにあくせくはたらかないと生きてゆけないような境涯に一転してからは、一年の長さがはるかにのびた人もある。
したがって、毎日の生活が習慣化した無味な反復と怠惰とにおちいらずにいとなまれてゆくならば、私どもの一日、一月、一年が、年の寄るのと一緒に短縮することは決してない。去年なり昨日なりをふり返ってみて、その年その日の体験的時間が長かったならば、自分は実のある生活をおくったのだとわかる。
(6)未来、過去ということばを私たちはいつも気軽に使いなれているために気にとめてみることもないけれども、未来というものはことばの字義からくる「今ここにまだこない」という意味だけではない。将来こういう生活がくると良いという将来における現在像を、私どもは何らかぼんやりと今において傾いてもっているわけであって、未来はその意味で現在的性質をそなえている。それから過去の方も、もう過ぎ去ったことで今の自分には縁がないというものではなくて、過去の生活は現在の自分の背後にあって、現在の自分の行動にも将来像にも役をはたしている生きたものである。
未来と過去は現在という点を境にして一直線上に右と左に無限にのびているものというよりも、現在ここにいる私の眼の前の方向に未来があり、背中のうしろの方に過去があるという方が真実である。そして若い人では未来は前方ほとんど無限に深い奥行きをもってつづいており、将来の自分の生活の設計がまだ無形の場合には「未来を仰ぐ」という表現があうように、未来は眼の前の方でやや上向きの歩行に憧憬の感情をともなってあらわれるし、洋々とした設計が心のなかにできているときは、「未来を見はるかす」視線となって前の方にひろびろとした視界をもってあらわれる。
(7)過去の場合も同じで、過去を背負っているとか過去にひきずられると表現されるように、背負っている場合には重い人生経験がつまっている自分の過去を背負いながら、前に向かって営々と生活をきずいてゆく。一方過去にひきずられる生活では、自分は未来を前に見ていながらも、ずっしりと背後にたまった過去のために歩くこともできない。「未来に向かう存在」であることによってはじめて私たちは自分を確保できるのであるが、眼は前を望んでいても足が前にでないというと、腑甲斐のない自分をもどかしがる気持となる。
(8)それから老齢になって、自分の過去の経験ばかりを語るようになれば、その人は動きの絶えた過去のなかに定住して、そこに自分の現在を置いている。年老いて自分の前の未来がとうとう完全に消費されてしまった人では、あるものは過去の生活時間だけである。自分の前に少しの奥行きの未来ものこっていないことを発見すれば恐怖におちこむはずであるが、そうした場合には大概の人では昔の成功したこころよい経験がよびおこされ、自分の現在は過去へひとりでにずり動いて、正面にいよいよやってきた「無」の恐怖に体面しないですむようになる。
□島崎敏樹『心で見る世界』(岩波新書、1960)の「Ⅰ心で見るということ」の「行動と時間」から引用
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【参考】
「【心理】姿勢や表情から読み取れる心理」
「【心理】視線から相手の心理を読み取る」
「【心理】ノンバーバル・コミュニケーション」
「【心理】しぐさから心を読みとる ~ボディランゲージ~」