(承前)
(6)このため、19世紀末から戦間期にかけて、米国の制度学派、ドイツの歴史学派、イギリスのフェ美案社会主義やニューリベラリズムなど、新たな経済思想が続々と台頭してきた。
これら新思潮は、いずれも経済自由主義の非現実性を批判し、現実の経済において制度や団体が果たす役割に着目し、政治の介入による社会改良の必要性を積極的に認めようとするものだった。
こうした新たな経済思想が、世界恐慌の経験を経て、ニューディール政策の誕生や、J・M・ケインズによる理論的革新を用意したのだ。ケインズが「自由放任の終焉」を発表したのは1926年、岸が初めて欧米を訪れた年だ。
(7)岸は、まず米国で経営者資本主義と遭遇し、その強大さに圧倒された。米国に比べると我々の今まで考えていたことは桁違いのお話にならない事柄だ、うんぬん。
暗澹としてドイツに渡ったが、ドイツの化学工業の組織をまのあたりにして決して日本産業の資源の貧弱ということを憂えるに及ばないと考えるに至った。日本に必要なのは「協調的経営者資本主義」だと。
そのドイツで当時行われていたのが、「産業合理化」運動だった。岸は「産業合理化」運動を「第二の産業革命」と呼ぶべき重大事件と見なした。従来は自由競争の原則が金科玉条とされてきたが、産業合理化とは「協調」を精神としてコストを低下するものだ。単なる協調なき自由競争や利益追求による進歩は、産業合理化ではない。資本主義の原則において、「競争」から「協調」への一大変換が起きたのだ。
(8)なお岸は、産業合理化はドイツでは成功したが、アダム・スミス以来の経済自由主義の伝統が強いイギリスにおいてはうまくいかなった、と観察している。岸の目は、同時代的に、しかもわずかな時間でチャンドラーの研究と同じ結論に達した。
さらに、「協調」は企業間のみならず、生産者と販売者と消費者、さらには資本家と労働者の間でも行わなければならないと岸は言う。つまり国民全体が有機的に連関し、協調する必要があると。産業合理化とは結局一の国民経済を経済単位としてその繁栄を期するがために互いに協調してやっていこうとする運動なのだと。
ドイツは第一次世界大戦後の困窮の中で、米英仏に対抗すべく国民が一致団結した。国家間は「競争」したが、国民同士は「協調」を優先した。換言すれば、ナショナリズムが協調をもたらし、産業合理化へと駆り立て、協調的経営者資本主義を実現したのだ。
このドイツの経験を日本の範にしようというのが岸の経済統制だった。
(9)岸は彼のいう「統制経済」はソ連型計画経済とは違うと明言している。合理化は強制力ではなく、誘導的手段によって各人の自発的協力を促すようなものであるべきだと考えていたからだ。
岸のいう「統制経済」とは、有機的な国民経済、その国民経済の内部においては競争はある種の制限を受けて全体の利益を増進するようにすべて仕組まれねばならないものだ。
これは確かに「計画経済」ではない。むしろ、戦後の西側世界において成立した「混合経済」の先駆だ。
なぜ「統制経済」が必要なのか。
従前の自由放任主義の理論は、自己利益を追求する主体の自由競争によって需給が自動的に調節されると説いてきた。しかし、第一次大戦後に到来した世界不況は、供給過剰とデフレーションをもたらしたが、需給均衡へのメカニズムは働かなかった。
製鉄業のような巨大な固定資本と高度な技術を要する産業においては、需要の変化に対して供給を柔軟に対応させることができないため、生産過剰を解消することが極めて困難であり、市場による需給の自動的な均衡の達成などあり得ないのだ。
こうした現実を前にして、市場に代わる新たな需給調整機能が待望され、統制経済という発想が生まれてきた。
こう説明する岸は、米国制度経済学派やケインズなど、当時最先端の経済思想に到達していた。
(10)岸は満州で辣腕を振るったが、その際、鮎川義介ひきいる日産を満州へ移住させるべく尽力した。満州経営の成功のために日産の「経営力」が欲しかったという。「経営力」とはチャンドラーのいわゆる「組織能力」のことだろう。やはり岸は、経営者資本主義の肝をつかんでいた。
だが、日本が戦争へ歩みを進めていく中で、岸のめざした協調的経営者資本主義の「統制経済」は、戦時経済としての「統制経済」へと変容していかざるを得なかった。
岸は登場内閣の商工大臣として戦時統制経済の運営に奔走したが、戦況の悪化の中でそれが円滑に行くはずはなかった。それゆえ統制経済には失敗のイメージがつきまとうが、戦争という特殊事情を勘案しなければ岸の統制経済論の本質を正当に評価できまい。
(11)岸の下で戦時統制経済を担った商工官僚たちは、戦後、通商産業省に復帰し、かつての経験を生かして産業政策を実行していった。戦前、企業間の協調のために形成された各種の業界団体もまた、戦後に引き継がれた。かくして、戦前の統制経済を源流とする戦後の日本型経済システムが形成されていった。
岸自身もまた、1927年の欧米視察以来の協調的経営者資本主義の理想を、戦後も一貫して堅持した。
1953年、政界に復帰した岸は、ティピカルな資本主義、自由主義で、すべてのものは自由競争に任すのだということは日本の現状からいうと許されない、という。資本と経営と労働がバランスを持って再建について真剣に協力する体制を構想したが、岸がその範としたのはやはりドイツだった。
1957年に成立した岸政権は、「新長期経済計画」を策定し、鳩山前政権の緊縮財政の方針を改めて積極財政に転じ、公共事業を大幅に増額して道路整備や港湾整備を積極的に推し進めた。この「新長期経済計画」は、次の池田勇人政権における「所得倍増計画」の原型となり。高度経済成長の基盤を用意するものとなった。
(12)かくして世界第2位の経済大国となった日本は、ドイツ経済とならぶ協調的経営者資本主義国の成功例として、欧米からも高く評価されてきた。岸が若き商工官僚として夢見た夢がついに実現したのだ。
1987年、岸はこの世を沙汰。
それから数年後、バブル経済崩壊による不況に突入した日本は、約20年にわたって構造改革に邁進し続けた。めざしたのは計画性なき自由競争、そして協調的経営者資本主義の解体だ。
原罪、安倍政権がさらにそれを徹底しようとしている。
□中野剛志「統制経済 岸信介の選択」(「文藝春秋SPECIAL秋「昭和史大論争」、2015)
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【参考】
「
【論点】経営者資本主義 ~岸信介の統制経済(1)~」