筆名ヤヌシュ・コルチャックこと本名ヘンルィク・ゴールドシュミットのことは、今日ではよく知られている(たとえば「コルチャック資料館」)。
史的事実を要約すると、コルチャックは1878年にワルシャワの高名なユダヤ人弁護士の家に生まれ、1942年にトレブリンカ強制収容所でガス室の煙となった。
医師、教育家、作家、孤児院長。子どもに関わる何でもやった人で、国連「子どもの権利条約」の原型をなす「子どもの権利の尊重」案を1929年に発表した。
映画でもちらと言及されるが、三度の従軍歴がある。26歳のとき、日露戦争においてロシア軍医として中国東北部へ。36歳から40歳にかけて、第一次世界大戦において再びロシア軍医としてウクライナ前線へ。42歳のとき、1920年のソビエト対ポーランド戦争において、ポーランド軍医として。
61歳のとき、1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻した。第二次世界大戦の開始である。9月17日、ソ連軍がポーランドに侵攻し、ポーランドは独ソ両国によって分割占領された。
62歳のとき、1940年11月、独軍はワルシャワ中心部にゲットー(特別居住区)を設け、50万人のユダヤ人を追いこんだ。コルチャックが院長をつとめる孤児院もゲットーに移った。
64歳のとき、1942年1月、ヴァンゼー会議で決定された「ヨーロッパにおけるユダヤ人絶滅政策」により、8月6日、高名ゆえに与えられた特赦を敢然としりぞけて、コルチャックは孤児たちとともに強制収容所へ移送された。
高野悦子『エキプ・ド・シネマ Part2』pp.222-223に『コルチャック先生』の作品紹介がある。
岩波ホールは、この作品を1991年9月14日から12月13日にかけて上映した。
この上映期間中に私は上京している。
映画は、58歳のとき、1936年、コルチャックが「老博士」の名で出演していた人気ラジオ番組が突然うち切られるエピソードからはじまる。
その後、主としてゲットーにおける子どもたち、コルチャックや職員に焦点があてられるが、ゲットー内外の他のユダヤ人の動きも描かれる。
その業績により市民はもとより敵軍の軍医からも敬意を表されていたのだが、コルチャックもまたユダヤ人の一人として同朋とともに苦難に耐えなければならなかった。しかも、彼に全面的に頼る孤児と孤児院の職員がいた。食糧調達のため、屈辱的な行動もとらざるをえない。ユダヤ人抵抗組織から難詰されて、「誇りなどない、200人の孤児がいるだけだ」と答える。その孤児のために、コルチャックは彼を慕う者たちが手配した亡命の機会を敢えて捨て、子どもたちと運命をともにする。
孤児たちには無限にやさしく、しかし時には厳しく、独軍の横暴には毅然と抗議して殴打されたりもする。孤児の食糧を確保するためには債鬼のごとく執拗に金持ちのユダヤ人やユダヤ人組織と交渉した。そのコルチャックも悩みで打ちひしがれる時があり、疲労で立ちあがれなくなる時もあった。一個の特異な人格のこうした多様な側面を主演のヴォイチェフ・プショニャックはあますなく演じきる。
暗い運命を漠然と感じとりつつも子どもたちの瞳は煌めく。少年少女にも幼い恋と深い絶望があり、コルチャックは慈しみをもってくるむ。答えるには困難な問い、子どもも自殺するか、の問いかけにも、はぐらかすことなく、コルチャックは真剣かつ誠実に答える。・・・・母が亡くなったとき自殺したかった、と。そして、大人以上に尊厳をもって子どもは死ぬことができる、と。
1942年7月、コルチャックは孤児院でタゴール作『郵便局』を子どもたちに上演させた。死というものを身近に感じさせるために。その1か月後、飢餓に苦しみつつもまだ人間の尊厳を保つことができたゲットーから子どもたちは追われた。
あえて白黒で終始した地味な映像が、かえって歴史の重み、コルチャック先生の骨太な生きざまを鮮やかに浮き彫りにする。
アンジェイ・ワイダ監督、ヴォイチェフ・プショニャック、エヴァ・ダルコウスカ、ピョートル・コズロウスキー、マルツェナ・トリバラ、ヴォイチェク・クラッタ出演。
第43回カンヌ国際映画祭特別表彰受賞。
□ 『コルチャック先生』(ポーランド・西独・仏、1990)
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史的事実を要約すると、コルチャックは1878年にワルシャワの高名なユダヤ人弁護士の家に生まれ、1942年にトレブリンカ強制収容所でガス室の煙となった。
医師、教育家、作家、孤児院長。子どもに関わる何でもやった人で、国連「子どもの権利条約」の原型をなす「子どもの権利の尊重」案を1929年に発表した。
映画でもちらと言及されるが、三度の従軍歴がある。26歳のとき、日露戦争においてロシア軍医として中国東北部へ。36歳から40歳にかけて、第一次世界大戦において再びロシア軍医としてウクライナ前線へ。42歳のとき、1920年のソビエト対ポーランド戦争において、ポーランド軍医として。
61歳のとき、1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻した。第二次世界大戦の開始である。9月17日、ソ連軍がポーランドに侵攻し、ポーランドは独ソ両国によって分割占領された。
62歳のとき、1940年11月、独軍はワルシャワ中心部にゲットー(特別居住区)を設け、50万人のユダヤ人を追いこんだ。コルチャックが院長をつとめる孤児院もゲットーに移った。
64歳のとき、1942年1月、ヴァンゼー会議で決定された「ヨーロッパにおけるユダヤ人絶滅政策」により、8月6日、高名ゆえに与えられた特赦を敢然としりぞけて、コルチャックは孤児たちとともに強制収容所へ移送された。
高野悦子『エキプ・ド・シネマ Part2』pp.222-223に『コルチャック先生』の作品紹介がある。
岩波ホールは、この作品を1991年9月14日から12月13日にかけて上映した。
この上映期間中に私は上京している。
映画は、58歳のとき、1936年、コルチャックが「老博士」の名で出演していた人気ラジオ番組が突然うち切られるエピソードからはじまる。
その後、主としてゲットーにおける子どもたち、コルチャックや職員に焦点があてられるが、ゲットー内外の他のユダヤ人の動きも描かれる。
その業績により市民はもとより敵軍の軍医からも敬意を表されていたのだが、コルチャックもまたユダヤ人の一人として同朋とともに苦難に耐えなければならなかった。しかも、彼に全面的に頼る孤児と孤児院の職員がいた。食糧調達のため、屈辱的な行動もとらざるをえない。ユダヤ人抵抗組織から難詰されて、「誇りなどない、200人の孤児がいるだけだ」と答える。その孤児のために、コルチャックは彼を慕う者たちが手配した亡命の機会を敢えて捨て、子どもたちと運命をともにする。
孤児たちには無限にやさしく、しかし時には厳しく、独軍の横暴には毅然と抗議して殴打されたりもする。孤児の食糧を確保するためには債鬼のごとく執拗に金持ちのユダヤ人やユダヤ人組織と交渉した。そのコルチャックも悩みで打ちひしがれる時があり、疲労で立ちあがれなくなる時もあった。一個の特異な人格のこうした多様な側面を主演のヴォイチェフ・プショニャックはあますなく演じきる。
暗い運命を漠然と感じとりつつも子どもたちの瞳は煌めく。少年少女にも幼い恋と深い絶望があり、コルチャックは慈しみをもってくるむ。答えるには困難な問い、子どもも自殺するか、の問いかけにも、はぐらかすことなく、コルチャックは真剣かつ誠実に答える。・・・・母が亡くなったとき自殺したかった、と。そして、大人以上に尊厳をもって子どもは死ぬことができる、と。
1942年7月、コルチャックは孤児院でタゴール作『郵便局』を子どもたちに上演させた。死というものを身近に感じさせるために。その1か月後、飢餓に苦しみつつもまだ人間の尊厳を保つことができたゲットーから子どもたちは追われた。
あえて白黒で終始した地味な映像が、かえって歴史の重み、コルチャック先生の骨太な生きざまを鮮やかに浮き彫りにする。
アンジェイ・ワイダ監督、ヴォイチェフ・プショニャック、エヴァ・ダルコウスカ、ピョートル・コズロウスキー、マルツェナ・トリバラ、ヴォイチェク・クラッタ出演。
第43回カンヌ国際映画祭特別表彰受賞。
□ 『コルチャック先生』(ポーランド・西独・仏、1990)
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