語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【心理】果たして人間の眼はそんなにたしかか?

2017年07月22日 | 心理
 例のエリザベス朝の冒険航海者、廷臣、タバコの将来者、そして伊達男としても豊富な逸話を残しているサ・ウォルター・ローリに、「世界史」の遺著があることは、承知の読者もあろう。ところが、この「世界史」、第一巻があって、あとがない。そのあとがないわけについて、有名な伝承がある。もともとこの著は、彼が断頭台に消える最後の獄、ロンドン塔の中で書かれたものだが、第二巻を執筆中のある日、彼はすぐ窓の下で取っ組み合いの大喧嘩が起こるのを見た。終始観察していて、記憶には自信があった。
 ところが、翌日、立ち会っていたばかりか、多少は関係者でもあったある男と話してみると、ことごとく事実が食いちがっているのである。目の前に観た事件さえこの始末では、とても遠い昔の真実などわかるはずがないと絶望して、一切原稿を火中にしてしまったというのだ。
 人間の眼のたしかさなど、当てになるものではないという根拠に、よく引かれる逸話だが、もっと近い話にこんな実験がある。かつてある国の心理学大会で、突然見知らぬ男が一人、血相かえて駆けこんできた。と、すぐそのあとからまた一人、これもピストルを手にして追って来たかと思うと、たちまち二人は大格闘になった。ピストルの乱射、組んずほぐれつの揚句、二人はまた会場の外に消えてしまった。この間20秒。
 もちろん会衆は呆気にとられて棒立ちだったが、なんとこれが主催者の企(たくら)んだ狂言だったのである。そこで、さっそく来会者一同に、いまの事件の観察記録が求められた。ところが、驚いたことに、解答者全部で40人、重要点についての誤り、20%以下ですんだのはわずかに1人、20-40%が14人、40-50%が12人、残り13人にいたっては、実にそれ以上だったという。もっとひどいことには、事実の捏造までやったのがあり、これまた1割以上の捏造が34人に達しており、1割以下はわずかに6人にすぎなかったとある。要するに、やっと信頼できるのはわずかに6人、つまり8分の7近くは、まったくの嘘か、半分近いデタラメだったということになる。【引用者注】

 【引用者注】この実験に関する出典は、Walter Lippmann:Public Opinion, (Harcourt, 1922)の挿話で、岩波のPR誌「図書」に本稿を掲載後、読者からの指摘で戦前に杉村楚人冠がその著「新聞の話」で紹介していることが分かった。「楚人冠全集」(日本評論社、1937)第8巻所収。【『読書こぼればなし』補注p.219】
 筆者の淮陰生は中野好夫であるという説が有力である。
 なお、“Public Opinion”の邦訳に、ウォルター・リップマン(掛川 トミ子・訳)『世論』(上下)(岩波文庫、1987)がある。

□淮陰生『読書こぼればなし 一月一話』(岩波書店、1978)の「果たして人間の眼はそんなにたしかか?」を一部引用
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