「世界」3月号の特集は、「世界経済 --長期大停滞の10年へ」だ。そのサブ・テーマの一つ「『超氷河期』の雇用と就活」については、3人が書いている。トライアンフ代表の樋口弘和、慶應義塾大学の駒村康平、そして日本福祉大学の訓覇法子だ。
訓覇は、次のようにいう。
*
スウェーデンに関して日本で最も知られていないのは、同国が追求する民主主義の考え方だ。
「すべての人が対等な価値をもつ」(スウェーデン統治組織法第2条)という価値観を津々浦々に徹底させ、万民の社会参加を可能にするために、教育と就労を重視してきた。国民の経済的自立を支える重要な手段が、「いつでも、どこでも、誰でもやり直しができる教育制度」だ。その結果、5.3%という低い貧困率を実現した。日本の貧困率の3分の1である。
1990年代の危機のさなかに、政府は一連の教育改革を行った。教育が経済発展の中心的役割を担う、と位置づけた。福祉を維持・発展させ、格差の拡大を予防し、生涯にわたる個人的能力や知識の向上を図るためだ。従来の就労ライン(積極的労働市場政策)が見直された。いま、第三の就労ライン(経済・労働市場・教育政策の相互依存関係の再構築)が進行中だ。
日本では、教育と労働の連携がうまく機能していない。
社会にとって教育政策は、
(a)社会が必要とする能力・労働力を確保する重要な労働市場政策である。
(b)国民の生活条件の不平等を縮小する所得再分配政策である。
(c)社会全体の能力の向上によって生産性を高め、市場を活性化する経済政策である。
スウェーデンでは、教育の実行を市場に任せない。公共が直接行っている。その主な理由は、産業構造の変化に左右される労働市場のニーズに正確に応えるためだ。市場への国の介入が必要となるからだ。
(例1)看護師不足であれば、看護学部の募集定員を増やす。
(例2)大学の教育水準や質を国が絶えずコントロールすることで、日本のような資格試験を必要としない。
社会階層の高い一部の人たちによる知識の独占、それによる権力行使は、民主主義の原則と相容れない。社会形成に万民が対等な立場で参加する、というのが民主主義の原則だ。
スウェーデンでは、ストックホルム大学の社会研究所などでは、研究者養成のため、意図的に労働者階級の優秀な子弟を発掘している。
日本では、実用的な知識や職業教育に対する沈黙の蔑視があるようだ。
スウェーデンでは、理論教育と職業教育は対等な価値をもつもの、と位置づけられている。
「ある種の知識より優れている知識はひとつもない」
人間が生活を営み、社会が機能するには、あらゆる種類の知識が必要だ。また、知識は、他の人に媒介され、利用されることに価値がある。
スウェーデンの大学生の年齢は高い。訓覇がストックホルム大学福祉学部に入学したとき、1年生の平均年齢は28歳だった。入学前の学友の経歴は多様で、船員、精神看護士、介護士、保育士、会社員、郵便局員、客室乗務員、バスの運転手・・・・と実に多様だった。その分、学生間の議論は内容豊かだった。共通点は、将来ソーシャルワーカーになるために学ぶ、という明確な動機づけがあったことだ。
社会に出て働いてから自分が何をしたいか、するべきかに気づくことは大いにある。スウェーデンでは、それを可能にする受け皿が用意されている。大学入学のために、就労先を退職する必要はない。1970年代半ばから導入された教育制度を利用すればよい。学費は無料だ。低利子の学業ローンで生計をたてることができる。学業ローンは、卒業後、就職してから国に少しずつ返済する仕組みだ。返済によって、次の世代がローンを組むことができる(学びの共生社会)。
スウェーデンでは、准看護師、看護師を勤め、その経験を活かして医学部に進学するケースも相当ある。
人間の潜在的能力の差は、さほど重要ではない。重要なのは、教育の機会が保障されていること、そして動機づけがあることだ。
スウェーデンの若者の大半は、高校卒業後の進路を決めるのに、働きながら2、3年試行錯誤する。やり直しのできない社会は、人的資源を最大限に利用できない社会だ。国民の能力向上、ひいては社会発展を遅らせる。
スウェーデンの若者が労働を体験するのは、日本の若者より早い。
義務教育中に、3回、労働体験学習がある。16歳になると、夏休みに働く子どもが多い。高校生になると、週末などに働く若者が多い。かくして、子どもは働くことの意味や労働条件などを学ぶ。働くことの喜びや辛さ、稼ぐことの大変さを学ぶ。経済的自立の重要性を考える。単純労働を長く体験すると、物足りなくなってくるのが普通だ。このような過程をへて、本格的な自己実現のための仕事、それに必要な教育を探しはじめる。
スウェーデン人のキャリア形成は、働き、学び、新たに成長するというらせん状の向上過程でなりたっている。
教育は、人生の基礎、さらに所得、生活水準、社会階層などの生存条件を決定する。
高等教育への参加保障が国民にとって重要なのは、社会移動(低い社会階層→高い社会階層)を可能にするからだ。国民の社会移動の可能性が大きければ大きいほど、国民全体の社会階層が高くなる。社会移動の可能性が小さければ、階級格差は次世代に持ち越される。個人の所得も社会階層も向上しなければ、社会全体の向上もありえない。
欧米諸国は、高等学校の職業教育を重視する。職業教育が低階層の若者たちの経済的自立を可能にし、失業や生活保護依存のリスクを減少させるからだ。ドイツやデンマークのような高度で充実した職業教育を行う国では、高校中退率、失業率、無業率が低く、賃金格差も小さい。新自由主義的なアメリカやイギリスでは逆のことがいえる。
ドイツ、デンマーク、スウェーデンでは、若者の失業率を一貫して低く抑えてきた。現場が必要とする知識や技術に応える教育が行われてきたからだ。
スウェーデンでは、たびたび教育改革を行っている。2009年には高等学校改革調査委員会による新たな改革構想が提案された。ただちに雇用が可能な専門的能力養成を重視し、学校ベースの職業教育と現場ベースの徒弟教区の2コースへの分化を提案している。さらに、政府は、知識社会の労働市場ニーズに即応できる高度な職業教育が必要だと、労使連携の施策を実施した。労働市場の変化に即応できる新しい職業計画のみ交付金対象とし、効果のみられる計画のみ継続を認め、教育に必要な人材は現場、大学、成人高等学校から借り受け、キャンパスはなければ学期は定めず、教育機関も設けない、という大胆かつフレキシブルな方法がとられた。
雇用低下や失業増大は、なぜ深刻な社会問題になるのか。
(a)雇用を得られない人の生活が脅かされ、「福祉」が失われる。
(b)国民間の所得や購買力の分配が不平等になる。
(c)使用主に対する賃金労働者の交渉権が弱くなる。
(d)国家にとって社会保障の財政運営が困難になる。
経済危機が襲うたび、スウェーデンでも雇用拡大と失業率低下のための戦略をめぐって多様な議論が行われてきた。最終的には、保守政権さえ「国民の家」と「就労ライン」を政策のキーワードとしてきた。
しかし、就労ラインの維持は、国家主導による工業社会型労働市場政策だけでは難しくなってきた。大量生産を担う大企業に代わって登場してきたのが、サービス部門や小規模なIT技術に依存する事業だ。
労働市場を分断せずに、失業を縮小し、労働力の流動性を高めるには、労働市場が必要とする能力や知識を絶えず分析し、教育の内容や質を常時改善できるオーダーメイド的フレキシビリティを高めなければならない。
従来の就労ラインを再編成し、需要と供給のマッチングが高い第三の就労ラインを構築するには、教育や労働市場政策が地域経済のニーズに密着し、労使組織や民間企業を巻きこむ多次元戦略が要求される。知識向上政策を基盤にする経済・労働市場・教育政策の有機的統合の強化・・・・これが第三の就労ラインを可能にした。
「日本の社会経済戦略に必要なのは、分断化された教育政策を経済、労働市場、社会保障政策と有機的に連動させる社会政策的戦略ではなかろうか」
【参考】訓覇法子「『学ぶこと』と『働くこと』の有機的な連携 -スウェーデンの教育改革にみる-」(「世界」、2011年3月号)
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訓覇は、次のようにいう。
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スウェーデンに関して日本で最も知られていないのは、同国が追求する民主主義の考え方だ。
「すべての人が対等な価値をもつ」(スウェーデン統治組織法第2条)という価値観を津々浦々に徹底させ、万民の社会参加を可能にするために、教育と就労を重視してきた。国民の経済的自立を支える重要な手段が、「いつでも、どこでも、誰でもやり直しができる教育制度」だ。その結果、5.3%という低い貧困率を実現した。日本の貧困率の3分の1である。
1990年代の危機のさなかに、政府は一連の教育改革を行った。教育が経済発展の中心的役割を担う、と位置づけた。福祉を維持・発展させ、格差の拡大を予防し、生涯にわたる個人的能力や知識の向上を図るためだ。従来の就労ライン(積極的労働市場政策)が見直された。いま、第三の就労ライン(経済・労働市場・教育政策の相互依存関係の再構築)が進行中だ。
日本では、教育と労働の連携がうまく機能していない。
社会にとって教育政策は、
(a)社会が必要とする能力・労働力を確保する重要な労働市場政策である。
(b)国民の生活条件の不平等を縮小する所得再分配政策である。
(c)社会全体の能力の向上によって生産性を高め、市場を活性化する経済政策である。
スウェーデンでは、教育の実行を市場に任せない。公共が直接行っている。その主な理由は、産業構造の変化に左右される労働市場のニーズに正確に応えるためだ。市場への国の介入が必要となるからだ。
(例1)看護師不足であれば、看護学部の募集定員を増やす。
(例2)大学の教育水準や質を国が絶えずコントロールすることで、日本のような資格試験を必要としない。
社会階層の高い一部の人たちによる知識の独占、それによる権力行使は、民主主義の原則と相容れない。社会形成に万民が対等な立場で参加する、というのが民主主義の原則だ。
スウェーデンでは、ストックホルム大学の社会研究所などでは、研究者養成のため、意図的に労働者階級の優秀な子弟を発掘している。
日本では、実用的な知識や職業教育に対する沈黙の蔑視があるようだ。
スウェーデンでは、理論教育と職業教育は対等な価値をもつもの、と位置づけられている。
「ある種の知識より優れている知識はひとつもない」
人間が生活を営み、社会が機能するには、あらゆる種類の知識が必要だ。また、知識は、他の人に媒介され、利用されることに価値がある。
スウェーデンの大学生の年齢は高い。訓覇がストックホルム大学福祉学部に入学したとき、1年生の平均年齢は28歳だった。入学前の学友の経歴は多様で、船員、精神看護士、介護士、保育士、会社員、郵便局員、客室乗務員、バスの運転手・・・・と実に多様だった。その分、学生間の議論は内容豊かだった。共通点は、将来ソーシャルワーカーになるために学ぶ、という明確な動機づけがあったことだ。
社会に出て働いてから自分が何をしたいか、するべきかに気づくことは大いにある。スウェーデンでは、それを可能にする受け皿が用意されている。大学入学のために、就労先を退職する必要はない。1970年代半ばから導入された教育制度を利用すればよい。学費は無料だ。低利子の学業ローンで生計をたてることができる。学業ローンは、卒業後、就職してから国に少しずつ返済する仕組みだ。返済によって、次の世代がローンを組むことができる(学びの共生社会)。
スウェーデンでは、准看護師、看護師を勤め、その経験を活かして医学部に進学するケースも相当ある。
人間の潜在的能力の差は、さほど重要ではない。重要なのは、教育の機会が保障されていること、そして動機づけがあることだ。
スウェーデンの若者の大半は、高校卒業後の進路を決めるのに、働きながら2、3年試行錯誤する。やり直しのできない社会は、人的資源を最大限に利用できない社会だ。国民の能力向上、ひいては社会発展を遅らせる。
スウェーデンの若者が労働を体験するのは、日本の若者より早い。
義務教育中に、3回、労働体験学習がある。16歳になると、夏休みに働く子どもが多い。高校生になると、週末などに働く若者が多い。かくして、子どもは働くことの意味や労働条件などを学ぶ。働くことの喜びや辛さ、稼ぐことの大変さを学ぶ。経済的自立の重要性を考える。単純労働を長く体験すると、物足りなくなってくるのが普通だ。このような過程をへて、本格的な自己実現のための仕事、それに必要な教育を探しはじめる。
スウェーデン人のキャリア形成は、働き、学び、新たに成長するというらせん状の向上過程でなりたっている。
教育は、人生の基礎、さらに所得、生活水準、社会階層などの生存条件を決定する。
高等教育への参加保障が国民にとって重要なのは、社会移動(低い社会階層→高い社会階層)を可能にするからだ。国民の社会移動の可能性が大きければ大きいほど、国民全体の社会階層が高くなる。社会移動の可能性が小さければ、階級格差は次世代に持ち越される。個人の所得も社会階層も向上しなければ、社会全体の向上もありえない。
欧米諸国は、高等学校の職業教育を重視する。職業教育が低階層の若者たちの経済的自立を可能にし、失業や生活保護依存のリスクを減少させるからだ。ドイツやデンマークのような高度で充実した職業教育を行う国では、高校中退率、失業率、無業率が低く、賃金格差も小さい。新自由主義的なアメリカやイギリスでは逆のことがいえる。
ドイツ、デンマーク、スウェーデンでは、若者の失業率を一貫して低く抑えてきた。現場が必要とする知識や技術に応える教育が行われてきたからだ。
スウェーデンでは、たびたび教育改革を行っている。2009年には高等学校改革調査委員会による新たな改革構想が提案された。ただちに雇用が可能な専門的能力養成を重視し、学校ベースの職業教育と現場ベースの徒弟教区の2コースへの分化を提案している。さらに、政府は、知識社会の労働市場ニーズに即応できる高度な職業教育が必要だと、労使連携の施策を実施した。労働市場の変化に即応できる新しい職業計画のみ交付金対象とし、効果のみられる計画のみ継続を認め、教育に必要な人材は現場、大学、成人高等学校から借り受け、キャンパスはなければ学期は定めず、教育機関も設けない、という大胆かつフレキシブルな方法がとられた。
雇用低下や失業増大は、なぜ深刻な社会問題になるのか。
(a)雇用を得られない人の生活が脅かされ、「福祉」が失われる。
(b)国民間の所得や購買力の分配が不平等になる。
(c)使用主に対する賃金労働者の交渉権が弱くなる。
(d)国家にとって社会保障の財政運営が困難になる。
経済危機が襲うたび、スウェーデンでも雇用拡大と失業率低下のための戦略をめぐって多様な議論が行われてきた。最終的には、保守政権さえ「国民の家」と「就労ライン」を政策のキーワードとしてきた。
しかし、就労ラインの維持は、国家主導による工業社会型労働市場政策だけでは難しくなってきた。大量生産を担う大企業に代わって登場してきたのが、サービス部門や小規模なIT技術に依存する事業だ。
労働市場を分断せずに、失業を縮小し、労働力の流動性を高めるには、労働市場が必要とする能力や知識を絶えず分析し、教育の内容や質を常時改善できるオーダーメイド的フレキシビリティを高めなければならない。
従来の就労ラインを再編成し、需要と供給のマッチングが高い第三の就労ラインを構築するには、教育や労働市場政策が地域経済のニーズに密着し、労使組織や民間企業を巻きこむ多次元戦略が要求される。知識向上政策を基盤にする経済・労働市場・教育政策の有機的統合の強化・・・・これが第三の就労ラインを可能にした。
「日本の社会経済戦略に必要なのは、分断化された教育政策を経済、労働市場、社会保障政策と有機的に連動させる社会政策的戦略ではなかろうか」
【参考】訓覇法子「『学ぶこと』と『働くこと』の有機的な連携 -スウェーデンの教育改革にみる-」(「世界」、2011年3月号)
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