語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【読書余滴】訓覇法子の、経済・労働・教育の有機的な連携 ~スウェーデンの場合~

2011年02月13日 | □スウェーデン
 「世界」3月号の特集は、「世界経済 --長期大停滞の10年へ」だ。そのサブ・テーマの一つ「『超氷河期』の雇用と就活」については、3人が書いている。トライアンフ代表の樋口弘和、慶應義塾大学の駒村康平、そして日本福祉大学の訓覇法子だ。
 訓覇は、次のようにいう。

   *

 スウェーデンに関して日本で最も知られていないのは、同国が追求する民主主義の考え方だ。
 「すべての人が対等な価値をもつ」(スウェーデン統治組織法第2条)という価値観を津々浦々に徹底させ、万民の社会参加を可能にするために、教育と就労を重視してきた。国民の経済的自立を支える重要な手段が、「いつでも、どこでも、誰でもやり直しができる教育制度」だ。その結果、5.3%という低い貧困率を実現した。日本の貧困率の3分の1である。
 1990年代の危機のさなかに、政府は一連の教育改革を行った。教育が経済発展の中心的役割を担う、と位置づけた。福祉を維持・発展させ、格差の拡大を予防し、生涯にわたる個人的能力や知識の向上を図るためだ。従来の就労ライン(積極的労働市場政策)が見直された。いま、第三の就労ライン(経済・労働市場・教育政策の相互依存関係の再構築)が進行中だ。 
 日本では、教育と労働の連携がうまく機能していない。

 社会にとって教育政策は、
 (a)社会が必要とする能力・労働力を確保する重要な労働市場政策である。
 (b)国民の生活条件の不平等を縮小する所得再分配政策である。
 (c)社会全体の能力の向上によって生産性を高め、市場を活性化する経済政策である。

 スウェーデンでは、教育の実行を市場に任せない。公共が直接行っている。その主な理由は、産業構造の変化に左右される労働市場のニーズに正確に応えるためだ。市場への国の介入が必要となるからだ。  
 (例1)看護師不足であれば、看護学部の募集定員を増やす。
 (例2)大学の教育水準や質を国が絶えずコントロールすることで、日本のような資格試験を必要としない。

 社会階層の高い一部の人たちによる知識の独占、それによる権力行使は、民主主義の原則と相容れない。社会形成に万民が対等な立場で参加する、というのが民主主義の原則だ。
 スウェーデンでは、ストックホルム大学の社会研究所などでは、研究者養成のため、意図的に労働者階級の優秀な子弟を発掘している。

 日本では、実用的な知識や職業教育に対する沈黙の蔑視があるようだ。
 スウェーデンでは、理論教育と職業教育は対等な価値をもつもの、と位置づけられている。
 「ある種の知識より優れている知識はひとつもない」
 人間が生活を営み、社会が機能するには、あらゆる種類の知識が必要だ。また、知識は、他の人に媒介され、利用されることに価値がある。

 スウェーデンの大学生の年齢は高い。訓覇がストックホルム大学福祉学部に入学したとき、1年生の平均年齢は28歳だった。入学前の学友の経歴は多様で、船員、精神看護士、介護士、保育士、会社員、郵便局員、客室乗務員、バスの運転手・・・・と実に多様だった。その分、学生間の議論は内容豊かだった。共通点は、将来ソーシャルワーカーになるために学ぶ、という明確な動機づけがあったことだ。
 社会に出て働いてから自分が何をしたいか、するべきかに気づくことは大いにある。スウェーデンでは、それを可能にする受け皿が用意されている。大学入学のために、就労先を退職する必要はない。1970年代半ばから導入された教育制度を利用すればよい。学費は無料だ。低利子の学業ローンで生計をたてることができる。学業ローンは、卒業後、就職してから国に少しずつ返済する仕組みだ。返済によって、次の世代がローンを組むことができる(学びの共生社会)。
 スウェーデンでは、准看護師、看護師を勤め、その経験を活かして医学部に進学するケースも相当ある。
 人間の潜在的能力の差は、さほど重要ではない。重要なのは、教育の機会が保障されていること、そして動機づけがあることだ。
 スウェーデンの若者の大半は、高校卒業後の進路を決めるのに、働きながら2、3年試行錯誤する。やり直しのできない社会は、人的資源を最大限に利用できない社会だ。国民の能力向上、ひいては社会発展を遅らせる。

 スウェーデンの若者が労働を体験するのは、日本の若者より早い。
 義務教育中に、3回、労働体験学習がある。16歳になると、夏休みに働く子どもが多い。高校生になると、週末などに働く若者が多い。かくして、子どもは働くことの意味や労働条件などを学ぶ。働くことの喜びや辛さ、稼ぐことの大変さを学ぶ。経済的自立の重要性を考える。単純労働を長く体験すると、物足りなくなってくるのが普通だ。このような過程をへて、本格的な自己実現のための仕事、それに必要な教育を探しはじめる。
 スウェーデン人のキャリア形成は、働き、学び、新たに成長するというらせん状の向上過程でなりたっている。

 教育は、人生の基礎、さらに所得、生活水準、社会階層などの生存条件を決定する。
 高等教育への参加保障が国民にとって重要なのは、社会移動(低い社会階層→高い社会階層)を可能にするからだ。国民の社会移動の可能性が大きければ大きいほど、国民全体の社会階層が高くなる。社会移動の可能性が小さければ、階級格差は次世代に持ち越される。個人の所得も社会階層も向上しなければ、社会全体の向上もありえない。

 欧米諸国は、高等学校の職業教育を重視する。職業教育が低階層の若者たちの経済的自立を可能にし、失業や生活保護依存のリスクを減少させるからだ。ドイツやデンマークのような高度で充実した職業教育を行う国では、高校中退率、失業率、無業率が低く、賃金格差も小さい。新自由主義的なアメリカやイギリスでは逆のことがいえる。
 ドイツ、デンマーク、スウェーデンでは、若者の失業率を一貫して低く抑えてきた。現場が必要とする知識や技術に応える教育が行われてきたからだ。
 スウェーデンでは、たびたび教育改革を行っている。2009年には高等学校改革調査委員会による新たな改革構想が提案された。ただちに雇用が可能な専門的能力養成を重視し、学校ベースの職業教育と現場ベースの徒弟教区の2コースへの分化を提案している。さらに、政府は、知識社会の労働市場ニーズに即応できる高度な職業教育が必要だと、労使連携の施策を実施した。労働市場の変化に即応できる新しい職業計画のみ交付金対象とし、効果のみられる計画のみ継続を認め、教育に必要な人材は現場、大学、成人高等学校から借り受け、キャンパスはなければ学期は定めず、教育機関も設けない、という大胆かつフレキシブルな方法がとられた。

 雇用低下や失業増大は、なぜ深刻な社会問題になるのか。
 (a)雇用を得られない人の生活が脅かされ、「福祉」が失われる。
 (b)国民間の所得や購買力の分配が不平等になる。
 (c)使用主に対する賃金労働者の交渉権が弱くなる。
 (d)国家にとって社会保障の財政運営が困難になる。

 経済危機が襲うたび、スウェーデンでも雇用拡大と失業率低下のための戦略をめぐって多様な議論が行われてきた。最終的には、保守政権さえ「国民の家」と「就労ライン」を政策のキーワードとしてきた。
 しかし、就労ラインの維持は、国家主導による工業社会型労働市場政策だけでは難しくなってきた。大量生産を担う大企業に代わって登場してきたのが、サービス部門や小規模なIT技術に依存する事業だ。
 労働市場を分断せずに、失業を縮小し、労働力の流動性を高めるには、労働市場が必要とする能力や知識を絶えず分析し、教育の内容や質を常時改善できるオーダーメイド的フレキシビリティを高めなければならない。
 従来の就労ラインを再編成し、需要と供給のマッチングが高い第三の就労ラインを構築するには、教育や労働市場政策が地域経済のニーズに密着し、労使組織や民間企業を巻きこむ多次元戦略が要求される。知識向上政策を基盤にする経済・労働市場・教育政策の有機的統合の強化・・・・これが第三の就労ラインを可能にした。

 「日本の社会経済戦略に必要なのは、分断化された教育政策を経済、労働市場、社会保障政策と有機的に連動させる社会政策的戦略ではなかろうか」

【参考】訓覇法子「『学ぶこと』と『働くこと』の有機的な連携 -スウェーデンの教育改革にみる-」(「世界」、2011年3月号)
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【読書余滴】波多野完治『生涯教育論』再読(3) ~読書会、「話し合い」学習、映画~

2011年02月12日 | 心理
 学生時代、精神病理学の講義で講師から勧められた。凡百の解説書を読むより加賀乙彦『フランドルの冬』を読むべし・・・・。
 『フランドルの冬』は、精神科医のフランス留学記である。小説だが、当時の精神医学界と医師の生態を活写する。
 加賀乙彦は、すなわち小木貞孝である。小木には、竹内芳郎と共訳したモーリス・メルロー=ポンティ『知覚の現象学 1』(みすず書房、1967)がある。ちなみに、『知覚の現象学 2』は、竹内のほかに木田元、宮本忠雄が訳者に加わっている(みすず書房、1974)。
 メルロー=ポンティは序文の末尾で次のように述べている。現象学を語って、もっとも美しく緊張に満ちた一節だ。
 「現象学はバルザックの作品、プルーストの作品、ヴァレリーの作品、あるいはセザンヌの作品とおなじように、不断の辛苦である--おなじ種類の注意と驚異をもって、おなじような意識の厳密さをもって、世界や歴史の意味の生まれ出づる状態において捉えようとするおなじ意志によって。こうした関係のもとで、現象学は現代思想の努力と合流するのである」

 木田元は、当時、現象学が広く一般の知識人のあいだに大きな関心をよび、高校生までをふくむかなり若い層まで浸透しているらしい、と『現象学』(岩波新書、1970)の序章で述べている。「たとえば、これはわたしなどには当初すこぶる奇異なことに思えたのであるが、1969年に燃えさかった学園紛争のさなか、バリケード封鎖中のある高校で、いわゆる自主講座のテキストにフッサールの著書の翻訳が使われたという話がある。これも、おそらくは現象学に自分の生きている現実について語ることを許してくれる哲学を、そしてひいてはそこに知的ラディカリズムの拠点を求めようとしたと聞けば、いくぶん納得のいく思いがしないでもない」
 『現象学』は、学生時代の読書会でとりあげられた1冊だ。途中から参加したので、本書をとりあげた主宰者の意図は聞いていない。しかし、おそらく木田が書いているような事情だったのだろう。

 ところで、波多野完治が紹介につとめたジャン・ピアジェは、現象学的心理学を痛烈に批判している(『哲学の知恵と幻想』、滝沢武久・訳 みすず書房、1971)。これもまた熟読玩味したから、我ながら妙な青春だった。

 もっと妙な青春を送ったのは、佐藤忠男だ。こちらは、はるかに個性的だ。『映画館が学校だった』(日本経済新聞社、1980。後に講談社文庫、1985)によれば、題名のとおり映画によって独学している。「世界全域の精神的な豊かさに目を開いて驚いた日々」だった(佐藤忠男『人間のこころを描いた世界の映画作家たち』、NHK出版、2011)。

   *

 読書会も映画も、『生涯教育論』は成人教育/社会教育の手法の一つと位置づける。

 大正7、8年に民衆大学、夏期大学が成立し、大正13年に旧文部省に社会教育課が設置された。
 日本の社会教育の方法は、学校教育をまねるところからはじまった。波多野が推定するに、江戸時代の社会教育が大きく影をおとしているらしい。それは「説教」の延長線上にある一方交通の方法を出なかった。心学の道話がそうだし、心学以外でも細井平洲の大衆講話がそうだ。
 上からの社会教育が講演といううわつらの方法しかとれなかったのに対し、下からの社会教育はもっと足が地についた、実効のあがる方法を編みだした。労働者のオルグを中心とする学習活動や学生集団の読書会(RS)は、日本の社会教育を豊かにするうえではかりしれない効果をもった。上からの社会教育と下からの社会教育は、交差することなく、併存したままで第二次大戦をむかえた。

 大戦後の日本ははしょるとして、フランスでも似たような流れをたどった。
 1920年代、日本の民衆大学とほぼ同じ時期に労働者教育が「講話」方式ではじまった。社会教育の必要性に目覚めたのは、知識層だった。第一次大戦で労働者出身の兵士と塹壕をともにしたインテリは、労働者もまた自分たちと同じく知的欲求をもっていることを発見したのだ。第一次大戦直後から、フランス成人教育の第一次ブームが起きた。しかし、毎日の生活と直結する問題の解決・・・・という労働者の実践的関心に応えるものではなかった。
 「話し合い」学習が編みだされた。フランス人は話好きである。フランスには、18世紀の啓蒙思想に大きな役割を演じたサロンが存在した。「フランス土着の成人教育」である。
 日本の社会教育主事に相当するアニマトールが、「話し合い」学習の結合剤の役割をはたす。こうした動きが人民戦線時代に出てきた。しかし、人民戦線内閣の短命のため、これは大きく成長することなく、第二次世界大戦をむかえてしまう。この方向が真に開花するのは、フランスに教育テレビができて、いわゆるテレクラブの運動が成功するときだ。教育映画を利用するシネクラブがあったが、こちらはイギリスのドキュメンタリー運動とちがい、フランス民衆の組織力の弱さ、組合の政治的偏向などが作用して、伸び悩んだ。テレクラブは、真にフランス的な小集団の話し合いを可能にし、大組合の団結力などがなくとも教育的結果が目に見えるやり方だ。このほうが大成功をみた。

 <補説Ⅷ>で波多野完治はいう。ラングランは、成人教育の方法が、一般に教育の方法に大きく貢献したとして次の二点をあげる。 
  (a)グループ・ダイナミックスの応用
  (b)視聴覚的手段の利用
 (a)はさておき、視聴覚的手段の利用が成人教育で成功して一般化し、それが学校教育へ導入された・・・・という主張は、1965年、パリでのユネスコ成人教育委員会で波多野が行った。波多野が生涯教育論になんらかの貢献をしているとすれば、この一点につきる・・・・。
 映画を教育に利用することは、映画芸術の発生当時からあった。第一次大戦前までは、映画のなかに娯楽と報道および教育の2機能を認める立場が強かった。市中の映画館でも、必ず一本か日本は「実写」すなわち記録性のあるものを上映していた。映画が娯楽にしぼられるのは、第一次大戦後だ。だんだん記録ものはつくられなくなった。ドイツのウーファは『美と力への道』といった記録をつくって教育への関心を示したが、経済的になりたたないので止めてしまった。
 映画が成人教育の方法として真に有効である、ということがわかり、これの利用運動が地についたものになるのは、発声映画の出現による。説明がコトバでつけられるようになったからだ。映像と概念との双方を利用して、はじめて映画の教育性が発揮される。このことを掴んだのは、グリスマンをはじめとするイギリス・ドキュメンタリーの人だった。彼らは、この考えにもとづいて映画をつくり、それを労組その他の小集会にもちこんで討論の材料に使った。この方式が教室にもちこまれ、「教材映画」利用の正道とされるにいたった。

   *

 以上、「第2章 生涯教育を困難にする条件 -生涯教育の政治学-」の「3 成人教育」による。

【参考】波多野完治『生涯教育論』(小学館、1972)
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【読書余滴】波多野完治『生涯教育論』再読(2) ~生涯教育の公理学~

2011年02月11日 | 心理
 本書は、次のように構成される。

 序文
 第1章 近代人の課題 -生涯教育の公理学-
 第2章 生涯教育を困難にする条件 -生涯教育の政治学-
 第3章 生涯教育はどういう意味と価値をもつか -生涯教育の社会学-
 第4章 生涯教育の内容・領域・目標 -生涯教育の心理学-
 第5章 生涯教育実現のための諸方策 -生涯教育の経営学-
 第6章 生涯教育はひとりひとりの仕事であり同時に社会のみんなの仕事である -生涯教育における学際(インターディスプリナリ)-」-
 まとめ
 エピローグ

   *

 人間の一生は、「挑戦」の連続である。絶えず挑戦を受けて、絶えず「決断」しなければならない。昔からそうだった。決断のために「情報を集め」、自らの識見を高めた。生涯教育は昔から重要だった。
 しかし、現代では決断を要する周囲からの挑戦が、殊に数多くなった。激しくなった。生涯教育は、選ばれた少数だけでなく、万民に必要になった。そして、生涯教育が技術的に可能になった。
 第1章では、まずそう説いて、現代における生涯教育がとくにたいせつになってきた事情を幾つか列挙する。
 1 変化の加速化
 2 人口増加
 3 科学知識の増加と技術の進歩
 4 政治の挑戦
 5 情報
 6 余暇
 7 生活様式と人間関係
 8 肉体
 9 イデオロギーの危機

   *

 1 変化の加速化
 状況に適応した正しい人生観/世界観をもつことが、生活する現実と自己との「均衡」保持に必要だ。ところが、社会の変化が速すぎるため、うまく均衡をとれない。変化する社会において「再均衡化」をつくり出すためには「学習」が必要だ。学習には努力がいる。努力のないところでは、人は社会から疎外されてしまう。自分をヨソモノと感じるに至る。しまいには、自己を自己と認めること(「同一性」)さえ見失ってしまう。
 なるべく速く、変化した社会を解釈しなおす能力を獲得せねばならぬ(生涯学習の必要性)。
 変化の速い社会では、若いころに教えられたことを一生持ち続ける、という教育方法は適当でない。

 2 人口増加
 主として発展途上国において起きている現象だ。
 (1)量的増加・・・・人口量の増加にすべての施設・設備が追いつかなくなっている。
 (2)質的増加・・・・平均寿命が延び、ひとりひとりが社会に存在している期間が長くなった。仮に発展のテンポが昔のとおりであったとしても、昔は30年間使えばよかった知識を、いまは60年間使わねばならない。小学校のカリキュラムは当然変化しなければならない。そして、いまの発展のテンポは昔の倍になったとすると、昔は30年間使えた知識はいまは15年間しか使えない。ドラッカーは、いったん学習した知識を毎年7%ずつ「更新」していかねばならぬ、というふうに表現している。かかる社会では、教育について根本的な変更が必要になる。
 (a)若い人の学習欲求を「学校以外」で満たす必要がある。
 (b)平均寿命が延びた分に対して、「買いたし」「買いなおし」の教育をする必要がある。
 (c)老人だけが勉強しなければならない、のではない。若者、中年者も比較的学習能力のあるうちに不備を補い、変化した社会に対応するに足りる実力をつけたいと感じている。こうした人々の学習意欲は、学校だけで満たせない。
 (d)学校も変わらなくてはならぬ。教育方法も変わらなくてはならぬ。社会へ出てから勉強する方法を学校にいる間に身につけておけば、卒業後に「買いたし」しやすい。
 (e)人口増加に関連して大きな問題が起きてきた。食料問題一つをとっても、その地域だけで解決できない。宇宙船地球号の乗組員ひとりひとりが「賢い消費者」になって、地球上の資源の「配分」に係る知識を持たねばならない。そのために、合理性と均衡性の保持が教育に要求される。「人間の生存と人間の尊厳の確保とが、いまや別々のものでなく、これが生涯教育によってのみ満たされるものであることが、人口増加を機縁として明らかになりつつある」

 3 科学知識の増加と技術の進歩
  (a)現代は科学技術が変化の主動力である。
  (b)科学技術の進歩が社会のすみずみにあまねく行きわたっている。
 ことに後者は重要だ。
 科学技術の進歩が速い。明日の技術者を養成するには、知識を教えるだけでは十分ではない。彼らに「学ぶことを学」ばせなくてはならない。
 一生学んでいかねばならないのは、ひとり技術者に限らない。「学問」の専門家はみなそうだ。
 <補説Ⅰ>日進月歩は、医学、文学、農業・・・・ジャンルを問わない。すべての産業は技術革新の波に洗われている。これがまた「生涯教育」のテコになっている。

【参考】波多野完治『生涯教育論』(小学館、1972)
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【読書余滴】波多野完治『生涯教育論』再読(1) ~序文~

2011年02月10日 | 心理
 波多野完治は、小学館の「100万人の創造選書シリーズ」の一環として、昭和47年に『生涯教育論』を上梓した。本書は、ポール・ラングラン『生涯教育入門』(波多野完治訳、社会教育連合会、1971)の「評釈」である。
 フランス心理学の「紹介」をやりつけた波多野が、単なる「紹介」ではなく、より深く踏みこんだ「評釈」を試みたのだ。「評釈」は、日本の学問的伝統の一つである。仏典または四書五経の注解から河上肇『資本論注解』や和辻哲郎『孔子』まで。
 波多野には、アンリ・ワロン『子どもの精神的発達』を注解した編著『精神発達の心理学 -子どもの成長の弁証法-』(大月書店、1956)がある。これでは誰の本かわからぬ、と不満を抱いた竹内良知が、後に原文に忠実に訳出した(人文書院、1982)が、波多野注解は心理学の初学者には便利な本だった。
 本書は、注解より一歩上の評釈に挑戦している。

 ただし、第1章を書いたところで大患にあって、気力が充実していないから「評釈」が「紹介」に後退したところもある、と序文で自認している。
 大患とは、心筋梗塞だ。
 病から回復後、朝日新聞に寄稿した身辺雑記の切り抜きが、手元の『生涯教育論』に挟みこんである。朝日新聞であることは確かだが、掲載年月日はメモしていない。出典は常に明らかにしておく、という資料保存術を徹底するのは、わが自分史において、もう少し後のことだ。
 で、その切り抜きにはこう書いてある。題して「近況/余生、楽しい仕事に」。 

 「重症の心筋こうそくをやり、死生の間をさまよった。さいわい一命をとりとめたが、せっかくひろった余生なので、その後は、なるべくたのしく、しかも世の中のためになる仕事をするようにしている。/ちかごろは映画の再興機運がもりあがってきて、すぐれた作品もボツボツあらわれているので、二十年来、理事をしている『優秀映画鑑賞会』の審査会にできるだけ出席したい、とおもう。わたしどもの世代は、精神の形成期がすなわち映画のぼっ興期でもあった。一つの『芸術』が生まれ、成長し、ガルガンチュアのような巨人になっていくのを、まのあたり見る、という歴史的な幸運にめぐまれたのである。ああいう興奮と陶酔をもう一度味わいたい」
 「語られる言葉の河へ」管理人が、凝りに凝った渡辺一夫訳のラブレーを全巻読みとおす気になったのは、この短文によるところが大きい。

 閑話休題。
 ラングランの原著は決してやさしくない、と序文で波多野はいう。
 ユネスコ出版の本には、シュラムの諸著書のようにやさしく、程度をさげないで書いているものもある。他方、加盟国の諸事情を懸念するあまり、そのまま詠んでははっきりしない本もある。ラングランの原著は後者だった。
 波多野は、ラングランが遠慮していえないところは、それをハッキリさせ、ラングランとは別の考え方から生涯教育を主張する人の説も取り入れて、それがラングランの本ではどう活かされているかを書こうと志した。

【参考】波多野完治『生涯教育論』(小学館、1972)
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【読書余滴】野口悠紀雄の、昨年来の物価上昇の原因、物価上昇の結果、食料自給論の問題点

2011年02月09日 | ●野口悠紀雄
(1)物価上昇の原因
 2010年夏以降、原油、貴金属、非鉄金属、農産物など国際商品の価格が上昇している。
 原因は、長期的にみれば新興国の需要増加にあるだろう。しかし、短期的にはドル価値の低下(金価格の上昇)に伴って自動的に生じた側面のほうが強い。
 金は、10年11月に1オンス1,400ドルを突破し、その後も史上最高値を記録しつつある。これに伴って商品価格が上昇しているのだ。
 原油は、09年2月までに1バレル30ドル台まで下落したが、その後上昇に転じ、10年末には90ドルをこえている。農産物価格上昇も金表示の価格を維持する動きと解釈できる。
 これは、07~08年に生じた現象とまったく同じだ。
 今回の商品価格上昇は、10年秋の米国の金融緩和(QE2)によって引き起こされた。実需の増加より、ドル価値の低下という貨幣的な要因の影響が強い点で、前回と基本的に同じ現象だ。
 なお、70年代の石油ショックも、基本的にはこれらと同じじものだ。

(2)物価上昇の結果
 08年の国際商品価格上昇は、同年の日本の消費者物価指数を上昇させた(同年秋には年率2%)。
 今回も、日本の消費者物価指数は上昇するだろう。
 物価上昇は、日本経済の問題を解決するだろうか?
 むろん、解決しない。むしろ、問題は深刻化するだろう。
 これまで日本で生じていた物価下落は、工業製品の価格低下である。すべての物価の一様な下落ではない(サービスの価格は上昇してきた)。これは、基本的には新興国の工業化とITによってもたらされたものだ。この点は、今後も変わらない。
 ところが、今後は原材料価格が上昇する。したがって、企業の利益がさらに減少するだろう。
 原材料価格上昇を資産物価格に転嫁できる財サービスもあるが、パソコン、テレビ、デジタルカメラなどの製品価格下落は止まらない。これらは、新興国メーカーとの激しい競争があり、しかもITの進展で価格が急激に低下するからだ。

(3)日本経済停滞の真因
 (2)の事態が進展すれば、日本経済を次のように正しく認識せざるをえないだろう。
 (a)日本の物価動向(とくに貿易可能財)は、国内の金融政策ではなく、海外の物価動向で決まる。
 (b)日本経済停滞の原因は、物価下落とは別のものである。世界経済の大変化、とりわけ新興国の工業化に対応できていないところにある。

(4)食料自給論の問題点
 危惧されるのは、農産物価格が上昇することで、食料自給論が息を吹き返す危険だ。
 食糧自給論の真の目的は、農産物に対する高率の輸入関税を正当化し、国内農業を保護するところにある。
 この議論は、次のような問題を含む。
 (a)食糧の大部分を国内で供給・・・・仮にそうなった場合、天候不順で不作になれば、大変な事態になる。自給率の向上は、食糧供給に関するリスクを増大させる。食糧供給の安全保障は、供給源を分散化させることによって実現するのだ。
 (b)「買い負け」・・・・仮に海外の農産物価格が上昇した場合、まず買えなくなるのは最貧国である。日本は高所得国だから、買えなくなることはない。
 (c)「いくらカネを出しても買えない」・・・・アメリカ、カナダ、オーストラリアなどでは、輸出のために農業生産が行われる。仮にこれらの国の政府が輸出禁止令を出せば、所得稼得の機会を奪われた農民は暴動を起こすだろう。
 (d)食料自給率の指標・・・・使われる指標が「カロリーベース自給率」であるため、多くの人が錯覚に陥っている。この指標では、鶏卵の自給率は10%だ。大部分の卵が国内で生産されながら、こうような低い自給率になるのは、飼料が輸入されているからだ。われわれの実感に近い生産額ベースの自給率でみると、日本の自給率は70%程度だ。
 エネルギーの96%を海外に頼る日本が、食料についてだけ自給率を高めようとするのは、滑稽だ。

【参考】野口悠紀雄「消費者物価の上昇は日本経済を救わない ~「超」整理日記No.548~」(「週刊ダイヤモンド」2011年2月12日号)
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【読書余滴】玉村豊男の、ワインと女は古いほどよい ~熟成と生涯学習~

2011年02月08日 | ●玉村豊男
 玉村豊男が、まだ40代の頃、ポルトガルは北部の古都ポルトの小さなホテルのバーに入った。カウンターに腰をかけたが、あたりに誰もいない。そのとき、背後から男の声がした。
 「ボンディア! ドリンク?」
 ポルトガル語と英語のちゃんぽんで、しかもたった二語で用を足す簡便さ。英語は下手そうだが、小才のきく人懐こさは有能なホテルマンであることを示す。ホワイトポートを注文し、話をかわした。日本からやってきた、と聞いて、バーテンダー君、興味津々の表情となった。日本では腰に刀をさしたサムライが花魁のような着物を着た女を抱きかかえ、ホンダのバイクに乗って疾走する・・・・といったイメージを持っていたらしい。いまから20年前の話である。
 それはさておき、バーテンダー君、ふだんはフロントにいて交替でバーに入るだけなのだが、21歳だった。2年前に勤め始めた、という。
 若いね、将来は何になりなたいのか、と問う玉村に答えていわく、特に考えていない、結婚して子どもをもって平穏に暮らせれば、それでよい・・・・。
 「そういうもの?」
 「ポルトガルには、今日よりよい明日はない、という言葉があります。毎日を満足して暮らせれば、それで十分だと思います」

 この会話は衝撃的だった、と玉村は回想する。
 21歳の若者に教えられるとは。今日よりよい明日を求めるから、人は思い煩う。際限のない欲望に苦しめられる。ポルトガル人は、世界の海を制した15~16世紀から何世代もへて、ある種の達観ないし諦念を自然なかたちで受け入れている。翻って、私たちは「すでに成熟した社会」にふさわしい生き方をしているだろうか・・・・。

   *

 エッセイスト玉村豊男は、「ヴィラデストガーデンファーム・アンド・ワイナリー」の経営者でもある。
 玉村は、吹き荒れるグローバリズムの影響をできるだけ受けないように、拡大よりは持続をめざす「『超』効率の悪い零細企業」を『里山ビジネス』(集英社新書)で語った。
 この本を刊行した2008年6月には、まだ「神武・いざなぎを超える戦後最長の好景気」の余塵がくすぶっていた。しかし、同年秋から年末にかけて急速に経済が悪化した。これをみて、それぞれの人生においても、これまでとは別の戦略を立てる必要がある、と玉村は考えた。拡大より持続をめざすのである。
 『今日よりよい明日はない』の上記のエピソードに、「持続」の考え方の一端を窺うことができるだろう。

 ところで、ワイナリーのオーナーである玉村は、ワインの熟成と劣化は紙一重だ、という。発酵と腐敗は表裏の関係にある、ともいう。成長と老化は、事の両面である。
 日本人は若い、未熟な食べものを好む。野菜や果物は、季節を先取りしたものに人気がある。日本人は、「旬」と「走り」を取り違えている。ロリコン趣味である。
 牛肉は切り出して3週間熟成するとうまくなる。ワインは古いほどよい。ブドウの樹も老木ほど、その果実からつくられるワインは最高級品とされる。
 女はどうか。2008年度の朝日広告賞受賞作品に、資生堂の広告があった。前田美波里の若い頃と現在の写真を並べたヴィジュアルだ。デビューした頃も可愛いが、それから40年へた今の笑顔はもっと素晴らしい。60歳という年齢とはみえない若々しさもさりながら、「年齢とともに積み重ねてきた自信や余裕や覚悟が、充実した人生そのものの厚みとして、彼女しかない美しさを輝かせているのです」。
 その写真には、コピーが添えられていた。「私たちのエイジング」
 前田美波里とほぼ同世代の玉村にとって大切だと思われるのは、アンチエイジング(老化防止)ではなくてエイジング(熟成)なのだ。
 生涯発達の心理学・・・・フランスの発達心理学の紹介者、波多野完治は、生涯教育の概念を初めて日本へ持ちこんだ。玉村のいわゆる「熟成」は、生涯教育/生涯学習とも重なる。

【参考】玉村豊男『今日よりよい明日はない』(集英社新書、2009)
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【読書余滴】玉村豊男の、批評する要件または批評の仕方 ~日本版ミシュランを採点する~

2011年02月07日 | ●玉村豊男
(1)批評には知識・経験が必要
 『ミシュラン東京版』の刊行にあたり、朝日新聞に記事が載った。記者が、玉村豊男に2回、合計1時間半、話を聞いて数行のコメントを付けた。
 この記者、体験記事を書き添えていた。銀座のレストラン<ロオジェ>で、これが三ツ星か、と思って高い料理を食べたが、どこにそんな価値があるかわからなかった、云々。
 ものを知らない若い記者が勝手に書いたなら、編集デスクが即刻ボツにするべき記事だ。デスクの命令で<ロオジェ>に行き、社の取材費で食べたなら、ミシュランに対するある種の批判を込めたつもりかもしれないが、かかる愚かな原稿を得々と掲載すること自体、編集長・編集デスクを含めた新聞記者の質の低下を如実に示す。
 それまでほとんどフランス料理を食べたことのない人が、突然、最高級のレストランで、時代の先端をいくフランス料理を食べて、その価値がわかるだろうか。
 じつはその記者、あとでまた電話してきた。ウナギをゼリー寄せにしたような料理が出たが、あれは日本料理の影響か・・・・。
 玉村、答えていわく、フランス料理では昔からウナギを食材として使っている。ウナギのゼリー寄せはイギリスの伝統的な料理だ。シェフは、そうした一連の文脈を踏まえた上で、日本の風味も取り入れながら、現代風料理にアレンジしたのではないか・・・・。
 スポーツでもルールを知らなければ楽しめない。音楽や演劇などのどのジャンルの芸術でも、よりよく鑑賞するためには、ある程度の知識・経験が要請される。フランス料理の知識・経験のない人が、三ツ星レストランで食べて、「こんな料理のどこがよいのかわからない」と言っても、何の批評にもならない。

(2)ミシュランより高く評価
 『ミシュラン東京版』2008年版および2009年版で一ツ星が与えられた2軒のフレンチがあり、仮にAおよびBとしておく。そこで玉村は、食事をした。2009年版発売直前と、その1ヵ月前に。いずれも玉村には初めての店だった。
 Aは、青山通りにほぼ面したモダンなビルの1階にある。
 シェフとしては、お任せのコースを食べてもらいたいようで、アラカルトで取れる料理は少なかった。しかし、メインをアワビにして軽く食べたい、野菜で何か前菜をつくってほしい、とアラカルトにない料理を注文すると、快く応じてくれた。最初のアミューズから最後のプチフールに至るまで、間然するところのない料理と、そのプレゼンテーションは見事だった。
 インテリアは、最近の外国人がデザインしたハイアット系らしき感じだが、品がよく、落ち着いていた。人懐っこいが、リラックスできるサービスも出色だ。
 日本のフレンチにもこういう店があらわれたか、と玉村は感心した。これは二ツ星である。足を踏みいれただけで心が浮き立つような雰囲気づくりができれば、ほとんど三ツ星といってよい。

(3)ミシュランより低く評価
 Bは、ビルの半地下という環境だ。オフィスの一部のようで寂しい。わざとそうしているのだろうが、花も飾らない「シンプルモダン」(ミシュランの表現)のインテリアは、食事の場所としてかならずしも成功していない。好みにもよるだろうから、それだけでは失点とはいえない。しかし、天井から吊り下がっている無数の長い剣のような照明器具が地震の時に落下するのではないか、と玉村は不安になった。落下せずとも、食事中に揺れたら嫌だ。
 メニューはお仕着せコースのみだ。料金は高いコースの分を払うから、肉料理は安いコースに組みこまれているものと入れ替えてくれ、と頼んでみた。すると、厨房に確認したうえで、できないと拒否された。満員ではないから、食材が足りなかったとは思われない。この程度のことで厨房の手順が狂うようでは、星つきの店とはいえない。
 料理はきれいにつくられているが、それだけのことだ。料理人の伝えたいメッセージが伝わってこない。
 内装、サービス、料理とも、ラテン的というよりゲルマン的だ。杓子定規を求める客には向いているかもしれない。
 しかし、玉村の評価は、Aと比べるとはっきり低い。星ナシだ。

(4)体験談とガイドブックの違い
 (2)および(3)では、体験談として書くだけだから、たった1回の訪問で評価を下した、と玉村はいう。
 しかし、ガイドブックを書くなら、少なくとも2回、そのときに評価が異なればさらにもう1回、訪問しなければならない。
 また、Bの低評価は、単に玉村の趣味や好みが店の方針やコンセプトと合わないだけの理由かもしれないから、玉村と異なる審美眼をもつ審査員を同行させて審判を仰がなければならない。ガイドブックは、不特定多数の読者を対象とするからだ。

(5)日本版ミシュランの採点
 AおよびBに係る『ミシュラン東京版』2008年版および2009年版のコメントを読み比べてみると、両者とも文章がほとんど同じだ。語尾や配列をほんの少しだけ変えてあるだけだ。
 毎年発行するレストランのガイドブックは、前年から1年間にその店の料理がどう進化したか、その店がどういう方向に向かおうとしているのか、それが時代や流行とどう関わっているのかを示さねばならない。評論の機能を持たねばならない。
 日本版ミシュランは、ガイドブックの名に価しない。「星ナシ」と評価するしかない。

   *

 以上、「ミシュラン解題」による。なお、このコラムは、2008年11月28日に書かれた。

【参考】玉村豊男『オジサンにも言わせろNPO』(東京書籍、2009)
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【読書余滴】玉村豊男の、フランスのレストラン・ガイド、料理批評 ~『ミシュラン東京版』の狙い~

2011年02月06日 | ●玉村豊男
 フランスのレストラン・ガイド『ゴー・ミヨ』は、アンリ・ゴーとクリスチャン・ミヨという料理ジャーナリストが1969年に創刊した。年刊。最初は料理雑誌だった。その後主宰者も経営者も変遷しているが、現在も20点満点で各店を評価する(20点を満点とするのはフランスの伝統的な採点法)。創刊号以来、黄色の表紙で、その解説は料理に係る克明で正確な批評性に富む。解説の文章は魅力的で、料理の批評も正鵠を射ていることが多く、読み物として面白い。
 『ピュドロ』や『ルペ』も『ゴー・ミヨ』と同じく、著者の名で、著者の審美眼にしたがって店を選び、採点している。数冊読み比べると、著者の好みや偏見がわかる。読者はより客観的な判断ができる。
 他方、古い歴史を誇るフランスの『ミシュラン』は、星の数による評価を示すだけで、店の各種データは掲載するが、コメントは記さない。評価の理由は一切語らない。書けば悪口になる場合でも書かずに済ますことがでいる、というある意味ですばらしい大人のやり方とも言えるが、そのノーコメント主義こそ、きわめて厳正と噂される調査や評価とともに、『ミシュラン』の神秘的な権威の源泉となっている。
 
 『ミシュラン』が権威を獲得したのは、取材調査であることを店に告げず、身分を明かさない調査員が一般の客を装ってふつうに食事し、きちんとその代金を払う、というやり方によるところが大きい。カネを払って店の記事を載せてもらうことが当然のようになっているフランスでは、買収が効かない取材者は恐ろしい存在だろう。店は何も協力しない(協力できない)。撮影さえ協力していない(フランスの『ミシュラン』には写真がない)。取材者は、何の引け目も感じることなく、自由に書ける。
 『ゴー・ミヨ』は、身分を明かして取材するらしいが、やはり写真は撮影しないし、もちろん代金は払う。だから、しばしば辛辣な指摘をすることがある。それが彼らの料理評論家としてのスタンスを明快に示すやり方だ。また、「無言のミシュラン」に対する一種の批判になっている。『ゴー・ミヨ』は在野の精神に溢れている。

 日本では、演劇でも美術でも音楽でも、仲間うちの誉めあいや提灯持ちの宣伝記事はあっても、対象を批判しながら育てていくような、ほんとうの意味での批評といえるものは、めったに存在しない。とくに料理の世界では、フランスと違って料理そのものが批評の対象となるジャンルとして認められていない。そのうえ、料理人の世界は閉鎖的で、外部からの批判を決して受け付けようとしない。
 フランスでは、一流の料理人はかならず自分のレシピを公開して分厚い本を書く。料理の批評記事は、一流新聞に定期的に掲載される。
 また、どんな高級レストランでも、一般に開放されている。誰でも電話一本で予約できる。
 ところが、日本料理の世界では、料理は秘伝として公開しないまま代々受け継ぐ。一見さんはお断り、取材なんかとんでもない、という閉鎖性がまだまだ存続している。京都の老舗ともなれば、なおさらだろう。それはそれで伝統的な文化として守る価値はあるかもしれない。しかし、レストランという括りで見た場合、その閉鎖性は世界標準であるオープンなシステムとは相容れない。
 『ミシュラン東京版』は、出来不出来はともかく、伝統的な土俵から世界標準のピットに日本料理を引きずり出そうとする。まさしくグローバルな「黒船」にほかならない。

   *

 ミシュランのタイヤを履いた車で行けない海外の都市を扱おうとしたとき、『ミシュラン』の主宰者はこれまでとは別個の案内書をつくろうと決意したらしい。コメントも写真も載せない、という『ミシュラン』の決まりは、2005年のニューヨーク版で破られた。その結果できたのは、ミシュランの名を冠するには余りにもお粗末なガイドブックだった。面白みもなく役立ちそうもないわりに大きな写真と、店側の言い分をただ垂れ流すだけの節操のない文章が盛りこまれた。
 2007年の東京版も、こうした、ちょっと悲しくなるガイドブックだ。
 『ミシュラン東京版』の目玉が、スシ店を取りあげることにあったのは明白だ。フランスをはじめ、世界中で流行しているスシの、これが本場の最高基準なのだ、ということを他に先駆けてミシュランが示すこと。ジョエル・ロビュション氏をはじめとする世界の超一流料理人たちが来日するたびに訪れるようになった<すきやばし次郎>を「三ツ星」として認定すること。これが、『ミシュラン東京版』の前提条件になっていたのは容易に想像できる。
 フランスの『ミシュラン』では、三ツ星に価するレストランが満たすべき条件のひとつに、店の大きさと内装の立派さがある。フランスでは、これを「カードル(枠組)」と呼ぶ。要するに、入れもののことだ。レストランがどんな建物の中にあるか、店の施設、設備、家具、什器、食卓の設え、インテリアのグレードなど。トイレは必ずチェックされるらしい。ソフト面のサービスとは別に、ハードなモノや構造そのものが評価基準のひとつとされている。店の大きさ、収容能力の目安はないが、三ツ星レストランにあまり小さい店はない。
 この意味で<すきやばし次郎>は破格だ。店があるのはビルの地下、それも数軒の飲食店が並ぶ小さな地下街の一角である。10人も座ればいっぱいになってしまうカウンターが中心で、車いすは入れないし、キャッシュカードは使えない。トレイはビルの共用トイレだ。世界のミシュラン三ツ星の中で、店内にトイレがない店は、おそらくここだけだ。
 店主の小野二郎氏は自他ともに認める世界一のスシ名人だ。その料理<スシ>が三ツ星に価することは疑いようはない。だから、この店を三ツ星に認定するために、ミシュランは敢えてカードルの枠をはずしたのだ。
 
 2008年の第二版ではスシ店が6軒増えた。世界的な人気からいって、外国人読者が関心を寄せる日本の食べものは何といってもスシだ。だから、スシを中心に据えるのは当然の編集方針だろう。
 『ミシュラン東京版』は、東京を訪れるフランス人ないし英語を読める外国人旅行者一般を読者対象にして、フランス人が彼らの感覚で編集したガイドブックなのだ。だから、日本料理店に比べてフランス料理店が少ないし、日本料理店でもワインの飲める店が優遇されているのだ。
 『ミシュラン東京版』がとりあげる店の中には、日本人から見るといかにも薄っぺらな、バブルっぽいダイニングのようなインテリアの店がある。これもフランス人の趣味と考えれば納得がいく。フランス人は、日本人が考えるよりもはるかに新しいもの好きの「ミーハー」だ。古くて重厚な内装は見飽きているが、虚仮威しでも目先の変わった流行のインテリアには弱いところがあるのだ。スシに限らずやたらとカウンター席の店が多いのも、たがいに見知らぬ客が隣同士で肩をならべながら食事をするカウンターというスタイルが、フランス人にとって驚くべき斬新な発見だからである。
 フランス人が好む料理店、外国人を連れて行くとよろこばれる料理店という視点で見れば、『ミシュラン東京版』の選択は首尾一貫している。

   *

 以上、「ミシュラン解題」による。なお、このコラムは、2008年11月28日に書かれた。

【参考】玉村豊男『オジサンにも言わせろNPO』(東京書籍、2009)
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【読書余滴】野口悠紀雄の、中国の新世代「80後世代」の実力 ~日本経済再生の鍵~

2011年02月05日 | ●野口悠紀雄
(1)日本経済再生のキー
 日本人学生の就職は厳しいが、日本への留学生の就職状況は良好だ。日本企業は、新規採用を日本人学生から外国人(特に中国人)にシフトし始めたのだ。ソニーも新規採用の3割を外国人にする方針を決めた。
 自国企業の雇用を自国人だけで独占できないのは、グローバル化した経済では当然のことだ。外国人を適切に活用することができれば、日本経済再生のキーとなしうる。大変重要な変化だ。
 過去、日本は、中国から消費財を輸入し、中国に対して中間財を輸出していた。中国の役割は、単純労働力の供給だった。
 経済危機後、中国は巨大な消費主体と見なされるようになった。
 しかし、この方向を取るのは危険だ。日本における高賃金で作ったものを、中国における低所得の人々に売ろうとしても、もともと無理なのだ。ここには比較優位の視点がまったく欠落している。最低限、工場を新興国に移して安価な労働力を使う必要がある。

(2)知識労働者の供給国
 日本が目指すべき方向は、いま中国に出現しつつある新世代の能力を活用することだ。中国を知識労働者の供給国と見なすのだ。
 こう考えるのは、中国人の若い世代にきわめて優秀な人材が出現し始めたからだ。
 1970年代まで、ほとんどの中国人は教育を受ける機会を奪われていた。文化大革命で紅衛兵が学校制度を破壊し、68年から10年間、1,600万人の若者が農村や辺境に下放された(上山下郷運動)。大学は閉鎖され、知識階級は撲滅された。
 この世代の人々が80年代に一橋の野口ゼミにも留学してきたが、基礎教育をまったく受けていなかったため、指導のしようがなかった。
 それから20年後、04年、スタンフォード大学の野口のクラスに現れた中国人学生は、まったく別人種であった。日本語も英語も非常にうまい。能力も高いし、意欲もある。中国の人材に画期的な変化が起きたことがわかった。
 彼らは80年以降の生まれなので、「80後(バーリンホー)世代」と呼ばれる。中国で現代的高等教育を受けた最初の世代である。大学進学率は、03年で20%を超えた。巨大な変化が中国に起こったのである。
 中国人が日本人より優秀だとは野口は思わないが、全体数が多いため、その中にきわめて優秀な人間がいるのだ。彼らに高等教育を与えれば、それが顕在化する。その影響は、教育や科学研究の分野でようやく表れ始めた(経済や政治には本格的な影響は及んでいない)。

(3)国別論文数の推移
 国別に論文数の推移をみると、90年代の後半以降、中国が著しい勢いで成長している。03年頃に仏国を抜き、05年に日本、英国、独国を抜いた。米国のおよそ3分の1になっている。
 80年代末、中国の論文数は日本、英国、独国の20分の1程度でしかなく、まったく比較にならない存在だった。この20年間に大変化が起きたのだ。
 質の高いトップ10%の論文でも、中国は急成長している。まだ英独の半分程度だが、すでに日本を抜いた。伸び率がきわめて高いので、いずれ英独を抜くだろう。
 中国はとりわけ化学と材料科学で強い。
 各国の論文数が伸び悩む一方で中国が急成長しているから、遠からず米国を抜くだろう。ちなみに、ロシアは研究資金削減のため伸びが低くなり、ブラジル、インドよりも論文数が少なくなった。
 これは、ここ数年の間に起きた急激な変化だ。中国がGDPで日本を抜いたことより、論文数のほうが重大な変化だ。
 大学ランキングでも同様の傾向がみられる。英国の教育専門誌「タイムズ・ハイヤー・エディケーション」が10年9月に発表した「世界大学ランキング」によると、上位200校に入った日本の大学は、前年の11校から5校に減った。(香港を除く)中国は、6校となり、日本を抜いてアジア1位になった。

(4)着目するべきもの
 日本経済の方向づけを考えるときにわれわれが見るべきデータは、「自動車販売台数世界一」とか「膨大な数の中間層」ではない。そこには総人口の大きさが影響している。そして、中国の貧しさが隠されている。それを見抜けずに、これからは中国だ、と考えれば方向を誤る。
 見るべきは、論文数の推移に象徴されるような状況だ。それが示す世界は、次のようなものだ。
 (a)米国が依然として圧倒的に強く、他国を引き離している。
 (b)中国が急成長している。日本を抜いた。指標によっては英独をも抜いた。いずれ米国も抜くかもしれない。

【参考】野口悠紀雄「中国の新世代『80後世代』の実力 ~ニッポンの選択第50回~」(「週刊東洋経済」2011年2月5日号)
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【読書余滴】現代詩における心中

2011年02月04日 | 詩歌
    心中しようと 二人で来れば
      ジャジャンカ ワイワイ
    山はにっこり相好くずし
    硫黄のけむりをまた吹き上げる
      ジャジャンカ ワイワイ

    鳥も啼かない 焼石山を
    心中しようと辿っていけば
    弱い日ざしが 雲からおちる
      ジャジャンカ ワイワイ
    雲からおちる

    心中しようと 二人で来れば
    山はにっこり相好くずし
      ジャジャンカ ワイワイ
    硫黄のけむりをまた吹き上げる

    鳥も啼かない 焼石山を
      ジャジャンカ ワイワイ
    心中しようと二人で来れば
    弱い日ざしが背すじに重く
    心中しないじゃ 山が許さぬ
    山が許さぬ
      ジャジャンカ ワイワイ

      ジャジャンカ ジャジャンカ
      ジャジャンカ ワイワイ

   *

 入澤康夫の初期の傑作、「失題詩編」は『倖せそれとも不倖せ』(ユリイカ、1955)に所収 。
 近松門左衛門の道行は、読む者、見聞きする者を二人に感情移入させる。
 かたや、この詩は、読む者を相好くずす山といっしょになって囃す立場に置かせる。愉快にして猥雑、軽快にして非情な「ジャジャンカ ワイワイ」の囃子である。

 入澤康夫は、島根県松江市出身のフランス文学者、ネルヴァルの研究家。「擬物語詩」をつむぎだす詩人。詩集『季節についての試論 』(H氏賞 )、詩集『わが出雲 わが鎮魂』(読売文学賞)、詩集『死者たちの群がる風景』(高見順賞)、詩集『水辺逆旅歌』(藤村記念歴程賞 )、詩集『漂ふ舟 わが地獄くだり』(現代詩花椿賞 )、詩集『入澤康夫〈詩〉集成 』(毎日芸術賞 )、詩集『遐い宴楽 』(萩原朔太郎賞 )、詩集『アルボラーダ』(詩歌文学館賞 )、ほか著書多数。
 天澤退二郎らとともに原稿を綿密に校訂し、画期的な『校本 宮澤賢治全集』を刊行。さらに、その後の新発見資料や研究成果を踏まえ、全面的な本文決定、校訂作業をやり直し、『新校本 宮澤賢治全集』を刊行した(2009年3月完結)。

【参考】入澤康夫「失題詩編」(『入澤康夫<詩>集成』、思潮社、1979、所収)
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【読書余滴】野口悠紀雄の、日本企業のアジア戦略の誤り ~外国人の幹部候補生採用をめぐって~

2011年02月03日 | ●野口悠紀雄
(1)外国人の幹部候補生採用
 日本企業は、従来の方針を大転換し、外国人を幹部候補生として採用し始めた。こうした動きは、2012年春の採用では、さらに進むだろう。
 日本企業と日本人にとって、きわめて大きな意味をもつ変化だ。
 (a)日本人大学生の就職戦線に大きな影響がおよぶ。大学生の就職内定率は過去最悪の水準になっているが、その背景に日本企業が日本人よりはアジア特に中国の優秀な学生に目を転じ始めたことがある。
 (b)日本人であることを前提としていた人事管理・職務管理体制に、本質的な影響を与えるだろう。文化的背景、考え方が異なる人材と協働することは、決して容易ではない。
 (c)しかし、外国人活用がうまい形で進めば、日本を活性化する最後の切り札になるかもしれない。日本企業のビジネスモデルや新興国との付き合い方に係る基本的な方向づけとも密接に関わる。

(2)新興国に最終消費財の市場を求める愚
 日本企業の外国人採用増加は、主力マーケットを国内・先進国から新興国へと転換しようとしているからだ。アジア新興国市場が急拡大しているからだ。
 しかし、新興国市場の拡大と、日本企業がそこで高収益を上げられることとは、まったく別問題なのだ。新興国に最終消費財の市場を求めようとするビジネスモデルは、成功しないだろう。その理由は、
 (a)他の先進国や新興国のメーカーがすでに参入している。激しい競争が展開されている。
 (b)新興国で求められるのは、高品質製品ではなくて、低価格製品である。
 しかるに、日本の製造業は、低価格製品の生産において比較優位をもっていない。半導体がそうだった。1990年代以降、PC用低価格DRAMの需要が増えたにもかかわらず、日本の半導体メーカーはメインフレーム用高性能DRAMを作り続け、サムスンの成長を許した。
 最近でもそうだ。機能をしぼったシンクライアント型低価格PCでは、台湾メーカーの強さが目立つ。今後は中国メーカーが成長するだろう。インドのタタモーターズが08年に発表したナノは、1台27万円だ。インドのゴドレジグループが開発した冷蔵庫は、1台6,800円だ。
 インドに進出した日清食品のインスタントラーメンは1個10円だが、それでも売れない。かかる市場が日本の活性化に寄与するだろうか。

(3)アジアの中間層
 中間所得層(「ボリュームゾーン」)がアジアに成長しつつあるから、アジアの消費市場としての魅力が今後高まる、といわれる。
 アジアの中間層は09年に8.8億人、今後10年間で倍増する、と『通所白書2010』はいう。富裕層は、09年に日本では9,200万人、日本を除くアジアでは6,200万人だが、5年以内に日本を抜く、ともいう。
 だが、実態を見れば、アジアの中間層とは、年間所得が40万円から280万円で、そのうち大部分は120万円未満なのだ(1ドル=80円で換算)。物価の違いを度外視すれば、アジア中間層は、日本では低所得層に位置づけられる。アジア富裕層は、日本では中間層だ。
 新興国とは、低所得国なのだ。「蟻族」と呼ばれる中国の若者たちの実態に明らかだ。大卒の知的労働者だが、大都市郊外の劣悪なアパートで6人部屋に住み、長時間かけて通勤、平均月収2.5万円、昇進しても5万円、所有する家財道具はPCと携帯電話くらい、台所がないから炊事道具さえない。彼らが日本メーカーの顧客となりうるだろうか。

(4)外国人の幹部候補生採用の真の意義
 高度知識労働者レベルの外国人採用がまったく意味がない、というのではない。逆に、きわめて重要である。次の3点で日本企業に重要な意味を持ちうるからだ。これらのいずれも、日本企業のビジネスモデルを大きく変化させる可能性を秘めている。
 (a)世界的な水平分業への対応。
 (b)アジア地域を対象とした金融サービスの提供。
 (c)社員の多様化と人事管理体制への影響。
 
【参考】野口悠紀雄「日本企業のアジア戦略は間違っている ~ニッポンの選択第49回~」(「週刊東洋経済」2011年1月29日号)
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書評:宮脇俊三『最長片道切符の旅』 ~旅行記を楽しむ四つのアプローチ~

2011年02月02日 | ノンフィクション
 第一、本に書かれている順序にしたがって、著者、宮脇俊三とともに旅するのだ。
 これは、オーソドックスな読書法ではあるけれども、陳腐なアプローチだ。

 第二、自分の内部にうごめくもの、新規なものを探索する動因に身を任せて、未知の土地を訪ねるのだ。
 たとえば、「根室から厚床にかけては根室段丘と呼ばれる高さ70メートルほどの隆起台地がつづき、線路はその上に敷かれている。列車は緩やかな草原や雑木林を行くが、海霧のために作物の育ちがわるいので牧草地しかない。海岸も昆布などの採取漁業が主で、花咲から二つめに昆布盛という無人駅がある。大きなウミガラスが枯枝にとまって列車が通ってもじっとしている」(第3日 10月15日)
 あるいは、熊本から豊肥本線で大分へ至る道中、「右窓に阿蘇五岳が見えてきた。中岳の噴煙はわずかで、ちょうどその上にきた太陽がまぶしい。左窓には外輪山の内壁がぐるりと火口原をとり巻いている。/平坦な耕地をディーゼルカーは生き返ったように軽い響きをたてて走り、阿蘇に停車する。阿蘇はもとの『坊中』である。坊中は私の好きな駅名の一つだった。草鞋を脱いで宿坊に泊まるようなイメージがあった」(第32日 12月18日)

 しかし、本はたいていの場合、未知のことが書かれているから自腹を切って買って読むのだ。第二のアプローチも、いささか陳腐である。
 第二のアプローチの逆をいくのが第三のアプローチだ。よく知っている土地、少なくとも既知の土地をかすめ過ぎる宮脇の描写に批評を加えるのだ。
 「倉吉駅着18時23分。駅前を見渡したが旅館もビジネスホテルもない。ここは有名な三朝温泉の入口であり、観光客はそっちへ行ってしまうだろうし、倉吉の町は駅から遠く離れているから商用の客は市内に泊まるにちがいない。しかし、特急をはじめ全列車が停車する倉吉だから駅前旅館の一軒ぐらいあってもいいではないか。あるいは見えないところに一、二軒あるのかもしれないが、この雨では探すのは厄介だ」(第24日 12月4日)
 じつは、あるのだよ、わんさと。駅を出て目の前に瀟洒な「ホテルセントパレス倉吉」が見えるし、数分歩くだけでビジネスホテルやら旅館がひしめいているのだよ。
 手抜きしないで、雨ニモ負ケズ、風ニモ負ケズ、探したまい。
 ・・・・だが、宮脇が旅した1978年当時も、ホテルや旅館は現在と同じく、既に営業していたのだろうか。

 ここで、第四のアプローチが浮上する。風俗史的接近と呼んでもよい。
 宮脇が旅行記を記した1978年は、いかなる年だったのか。

 下川耿史/家庭総合研究会『昭和・平成家庭史年表 1926-2000』(河出書房新社、2001)によれば・・・・
 3月14日、福岡の菓子屋「鶴乃子のメーカー石村万盛堂が「ホワイトデー」を発案した。
 3月30日、第50回選抜高校野球大会で、前橋高校の松本稔投手が対比叡山高戦で初の完全試合を達成した(ちなみに、次の試合では我が母校は滅多打ちにあった)。
 4月6日、東京池袋に超高層「サンシャインビル」が完成した。
 4月30日、植村直己が犬ぞりで北極点に単独で到達した。
 7月29日、国産初の発電用原子炉「ふげん」(福井県鶴岡市)が送電を開始した。
 9月18日、東京駅南口に売場面積日本一の八重洲ブックセンターが開店した。
 10月12日、西武グループが「クラウンライター・ライオンズ」を買収し、西武ライオンズと改称した。
 11月21日、江川卓の空白の一日事件が起きた。
 12月1日、道交法改正により酒酔い運転は即免許停止になった。
 ・・・・そして、この年、米国映画「ロッキー」が大ヒットし、タンクトップがブームになった。インベーダー・ゲームが流行った。

 週間朝日・編『戦後値段史年表』(朝日文庫、1995)によれば、1978年の各商品の値段は・・・・
 京都市電乗車賃は100円だった(市電はこの年9月30日に廃止された)。
 東京都文京区本郷における標準的な下宿料金は、4畳半で38,000円、6畳で43,000円だった。
 牛乳は1本55円、週刊誌180円、ビール大瓶215円、葉書20円・手紙50円だった。

 『最長片道切符の旅』は2008年に17刷改版が出ているから、長期にわたり読み継がれているわけだ。事実おもしろい。
 このたび初めて一読したのだが、1978年という四半世紀以上昔の、しかも国鉄時代の旅であるにもかかわらず、古さはあまり感じさせない。
 「大阪平野の西北部を30分ほど走り、宝塚を過ぎると武庫川の谷に入る。車窓が一変して山峡となる。水量はすくないが露出した岩肌と松との色がよく調和している。大阪からわずか30分余でこんな渓谷が見られるとは、関西の人が羨ましい。しかも、行くほどに谷の両岸はますます切り立ってきた。列車は幾度も鉄橋を渡り、そのたびにトンネルに入る」(第24日 12月4日)
 今もこんな感じだ。ここに古さをあまり感じさせない理由がある。宮脇の視線は、もっぱら車窓からみる風景に向けられているのだ。文庫版あとがきで本書の結論とする「日本の広さと多様性」を感じとるには、車窓風景でも事足りるというわけだ。
 これは、逆にいえば、ここでは時代を色濃く反映する要素はほとんど取りあげられていない、ということだ。だからこそ、第四のアプローチが本書を補足する。

【参考】宮脇俊三『最長片道切符の旅』(新潮文庫、1983)
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【大岡昇平ノート】身体に抵抗する精神 ~『成城だより』の文学的でない読み方~

2011年02月01日 | ●大岡昇平
 大岡昇平は、若年の一時期と旅行中のほか日記をつける習慣がなかった。1970年代のなかば、もの忘れがひどくなったのを自覚して簡単な日録をつけはじめた。これを膨らませ公表用日記が『成城だより』である。
 『成城だより』は1979(昭和54)年11月8日から1980(昭和55)年10月17日までで、大岡昇平は1909(明治42)年3月6日生まれだから、70歳から71歳にかけてのことだ。
 ちなみに、『成城だよりⅡ』が1982(昭和57)年1月1日から同年12月15日まで、72歳から73歳にかけて。『成城だよりⅢ』が1985(昭和60)年1月1日から12月13日まで、75歳から76歳にかけて。
 最後のあとがきは77歳の誕生日(1986(昭和61)年3月6日)に記された。2年後、1988(昭和63)年12月25日に大岡昇平は鬼籍に入る。享年79。
 要するに、『成城だより』は、大岡昇平の70歳から76歳までの6年間にわたる晩年の思想と行動を、2回の中断をはさんで、詳細に垣間見せる。

 厚生労働省の簡易生命表によれば、大岡が没した1988年の平均寿命は、男性75.54歳(女性81.30歳)だ。
 大岡は、当時の平均寿命より少し長く生きたわけだ。
 ちなみに、2009年では男性79.59歳(女性86.44歳)だ。この20年間余のうちに男性4歳強(女性5歳強)、平均寿命が伸びたことになる。

 ところで、講談社文芸文庫版『成城だより』は2001年に刊行された。その解説で、加藤典洋はこう書いている。
 『成城だより』は、「文学的な日録でありつつなお、1980年代前半を生きる、年老いた戦後文学者の日々の生活感を伝える。気がついてみればこれは、またとない日記文学の傑作ではないか。そういうことにわたしは今回、これが書かれて20年もして、はじめて気づいたところなのである」
 しかし、『成城だより』に記されるのは、時代の中の「生活感」だけではない。加齢に伴う「生活感」も少なからず記される。いや、少なからずとは控え目な言い方であって、ズバリいえば頻出する。試みに身体に係る懸念ないし不調を記した箇所に付箋を貼ってみるとよい。100枚では足りない。
 大岡が公表を予定して書いた日記(『成城だより』)全体は、加藤が日記文学の傑作と評価するように、きわめて独特な内容と文体をもち、万人に普遍的ではない。
 しかし、大岡が日記の片隅に書きとめた老化は、万人に共通する。いま、晩年の大岡の年代にある者は、『成城だより』に、もう一人の自分を見いだすことができる。そして、定年をむかえる団塊の世代は、そう遠くない将来、自分の心身がどのように変貌するかを、大岡の日記から見てとることができる。

 大岡昇平という稀代の自己分析家は、明晰なまなざしをもって、自分の身体の衰えを驚くべき冷静さで観察している。若くしてランボーに親しんだ大岡は、「私は一個の他人である」という警句を知らなかったはずはない。あるいは、アランの「魂とは物質に抵抗するものである」も当然知っていただろう。
 「歳月は勝手に来て勝手に去る」とは、山本夏彦一流の皮肉な洞察だが、人間の身体もまた、その精神とは別個に、勝手に成長し、勝手に衰えるのである。
 身体の衰弱に伴って精神も衰弱するのが通常だが、大岡昇平という巨大な知性は、身体だけを勝手に衰弱させた。こうした人もいるのだ。近年では、免疫学者にして文筆家の多田富雄も、身体とは独立に知性を維持した一人だ。
 事は高齢者に限らない。老若男女を問わず、事故、病気その他の理由によって身体機能の低下に直面する者にとって、大岡昇平や多田富雄は一つのモデルとなるだろう。
 以下、『成城だより』から一部を引く。【 】内は、引用者による補注である。

    *

1979年
11月8日(木) 晴 【70歳】
 「1976年来、白内障手術、二度の心不全発作で、老衰ひとく、運動は散歩だけとなる。それも駅まで15分の距離で疲れる。往復できず、帰りはタクシーとなる」
 「スモークドビーフサンドなるものメニュにあり、ローストビーフより塩気少いとのこと、それは心不全にはよいので、注文する。ついでに百グラム買い、駅に行くのをやめて、引き返す。歩行距離は駅まで片道と同じぐらいなり。駅付近へ行って、本屋の新刊棚をのぞいても、このところ原稿製造のために、読むべき本たまりあり、買っても読めない」

11月12日(月) 晴
 「【8月に大野正男との対談を】気軽に引き受けたけれど、7月より体調悪くなり、しくじった。三度の対談はなんでもなかったが、その後の整理、加筆に手間取る。新年号原稿の中へ割り込んで来て、閉口す」
 「温かい日続く。暖かいうちに、散歩しておかないといけない。12月から外出禁止となる。心不全には風邪が敵、発熱がよくない」
 「散歩の必要。大腿筋のごとき大きな筋肉を働かすと、脳内の血行が活発になるとの説あり。実際、古今東西に歩行の詩文多く、筆者も以前は行き詰まると書斎内をぐるぐる歩き廻ったものだった。この頃はその元気はないけれど、とにかく歩いて膝を屈伸するのに快感あり。こんなことにも快感を意識しなければならぬとは、情けないことになった」

11月13日(火) 晴
 「白内障手術してより空間感覚かわり、その上、椎骨血管不全、つまり立ちくらみあり、よろよろ歩きにて、コンサートに行けず、音楽のよろこぶべき来訪なり」【「音楽」は、大江健三郎持参の武満徹の新作レコード『イデーンⅡ』『ウォータ、ウォータ』『ウェイブズ』などを指す。】

1980年
1月16日(水) 晴
 「順天堂病院。11時着。レントゲン、心電図。先月あった心臓肥大去る。暮の18日から、まるひと月、何もしなかったのだから、よくなるわけだ。利尿剤は週に2日1日1錠、あとは半錠に減る。つまりあまり疲れない日が5日あることになる」
 「となりの東京医科歯科大病院に『海』編集長塙嘉彦君入院しあり。面会謝絶だが、奥さんに挨拶して帰るつもり。病院裏のスナックへ入って、スパゲティを食べたが、自動ドア絶えず開閉して、寒気を感じる。お茶の水は風邪強く、寒いのなり。歯科大の正門まで百メートルの道歩くのがこわくて、失礼させてもらう。/すでに感じた寒気にて風邪を引いたのではないか、との恐怖あるなり。店を出ればタクシーすぐ来て、助かる。車の中はあったかい。/成城に帰り、すぐ寝てしまう。別に寒気なく、大丈夫のようなり」

3月6日(木) 曇 【71歳】
 「わが71度目の誕生日。ケーキ、花など下さる方あり、感謝感激の至りなるも、当人はあまりめでたくも感ぜず、戸まどい気味なり。71歳まで生きられると思っていなかった。戦争に行ったのが35歳の時なれば、戦後35年、もはやそれと同じ歳月を生きたことになるのなり」
 「戦争に行った人間は、なんとなく畳の上で死ねないような気がしているものなれど、すでに手足の力なく、眼くらみ、心臓鼓動とどこおり、よろよろ歩きの老残の身となっては、畳の上ならぬ病院の、酸素テントの中なる死、確実となった。ところが『現代詩手帖』3月号芹沢俊介氏の『“戦中派”の戦後』を見ると、鮎川信夫の文章よりとして『親族の軍人が口にした』という『畳の上で死ぬ方がよほど恐しい』との言葉引用しあり。これもわかる。されば畳の上でしぬのがこわいので、あらぬ幻想にかられるに非ずやと疑う」
 「寒気ややゆるみ、庭前の梅、咲きはじむ。しかし起きるのはやめておく。娘と孫来る。誕生日のケーキを切ったが、なるべく小さいのをもらう。糖尿病に悪ければなり。娘のみ『おめでとう』と唱うる声、うつろにひびく」

3月12日(水) 晴
 「またもや寒き日。順天堂大の北村和夫教授の定期診察日(先月はさぼった)。レントゲン、心電図、快調とのこと。関西まで長距離旅行の許可出る。昨年6月の状態に、やっと戻った。『堺事件』について調査旅行可能ということ」
 「家人と共に50階のパーラーまで上って一服。筆者は二度ばかり、このあたりのホテルに泊まって、40階より俯瞰景の経験あるも、なんだか20階くらいの感じしかしない。白内障手術して空間せばまりたるなり。もはや常人にあらざる悲哀」

【参考】大岡昇平『成城だより(上下)』(講談社学芸文庫、2001)
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