『アルジャーノンに花束を』は、まず中編小説(1959年)として世に送られ、ヒューゴー賞を受賞した。ついで、書きあらためられた長編小説(1966年)に、ネビュラ賞が与えられた。
世界各国の老若男女多数から支持された、SFの傑作である。
本書の主題は、日本語版文庫への序文に明らかである。
すなわち、知識/教養は「人と人との間に楔を打ちこむ(障壁を築く)可能性がある」から、学校や家庭で「共感する心というものを教えるべきだ」
愛情を欠いた知能は、精神的道徳的な崩壊をもたらし、神経症ないしは精神病すらひきおこす、と主人公は小説の中でいっている。人間関係を排除する心は、暴力と苦痛にしかつながらない、と。
主人公、チャーリー・ゴードン(32歳)は、知的障害者【注】である。全編の言動から推定するに、発達遅滞の程度は、「裸の大将」で知られる画家、山下清よりもやや重い。
亡伯父の親友の保護下で、パン屋で働いていた。地域の子どもからからかわれ、同僚からあなどられつつも、その正直、暖かさ、率直、思いやりを愛する「ともだち」がいた。
ビークマン大学がチャーリーを被験者として選び、かしこくなる手術をする。
効果は驚異的だった。急速に知能が伸び、術後1か月で大学生と対等に会話をかわすにいたる。
だが、よいことばかりではない。善悪の識別が可能になったため、あらたに葛藤が発生したのである。
チャーリーは、同僚が店の金をくすねる現場を見つけた。不正を糺して「ともだち」を失うか、知らぬふりをしてよき保護者の損害を見過ごすか。ばかにしていた男のめざましい知的成長に、同僚たちはいらだち、敵意をつのらせる。
チャーリーは馘首された。
知能はどんどん高まり、天才の域に達する。多数の言語、数学、物理学、経済学、地質学、ありとあらゆる知識を吸収していく。
術後3か月たった。自身の症例が報告される学会にチャーリーも参加した。ここで学者たちの無知、無能を知り、チャーリーは愕然とする。
学者たちは、居心地が悪くなった。天才となったチャーリーの学者たちに対する関係は、学者たちの知的障害者に対する関係と同じなのだから。
学者たちは、チャーリーを単なる実験の対象としか見ていなかった。天才である今の自分も知的障害者であった頃の自分も人間であることはかわりがないのに、学者たちが注目するのは今の自分だけである。
不満を抱いたチャーリーは、学会から逃げ出す。
彼の手術に先立って被験体となったねずみ、アルジャーノンとともに。
チャーリーは孤独だった。
恋人はいた。チャーリーに暖かな目をむける教師アリス・キニアンがそれだが、知能の高まりにつれて、アリスはついていけなくなった。
チャーリーの知識を求める心が、アリスの愛情を排除してしまうのだ。
知的な自由をもちながら人々と感情を分かちあえる方法を、チャーリーは見つけることができない。
-------(以下、ネタばれを回避したい方はとばしてご覧ください)-------
アルジャーノンがおかしな行動をとるようになってきた。
チャーリーは、ある予感を抱いて、研究に没頭する。「人為的に誘発された知能は、その増大量に比例する速度で低下する」という結論がでた。
戦慄。
アルジャーノンは死んだ。
術後7か月め、チャーリーの退行がはじまった。
やがて、すっかり元の知的障害者にもどったチャーリーは、手記の末尾に記す。「ついしん。どーかついでがあったらうらにわのアルジャーノンのおはかに花束をそなえてやてください」
この追伸、涙なくして読めない、と或る友人は漏らした。
同感する人は少なくあるまい。
-------(以上、ネタばれを回避したい方はとばしてご覧ください)-------
このSFは、読者にさまざまの考察を強いる。
たとえば、知性と感情との関係について。感情は客観的であり知性は主観的である、と三木清は通念に逆らって独特の見解を示したが、本書を念頭におくとわかりやすい。三木のいう「客観的」とは、多数に分かりやすい、というほどの意味である。そして、「主観的」とは、多数に理解されにくく孤独な立場に身をおく、といった意味だ。
あるいは、超高齢社会の今日的な疾患、軽度認知障害(MCI、Mild Cognitive Impairment)について。認知症ほど知られていないが、知的障害は発達期(おおむね18歳まで)に生じるのに対し、軽度認知障害は成人に生じる。また、知的障害は知的能力の獲得に遅れがあるのに対し、軽度認知障害はひとたび獲得した知的能力が減少する。こうした相違があるものの、両者の感情面は損なわれない。むしろ、敏感でさえある。この点に注目すれば、本書、チャーリーの一代記は、児童のキュアまたはケアに関わる人にも、高齢者のキュアまたはケアに関わる人にも(当事者にも)、多くの示唆をあたえてくれる。
【注】
「知的障害」は、医学的にいえば精神遅滞で、日本にしかない行政用語。従前の用語、「精神薄弱」は差別感を助長するという理由で、1999年施行の「精神薄弱の用語の整理のための関係法律の一部を改正する法律」に基づき、関係法令が一斉に改正された。
□ダニエル・キイス(小尾芙佐訳)『アルジャーノンに花束を』(ハヤカワ文庫、1999)
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世界各国の老若男女多数から支持された、SFの傑作である。
本書の主題は、日本語版文庫への序文に明らかである。
すなわち、知識/教養は「人と人との間に楔を打ちこむ(障壁を築く)可能性がある」から、学校や家庭で「共感する心というものを教えるべきだ」
愛情を欠いた知能は、精神的道徳的な崩壊をもたらし、神経症ないしは精神病すらひきおこす、と主人公は小説の中でいっている。人間関係を排除する心は、暴力と苦痛にしかつながらない、と。
主人公、チャーリー・ゴードン(32歳)は、知的障害者【注】である。全編の言動から推定するに、発達遅滞の程度は、「裸の大将」で知られる画家、山下清よりもやや重い。
亡伯父の親友の保護下で、パン屋で働いていた。地域の子どもからからかわれ、同僚からあなどられつつも、その正直、暖かさ、率直、思いやりを愛する「ともだち」がいた。
ビークマン大学がチャーリーを被験者として選び、かしこくなる手術をする。
効果は驚異的だった。急速に知能が伸び、術後1か月で大学生と対等に会話をかわすにいたる。
だが、よいことばかりではない。善悪の識別が可能になったため、あらたに葛藤が発生したのである。
チャーリーは、同僚が店の金をくすねる現場を見つけた。不正を糺して「ともだち」を失うか、知らぬふりをしてよき保護者の損害を見過ごすか。ばかにしていた男のめざましい知的成長に、同僚たちはいらだち、敵意をつのらせる。
チャーリーは馘首された。
知能はどんどん高まり、天才の域に達する。多数の言語、数学、物理学、経済学、地質学、ありとあらゆる知識を吸収していく。
術後3か月たった。自身の症例が報告される学会にチャーリーも参加した。ここで学者たちの無知、無能を知り、チャーリーは愕然とする。
学者たちは、居心地が悪くなった。天才となったチャーリーの学者たちに対する関係は、学者たちの知的障害者に対する関係と同じなのだから。
学者たちは、チャーリーを単なる実験の対象としか見ていなかった。天才である今の自分も知的障害者であった頃の自分も人間であることはかわりがないのに、学者たちが注目するのは今の自分だけである。
不満を抱いたチャーリーは、学会から逃げ出す。
彼の手術に先立って被験体となったねずみ、アルジャーノンとともに。
チャーリーは孤独だった。
恋人はいた。チャーリーに暖かな目をむける教師アリス・キニアンがそれだが、知能の高まりにつれて、アリスはついていけなくなった。
チャーリーの知識を求める心が、アリスの愛情を排除してしまうのだ。
知的な自由をもちながら人々と感情を分かちあえる方法を、チャーリーは見つけることができない。
-------(以下、ネタばれを回避したい方はとばしてご覧ください)-------
アルジャーノンがおかしな行動をとるようになってきた。
チャーリーは、ある予感を抱いて、研究に没頭する。「人為的に誘発された知能は、その増大量に比例する速度で低下する」という結論がでた。
戦慄。
アルジャーノンは死んだ。
術後7か月め、チャーリーの退行がはじまった。
やがて、すっかり元の知的障害者にもどったチャーリーは、手記の末尾に記す。「ついしん。どーかついでがあったらうらにわのアルジャーノンのおはかに花束をそなえてやてください」
この追伸、涙なくして読めない、と或る友人は漏らした。
同感する人は少なくあるまい。
-------(以上、ネタばれを回避したい方はとばしてご覧ください)-------
このSFは、読者にさまざまの考察を強いる。
たとえば、知性と感情との関係について。感情は客観的であり知性は主観的である、と三木清は通念に逆らって独特の見解を示したが、本書を念頭におくとわかりやすい。三木のいう「客観的」とは、多数に分かりやすい、というほどの意味である。そして、「主観的」とは、多数に理解されにくく孤独な立場に身をおく、といった意味だ。
あるいは、超高齢社会の今日的な疾患、軽度認知障害(MCI、Mild Cognitive Impairment)について。認知症ほど知られていないが、知的障害は発達期(おおむね18歳まで)に生じるのに対し、軽度認知障害は成人に生じる。また、知的障害は知的能力の獲得に遅れがあるのに対し、軽度認知障害はひとたび獲得した知的能力が減少する。こうした相違があるものの、両者の感情面は損なわれない。むしろ、敏感でさえある。この点に注目すれば、本書、チャーリーの一代記は、児童のキュアまたはケアに関わる人にも、高齢者のキュアまたはケアに関わる人にも(当事者にも)、多くの示唆をあたえてくれる。
【注】
「知的障害」は、医学的にいえば精神遅滞で、日本にしかない行政用語。従前の用語、「精神薄弱」は差別感を助長するという理由で、1999年施行の「精神薄弱の用語の整理のための関係法律の一部を改正する法律」に基づき、関係法令が一斉に改正された。
□ダニエル・キイス(小尾芙佐訳)『アルジャーノンに花束を』(ハヤカワ文庫、1999)
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