2012年3月11日
金城一紀の言うように、世界が正常に近づく話をしよう。
一年生に書道展に誘われた。
日にちによるな、と言ったら翌日、授業の前に案内ハガキを持ってきた。
ひかえめな男子なのでよほど来てほしいのだろう。
僕は約束したら必ず守るので返事は慎重だ。
見ると、よく知ったビルでいつもの散歩道だ。
行くと約束した。
約束をした翌週、10日の土曜日がいいんですけど、と言いに来た。
その日なら僕もお母さんもいるんです、と言う。
いいよいいよ、と答えた。
お母さんにも会って欲しいのだ。
書道が好きだったのだな。
きっと得意なんだな。
彼は最初の指名なし討論で、いちばん最後に残り、言えません言えませんと渋った生徒なのだから。
おととい9日金曜日の授業で、先生来れますか、と確かめに来た。
行けるよ、明日でしょ。
え、いえ、11日がいいって言ったんですけど。
あ、聞き間違えたね、日曜日だね、大丈夫。
入り口に、えっと、名前とか書くところがあります。
わかった、お昼ごろだと思うよ。
ますます行くしかなくなった。
今日がその3月11日だ。
僕はこの二週間、無駄に毎日疲れ果て今日もなかなか起き上がれなかった。
眠くて眠くてたまらない。
午前10時に合わせた目覚ましの針を、11時に進め、12時に進め、やっと起き上がった。
行かないわけにはいかない。
去年と同じように、風は冷たいがよく晴れて気持ちのよい午後だった。
電車の中で14時46分が過ぎると少しほっとした。
同じような気持ちの人がたくさんいるのだろうなと思った。
現地の人には無意味な時刻だろうとも思った。
三十年間なじみのビルに入る。
三階に受け付けがある。
毛筆で下手くそな氏名を書く。
中に入ると見事な毛筆が並んで賞が付いている。
想像以上の大きな書道展だ。
三階を奥に進むと階段があり、下に中二階の広いフロアーがある。
そこが子供の展覧会場だ。
つい立ての間に二十畳ほどの紙が敷きつめられ、フロアーは大人子供でいっぱいだ。
子供は並んで、字を書く順番を待っている。
役員らしい大人が新聞紙を大きく開いて置き、その上に同じ大きさの半紙を置く。
順番が来ると、子供は大人のすねほど大きな筆で一枚書く。
見せ場ですね。
その子供の見せ場に偶然出会わせたたらしい。
よく見ると、A君も並んでいる。
クラスの男子が二人いる。
上からのほうがよく見えるので、僕はそのまま階段の上にいる。
すると、彼らは気づいて頭を下げる。
友人二人は上がって来る。
「A君も書くの」
「はい。国語満点って書くって言ってます」
「……国語満点って。変だろ」
「しかも、国語のコクって、点は右だっけ左だっけって聞いてました」
「ガハハハ」
書かれる巨大な毛筆は「春」とか「桜」とか一字で季節に合わせている。
同じように、春、桜、春、桜、の文字が役員の手で並べて乾かされる。
それを周りで、保護者と役員の大人が見ている。
書き終わると、みんなで拍手してあげる。
いい感じだ。
でも、国語満点は変だろう。
「ちょっとさあ、みんな、春とか桜とか書いてるのに、国語満点って書いたら完全に浮くよね」
「でも、もしかしたら数学満点って書くかもしれません」
「よけいおかしいだろ」
「国、まで書いて、やっぱり数学かなと、国数満点と書くかもしれません」
「おかしいだろ!」
そうこうするうち、A君の番が来る。
馬鹿でかい筆を両手で持ち、役員が差し出すバケツに突っ込んで墨をつける。
A君はよいしょ、と筆を持ち上げる。
縦棒一本。
横棒を引いて角をつけると下に曲げる。
ほんとに、コク、かよ。
僕は前に立ちふさがった親爺をかき分けると一画一画を見つめた。
「四文字は無理ですよね」
とA君の友人が言う。
無理だ、無理に決まっている。
墨を四度つけ足して彼は書き終えた。
国
語
完全に浮いている。
なぜ、春、桜に混じって国語と書くのか誰にもわからない。
不可解な拍手が起こる。
僕はそこでやっと中二階に降りてお母さんにご挨拶し、A君に声をかけた。
その後子供の展示を見ると、A君は特選だった。
別に同じ名字の女子の作品があったので妹の書だとわかった。
大人の部を見直すとまた同じ名字のお母さんと思われる素晴らしい奨励賞の作品があった。
来て欲しかったわけだ。
帰ろうとしてもう一度、中二階に僕は降りた。
友人二人が、先生これからどこ行くんですか、と尋ねた。
映画を観に行くよ、と答えた。
すると、A君は丸太ほど大きな新聞紙の筒を僕に手渡した。
「おみやげに」
とA君は天使のような笑顔で言った。
お母さんが、
「すみませんねえ荷物になって」
と言った。
「いえいえ、ありがとうございます」
と僕は言った。
丸太の中には、さっきの馬鹿でかい、ちょっと下手くそな[国語]の半紙が巻いてあるのだった。
そんなことは言われなくてもわかった。
日曜日の午後、五十歳のおじさんが映画を観に行くには少しだけ大きすぎるおみやげだった。
おもしろすぎたが、そこでは笑えなかった。
彼らは受け付けのそばまで送ってくれた。
ここでいいよ、と言うと僕は階段を降りた。
A君は二階まで降りた見えない僕に向かって大きな声で、
「HYOKO先生、ありがとうございました。また、あした」
と叫んだ。
声は階段に響き渡る。
僕は、
「また、あしたね」
と返事を返した。
金城一紀の言うように、世界が正常に近づく話をしよう。
一年生に書道展に誘われた。
日にちによるな、と言ったら翌日、授業の前に案内ハガキを持ってきた。
ひかえめな男子なのでよほど来てほしいのだろう。
僕は約束したら必ず守るので返事は慎重だ。
見ると、よく知ったビルでいつもの散歩道だ。
行くと約束した。
約束をした翌週、10日の土曜日がいいんですけど、と言いに来た。
その日なら僕もお母さんもいるんです、と言う。
いいよいいよ、と答えた。
お母さんにも会って欲しいのだ。
書道が好きだったのだな。
きっと得意なんだな。
彼は最初の指名なし討論で、いちばん最後に残り、言えません言えませんと渋った生徒なのだから。
おととい9日金曜日の授業で、先生来れますか、と確かめに来た。
行けるよ、明日でしょ。
え、いえ、11日がいいって言ったんですけど。
あ、聞き間違えたね、日曜日だね、大丈夫。
入り口に、えっと、名前とか書くところがあります。
わかった、お昼ごろだと思うよ。
ますます行くしかなくなった。
今日がその3月11日だ。
僕はこの二週間、無駄に毎日疲れ果て今日もなかなか起き上がれなかった。
眠くて眠くてたまらない。
午前10時に合わせた目覚ましの針を、11時に進め、12時に進め、やっと起き上がった。
行かないわけにはいかない。
去年と同じように、風は冷たいがよく晴れて気持ちのよい午後だった。
電車の中で14時46分が過ぎると少しほっとした。
同じような気持ちの人がたくさんいるのだろうなと思った。
現地の人には無意味な時刻だろうとも思った。
三十年間なじみのビルに入る。
三階に受け付けがある。
毛筆で下手くそな氏名を書く。
中に入ると見事な毛筆が並んで賞が付いている。
想像以上の大きな書道展だ。
三階を奥に進むと階段があり、下に中二階の広いフロアーがある。
そこが子供の展覧会場だ。
つい立ての間に二十畳ほどの紙が敷きつめられ、フロアーは大人子供でいっぱいだ。
子供は並んで、字を書く順番を待っている。
役員らしい大人が新聞紙を大きく開いて置き、その上に同じ大きさの半紙を置く。
順番が来ると、子供は大人のすねほど大きな筆で一枚書く。
見せ場ですね。
その子供の見せ場に偶然出会わせたたらしい。
よく見ると、A君も並んでいる。
クラスの男子が二人いる。
上からのほうがよく見えるので、僕はそのまま階段の上にいる。
すると、彼らは気づいて頭を下げる。
友人二人は上がって来る。
「A君も書くの」
「はい。国語満点って書くって言ってます」
「……国語満点って。変だろ」
「しかも、国語のコクって、点は右だっけ左だっけって聞いてました」
「ガハハハ」
書かれる巨大な毛筆は「春」とか「桜」とか一字で季節に合わせている。
同じように、春、桜、春、桜、の文字が役員の手で並べて乾かされる。
それを周りで、保護者と役員の大人が見ている。
書き終わると、みんなで拍手してあげる。
いい感じだ。
でも、国語満点は変だろう。
「ちょっとさあ、みんな、春とか桜とか書いてるのに、国語満点って書いたら完全に浮くよね」
「でも、もしかしたら数学満点って書くかもしれません」
「よけいおかしいだろ」
「国、まで書いて、やっぱり数学かなと、国数満点と書くかもしれません」
「おかしいだろ!」
そうこうするうち、A君の番が来る。
馬鹿でかい筆を両手で持ち、役員が差し出すバケツに突っ込んで墨をつける。
A君はよいしょ、と筆を持ち上げる。
縦棒一本。
横棒を引いて角をつけると下に曲げる。
ほんとに、コク、かよ。
僕は前に立ちふさがった親爺をかき分けると一画一画を見つめた。
「四文字は無理ですよね」
とA君の友人が言う。
無理だ、無理に決まっている。
墨を四度つけ足して彼は書き終えた。
国
語
完全に浮いている。
なぜ、春、桜に混じって国語と書くのか誰にもわからない。
不可解な拍手が起こる。
僕はそこでやっと中二階に降りてお母さんにご挨拶し、A君に声をかけた。
その後子供の展示を見ると、A君は特選だった。
別に同じ名字の女子の作品があったので妹の書だとわかった。
大人の部を見直すとまた同じ名字のお母さんと思われる素晴らしい奨励賞の作品があった。
来て欲しかったわけだ。
帰ろうとしてもう一度、中二階に僕は降りた。
友人二人が、先生これからどこ行くんですか、と尋ねた。
映画を観に行くよ、と答えた。
すると、A君は丸太ほど大きな新聞紙の筒を僕に手渡した。
「おみやげに」
とA君は天使のような笑顔で言った。
お母さんが、
「すみませんねえ荷物になって」
と言った。
「いえいえ、ありがとうございます」
と僕は言った。
丸太の中には、さっきの馬鹿でかい、ちょっと下手くそな[国語]の半紙が巻いてあるのだった。
そんなことは言われなくてもわかった。
日曜日の午後、五十歳のおじさんが映画を観に行くには少しだけ大きすぎるおみやげだった。
おもしろすぎたが、そこでは笑えなかった。
彼らは受け付けのそばまで送ってくれた。
ここでいいよ、と言うと僕は階段を降りた。
A君は二階まで降りた見えない僕に向かって大きな声で、
「HYOKO先生、ありがとうございました。また、あした」
と叫んだ。
声は階段に響き渡る。
僕は、
「また、あしたね」
と返事を返した。