名 称:将軍塚古墳
形 態:古墳(前方後円墳)
時 期:4世紀説と5世紀後半から6世紀初頭とする説など諸説あり
指 定:県指定史跡(昭和35(1960)年3月1日指定)
所在地:埼玉県東松山市下野本612
都幾川が形成した広い沖積地に張り出す松山台地の先端部に築造された将軍塚古墳を訪ねてみました。
場所的には、旧野本村地内にある野本氏民活動センター(農村センター)のすぐ東側にあたりますが、目立
つのはどちらかと言えば将軍塚古墳の方ですが。
この将軍塚古墳のすぐ北側に無量寿寺というお寺があります。無量寿寺は山号を利仁山と号し、かつては、
藤原利仁(ふじわらのとしひと)の後裔で野本氏の始祖とされる野本基和(のもともとかず)の館があった
とされます。
将軍塚古墳の名の由来は、この平安時代の武将で武蔵守を務めた藤原利仁が鎮守府将軍であったことからき
ているようで、後円部頂上には藤原利仁を祀った利仁神社が建立されています。
誰の墳墓かは不明ですが、藤原利仁のものではないことは時代が全く違いますので確かです。
将軍塚古墳の南側を走る県道345号線沿いにある標識
上の標識のすぐ道向かいが無量寿寺の参道です。参道右側が将軍塚古墳で、石碑・案内板が建てられています。
写真手前が前方部、奥が後円部です。
石碑 昭和35年3月1日指定 埼玉県指定史跡 将軍塚古墳 と刻まれています。
案内板 昭和35年3月1日指定 埼玉県指定史跡 将軍塚古墳 と記されていますがほとんど読めない状態になっ
ています。
左:寺号標 無量壽寺 右:山号標 利仁山
左側のフェンス内側が野本氏民活動センター(農村センター) 旧野本小学校校地
参道の突き当りに無量寿寺(野本氏館跡)があります
将軍塚古墳前方部への階段 上に建っているのは戦没者慰霊碑
古墳くびれ部分西側にある鳥居 奥に見えるのは利仁神社参道への階段
写真右側の階段が鳥居からの階段
写真上(奥)が前方部 下(手前)が後円部で利仁神社参道
後円部で利仁神社参道
後円部頂上部に立つ利仁神社(としひとじんじゃ)
祭 神:藤原利仁(ふじわらとしひと)
創 建:延長元年(923)
社 格:―
扁額
境内
社殿背後から下を 白く見えるのは古墳と無量寿寺との間の道路
無量寿寺はこの将軍塚古墳の北側にあたります
後円部西側の法面
後円部北側
案内(説明)板
この案内板では野本将軍塚古墳とありますが、正式名称は将軍塚古墳のようです。他の古墳等の区別、所在地を
分りやすくするために地名の野本を冠しているようで、野本将軍塚古墳と標記する方と単に将軍塚古墳と標記す
るなど両者の名称が使われています。
将軍塚古墳は今年2月、野本氏館(無量寿寺)を訪ねた折に序でに(序でも何も目の前ですから)寄り何枚かの
写真を撮ってきました。
しかし、ブログ記事にする予定はなくそのまま放置してありました。が、先日、嵐山町の将軍神社(将軍塚)を
訪問し少しだけですが調べたところ、この将軍とは征夷大将軍坂上田村麻呂の将軍から付けられたという通説の
他に鎮守府将軍藤原利仁の将軍からという説(史料)もあるとのことでした。
利仁神社があるのは将軍塚古墳でやはり将軍塚という名称ですし、ここ野本と将軍沢は市町こそ違え、距離的に
も近いです。そんなことから坂上田村麻呂と藤原利仁を混同して、将軍神社の将軍とは藤原利仁を指すのではな
いかと史料が存在したのではないか、将軍塚古墳について調べてみれば何らかのヒントがあるかもしれない素人
が勝手に期待したのですが、残念ながら何もわかりませんでした。
折角ですから、将軍神社に絡めてこの将軍塚古墳も記事に残そうと、追加の写真を撮ってきて本記事にした次第
です(何を書いているのやら書いた本人もわからなくなってしまいましたが)
散策・撮影日:平成29年(2017)2月17日(金)・10月27日(金)