四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

比企能員館(埼玉県東松山市)

2017年11月23日 | 100名城以外の城館跡


城 名:比企能員館(ひきよしかずやかた)
別 名:-
築城年:不明(鎌倉期)
所在地:埼玉県東松山市大谷・宗悟寺周辺一帯の何れかの場所

比企能員(ひきよしかず・?―1203)
鎌倉時代初期の武将。能員の養母比企尼は源頼朝の乳母であり、頼朝が伊豆に配流されると武蔵国比企郡(埼玉県比企郡・
入間郡)に移り住み、なにかと頼朝のめんどうをみた。その関係から能員も早くから頼朝に仕え、平氏打倒、奥州征伐にも
活躍した。さらに比企尼の娘が2代将軍頼家(よりいえ)の乳母となり、また能員の娘が頼家に嫁して(若狭局(わかさのつ
ぼね))一幡(いちまん)を生んだ。かくして能員は幕府創業以来の功臣として、また頼家の側近としてしだいに重きをなし
ていった。しかし1203年(建仁3)頼家の重病に際し、後を一幡が継ぐことによる比企氏の勢力増大を恐れた北条氏によっ
て、能員は9月2日謀殺され、続いて一族も滅ぼされた。     【出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)】

比企能員の館が東松山市大谷にあったということから、ネットで皆さんの情報を探して参考にさせていただき、比企能員館
あったと推定されている場所を散策してみました。あくまで伝承で、館があったかは不確かなようですが、この大谷地区は
比企氏とゆかりが深いことは地名等からも見て取れますので、館はあったと信じたいものです
冒頭の写真は宗悟寺の山門ですが、この寺も比企氏とはゆかりのある寺です。




比企能員館は宗悟寺の東の城ヶ谷(じょうがやつ)にあったらしいとのことから城ヶ谷沼へ。
右側の道路奥のうっすらと見える堤の後ろが城ヶ谷沼。かつては釣り場だったようでその名残の看板や小屋があります。
沼の西側(写真左側)に館を構えたのではと推理する方もおるようです。竹林の中には平場があるとかですが、なんせ藪
の中、さすがに勘弁です。場所さえ確認できれば十分です。




沼を背にして




城ヶ谷沼




宗悟寺の西方にある比丘尼山  これは宗悟寺寄りの南東方向から撮ったもの
「比丘尼山」は、比企能員の養母で、伊豆に流されていた源頼朝を援助した比企郡司遠宗の妻が、夫の没後、比企禅尼と
なりここに草庵を結んだんといういうことから呼ばれています。更に、周辺には能員の娘で二代将軍頼家の妻若狭局が頼
家亡きあと移り住んだと伝える場所などもあります。




この谷(やつ)の奥に若狭局が亡き夫頼家への思いを断ち切るために櫛を投げ入れたという串引沼(古名:奇比企沼)が
あります。




辻に石仏が建つ長閑な田園の道を串引沼に向けて歩きます。




左の山が比丘尼山 




串引沼に着きました。
丁度影になっているところに石碑が建っています。何か謂れでも書かれているのかと思いきや串引沼改修の碑




堤下段に「串引沼と若狭局の悲話」の看板が建っています。




読める程度に大きくしてみました(こうすれば内容を転記する必要がありませんので・・・即ち手抜き)




堤上段から来た道を振り返ります。




まるで湖のような串引沼  でもやっぱり灌漑用の沼なんです。
今は、川越カントリーの一部になってしまっていますが、この沼の先に若狭局隠棲址があるようです。
ゴルフ場と化した今では遺構は望めないでしょうが、梅ケ谷という場所らしいです。




この沼の底に亡夫への思いを断ち切るために投げ入れた形見の鎌倉彫の櫛が眠っているかと思うとまさしく歴史ロマンです。




沼の南西端に社が見えます。




社名札(扁額)が掲げられていませんので何という社なのか  上はゴルフ場です。




同所からもう一度串引沼を・・・

これら比丘尼山や串引沼などを含む「大谷伝説の里」をみなさんは1日で歩くようです。しかし、自身はそのうちの
数か所を散策するために都合5日も通いました。同じ場所を2度3度と訪ねなければならないという全く計画性のな
いことをやっています。まあ、ここに限ったことではなく、ほかのところもほぼ同様です。この記事とて、数日の散
策で撮った数多くの写真の中から選んだ写真で構成しました。1回(1日)で済ませればもっといろいろなところに
出かけられるのに・・・

散策日:平成29年(2017)10月30日(月)~11月6日(月)の間の数日