四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

平山館(埼玉・熊谷市)

2017年11月11日 | 100名城以外の城館跡


名 称:平山館(ひらやまやかた)・平山家住宅
形 態:民家(農家住宅)
建 築:17世紀末から18世紀初頭(江戸中期)
指 定:国指定重要文化財(昭和46年(1971)6月22日指定)
所有者:個人
所在地:埼玉県熊谷市樋春1067(旧大里郡江南町)

熊谷市の樋春地内の荒川右岸に位置している平山家住宅を訪ねてきました。
当主の平山氏は、源平合戦に登場する武蔵武士の一人、平山武者所季重の子孫と伝えられます。戦国時代、平山豊
後守は、現在の深谷市に居を構え、深谷上杉氏に仕えていましたが、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻
めで深谷上杉氏の衰亡に伴い、江南の地に土着、帰農しましたと言います。以後、旧樋口村の世襲名主を勤めるな
どの村内屈指の旧家となりました。樋口村とはその名のとおり樋の口(松材等で作った管を土手に通し用水の取水
口とした)のあった場所で、名主平山氏は樋管と用水路の管理をを行っていました。それだけに絶大な権力も持っ
ていたようす。
国指定重要文化財となっている今の平山家住宅は、樋口村名主となった平山家七代目勘右衛門(1670~1708)の頃
創建されたと考えられるそうです。

本件建物は平山氏が武士であったころの館ではなく、名主をしていたころの農家の住宅ですので、本稿の標題には、
国指定重要文化財指定の名称でもある平山家住宅とすべきなのかもしれませんが、敢えて「平山館」としたのは、戦
国時代への思いからです。




このあたりまできたところ、「目的地付近です」とナビが教えてくれましたが、かやぶきの屋根が目に入りませんで
したし、「平山家住宅 ふるさと歩道」の標柱にも気づきませんでした。
いずれにしろこの近くであることは間違いないので、ぐるっと回ってもう一度このあたりに戻ってこようと、荒川の
土手下の道路を走ったのはよいのですが、Uターンする適当な場所がなく、荒川大橋の手前まで行ってしまい時間とガ
ソリンの無駄使い(いつものことです。当然のことながらこの写真も帰り際に撮ったものです) 




付近まで戻り住宅街の中に入り、キョロキョロして発見したのがこの看板。




干し柿造りをしていたご当主に挨拶をして住宅見学・撮影の許可をいただきましたが、見学の前にいろいろと話をお伺
いすることができました。
小田原攻めのあと、秋元氏がここ(無論今の住宅ではないが)に住んでいたことがあるという話があるとのこと。その
秋元氏とは深谷上杉の重臣であった秋元長朝のことのようで、秋元氏と平山氏は仲がよかったようで、秀吉や家康に仕
えるようになってからも時折平山家を訪ねていたそうです。秋元氏の子孫は河越城五万石、次いで山形城・館林城六万
石に転じ、老中なども勤めて幕末を迎えています・
また、平山家はいくつもの飛び地を持っていたなど、ネットの情報では知ることのなかった話。更にここには書くこと
のできない住宅管理上の問題なども。




平山家住宅の説明板




家屋を南西から  見学を始めるとご当主は再び干し柿作りに




家屋西側




家屋北側(裏側)




家屋東側




デグチ(出居口)




奥左がザシキ 奥右がナンド




チャノマ




土間とカマド




家屋西側の堀跡




西側竹林外側の堀跡




北西角の堀跡




北側(家屋裏側)の土塁と堀跡




同上




家屋東側の土塁




平山家住宅のパンフレットの中から住宅平面図を

なお、写真はありませんが、平山家の背後を用水が流れていますが往時の用水路だそうです

ご当主にお礼を言い、またお邪魔させていただくかもしれないと伝えて平山家住宅をあとにしました。

訪問日:平成29年(2017)10月30日(月)