四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

鎌倉街道 上道跡 -毛呂山町 1-(埼玉県毛呂山町)

2016年02月06日 | 鎌倉街道
文化庁選定「歴史の道百選」に選定されている「24鎌倉街道上道跡(埼玉県小川町・寄居町・毛呂山町)」。今回は毛呂山町を散策してきました。
鎌倉街道跡(伝承を含め)は各地に遺っています。しかし、そのほとんどは舗装されたり幅が広げられたり、
或いは道筋に変更が加えられたりといった所謂今の鎌倉街道ですが、この歴史の道に選定され鎌倉街道上道跡は古道です。




上道跡の所在地がよくわかりませんでしたので、まずは毛呂山町歴史民俗資料館に行きました。この資料館近辺に上道跡があることは調べてありましたし、
マップも用意されている情報は把握していました。マップを頂いても方向音痴の自身ですからマップを見ただけでは方向が掴めませんので資料館の職員の方にお伺いしたところ
親切丁寧に教えていただき感謝です。自身にとっての高級車は同館駐車場に置かせていただきマップ片手に「いざ鎌倉」ならぬ「いざ鎌倉街道」と。




縮小された画像のマップではどこがどこだかだか分かりづらいので必要部分のみ書き加えてみました(かえって見づらいかな)




まずは資料館の西側にある鎌倉街道上道跡に向かいました ②印のところ




こうした標柱を見るとワクワクしてしまいます




「大類と川角境界の鎌倉街道上道跡」と称される古道の雰囲気が残る生活道路となっていますが、掘割状になっています




上の写真同様北方向に撮っています




振り返り南方向に撮っています




また標柱です 向かって左方向に行くと「崇徳寺跡」 この標柱の右左は「川角古墳群」となっています




標柱の後ろにある古墳の上には庚申塔が




今回の散策の主目的は鎌倉街道上道跡ですので「崇徳寺跡」は「川角古墳群」は後でと言うことでそのまま鎌倉街道跡を進むとまたまた「鎌倉街道遺跡」の標柱があり、
側面に 『ここの前を南北に通るのが鎌倉街道上道の旧道である。うしろの塚は昔大薬寺があった所。この標識に向って左手に進めば、苦林と川角との大字境に沿い、
越辺川を渡り、鳩山町に入り、笛吹峠に出る。この辺の台地を削り込んだ跡が旧道西側に残っているが、東側は崩されてしまって残っていない。この街道が作られた
当時は越辺川の水は、今より北の今宿のすぐ下を流れていたらしく、向こう岸は急な崖になっている。ごみ焼却場は中州』 と記されています




左手は「毛呂山養護学校」 右手が「大類グラウンド」




大類グラウンドは「堂山下遺跡」でグラウンドの下に遺跡がそのまま保存されているとのこと




道路に出る手前のフェンスに「鎌倉街道上道」の看板(案内板)が  しっかりと「歴史の道」の文字も




大類グラウンド内に設置されている「堂山下遺跡野説明板」 内容が読めませんが次の機会に




川角古墳群  近くにはこのほか大類古墳群 塚原古墳群(坂戸市)もあるようです




この川角古墳群には38基の古墳があるようです




「崇徳寺跡」1363(貞治2)年の苦林野合戦で兵火に遭い消失したという記録があるようです
発掘調査中なのでしょうかロープが張り廻らされています




道路を渡り「延慶の板碑」まで   延慶・・・エンキョウ




延慶3年(1310)の銘があり3mを超える大板碑
元々は崇徳寺跡に立ってたが、1960(昭和35)年に板碑のすぐ西側に道路ができて通行者の目につくようになり、板碑に
石を投げて破損する者などが現れたlことから、保護する必要に迫られ、1967(昭和37)年に現在地に移設したたようです。




板碑の文字の下に 延慶3年(1310) と親切な悪戯書き 許される行為か許されざる行為か?




歩いてきた鎌倉街道跡に戻り、(資料館の方には曲がらず)今度は次の目的地に向かうべく直進
古道の雰囲気を残す上道跡も最初に目にした標柱の前あたりから舗装道路に変わっています

この後の散策記は次回に繰り越します

散策日:2016(平成28)年2月5日(金)

諏訪神社奉祀跡(埼玉県小川町)

2016年02月05日 | 史跡・遺跡・文化財
小川町奈良梨地内にある「諏訪神社奉祀跡」を訪ねてみました。鎌倉街道上道跡(大字奈良梨 天王原北}の延長線沿いに位置していました。
これについての説明は写真の中にある説明板に代えさせて頂きます。これ以上の説明は自身にはできませんし。
途中で行き止まりになるのではと心配し、わが高級車は道標近くの路端にとめて徒歩で行きましたが何のことはない車でも行けたようです。
まあ大した距離ではなかったし散歩代わりにもなりましたので。他ではこれ以上歩いていますし・・・

ここも標柱・説明板がなければただの空き地に祠がある程度にしか自身には見えなかったでしょう。県指定旧跡となっていますが、さすがに史跡と言うわけにはいかないでしょう。








散策日:2016(平成28)年2月3日(水)

鎌倉街道 上道跡-小川町・大字奈良梨 天王原北-(埼玉県小川町)

2016年02月04日 | 鎌倉街道
鎌倉街道上道跡の堀割状遺構の3か所目は「鎌倉街道上道跡大字伊勢根 普済寺東」の延長線上にありました。



例の如く案内(説明)板の設置がなければ鎌倉街道上道跡とは気付かないでしょう




ここは「大字奈良梨 天王原北」と場所付けがされているようです。




この場所に遺っている距離は僅かです




鎌倉街道上道跡と言ってもどこにでもある小さな谷津とかわりません 




よく見れば確かに堀割状になっています




木立の間から伊勢根 普済寺東の遺構が見えます ○で囲んだところに案内(説明)板があります




水門の背後が「大字奈良梨 天王原北」の堀割状遺構です




「大字奈良梨 天王原北」の堀割状遺構を背にして 伊勢根普済寺東の堀割状遺構を




案内(説明)板の地図をアップで載せてみました 3か所部分的に遺る鎌倉街道上道跡の位置関係がよくわかります

以上で小川町で確認されている鎌倉街道上道跡・堀割状遺構は取りあえず全部確認しましたので次のテーマを探さねば・・・

散策日:2016(平成28)年2月3日(水)

鎌倉街道 上道跡-小川町・大字能増 門跡裏-(埼玉県小川町)

2016年02月03日 | 鎌倉街道
一昨日(2月1日)に続き本日も鎌倉街道 上道跡の堀割状遺構を探しての散策をしてきました。まずは同じく小川町の能増地内の門跡裏の遺構です。
以前、県道296号線(菅谷・寄居線)沿いに案内(説明)板があったのを記憶しておりましたから取り敢えずその場所に行ってみました。



何と案内(説明)板が支柱から外れて落ちているではありませんか。




悪戯でしょうか? 自然落下でしょうか?




以前(2015年3月)に撮ったものからトリミングしてみました。これなら読めるでしょう。




案内板の背後にある竹藪に道がありましたのでここを歩いてみました。少しして民家の脇に至りましたがどうもこの道ではなさそうです。
深さ2m程の堀割状遺構とははっきり違いがあります。そこで民家の方にお聞きしようと声をかけてみましたがお留守のようでしたので確認ができません。
更に進むと道路に出ましたが、そこは「大字伊勢根 普済寺東」遺構への標柱が立っていた場所の道路でした。
しかしこの場所であることは間違いないようですので民家の方に戻り竹藪の中を覗いて見ましたら・・・




堀割状になっています。正直、荒れ放題の状態ですので深さ等はよくわかりませんが遺構であることは確かなようです。




倒れた竹が堀割を埋めています




堀割の底は歩けません




堀割から上がって堀割の状態を 深さと幅が幾らかでも分れば・・・




再び案内板の背後です  中央の黒く見える部分が遺構の始点にあたりますが水溜りになっていました




「大字伊勢根 普済寺東」堀割状遺構の始点あたりから見た門跡裏の堀割状遺構方向です。
白い蔵の後ろあたりまで門跡裏の堀割状遺構が延びていました。往時は普済寺東」堀割状の上道に繋がっていたことがよくわかります。

このあと部分的にもう一か所残っている天王原の鎌倉街道上道跡を探して散策しましたので後日・・・

散策日:2016(平成28)年2月3日(水)

鎌倉街道 上道跡-小川町・大字伊勢根 普済寺東-(埼玉県小川町)

2016年02月02日 | 鎌倉街道
今から800年以上も前の鎌倉時代、幕府の政庁がある鎌倉と各地を結んだ道がいくつかあったようです。
これらの総称を鎌倉街道(江戸時代につけられた呼び方)と呼んでいますが、
そのうちのひとつ上道(かみつみち)の「堀割状道路」の遺構が小川町にあります。
ここは平成8年文化庁が選定した「歴史の道百選」に「24鎌倉街道ー上道 埼玉県小川町・寄居町・毛呂山」として選定されています。
また、平成14年3月13日、小川町の指定史跡になっています。
なお、吾妻鏡(自身は読んだことはありませんが)には「下道」と言う言葉はあるものの「上道」と言う表現は見当たらず、この「下道」が
現在いうところの「上道」のようです。そんな古道の鎌倉街道の遺構を見に散策してきました。



旧鎌倉街道跡の標柱を頼りに矢印方向へ




丁字路(実際には十字路)にまた標柱があり、旧鎌倉街道跡への矢印は写真正面の藪方向を指していますのでその方向に




道と言えば確かに道ですが・・・




この写真の右端に窪みが見えましたので




降りてみますと確かに堀割状になっています




この辺りはどうにか窪みが分りますが先に進むと笹等が生い茂り堀割りがはっきりしません




掘割の深さが幾分かでも分れば




この堀割状遺構の長さは約140mのようです




説明板をアップにしてみました 多分読めると思いますが




遺構が終わったところから遺構と直線に農道が延びています かつてはここも鎌倉街道上道だったのでしょう

書物やネット等で鎌倉街道跡の所在を知っていたり、こうした道標や説明板があるからこそ鎌倉街道跡との認識を持つことが出来るわけで
何の知識も標柱や説明板もなかったら、ここを見てもただの藪にしか思えなかったでしょう

まだこのすぐそばの大字能増地内にも堀割状遺構があるようですし、他の寄居町・毛呂山町の遺構にも機会を作り行ってみたいと考えています。
もしかしたら畠山重忠もここを通って「いざ鎌倉」と鎌倉に向かったのかと思うと歴史を感じますね。

散策日:2016(平成28)年2月1日(月)

真田氏ゆかりの地を巡る

2016年02月01日 | 城館雑記
NHKの大河ドラマは何十年と観ることがありませんでしたが、一昨年久しぶりに観たのが「黒田官兵衛」でした。しかし、昨年の大河ドラマは1度も観ずに終えました。
今年はまた戦国ものの「真田丸」と言うことで第1回から観ています。真田丸とは真田信繁(幸村)が大坂冬の陣の際に築いた馬出(砦・曲輪)のことですが、大河ドラマに
おいては、この馬出(砦・曲輪)の意味と、真田家の一族が力を合わせて戦国の世を生きていくひとつの船(丸)として捉えての両者からつけられたタイトルのようです。
中には、大ブームとなったラグビーの五郎丸選手に因み真田丸にしたのだろうという方も・・・ブーム以前に真田丸のタイトルは決まっていたような気がしますが。

この大河ドラマに限らず何かブームになると「ゆかりの地を訪ねる」こともブームになるようです。大河ドラマにおいては番組の最後にゆかりの地を紹介しています。
「真田丸」の放映が決まる前に自身も何か所か真田氏ゆかりの地や関連施設にお邪魔していますので載せてみたいと思います。いつもの過去からの引っ張り出しで・・・




真田氏が上田城を築城するまでの居館跡で、地元では「御屋敷」と呼んでいた。現在は「御屋敷公園」となっている

所在地 : 長野県上田市真田町本原   訪問日 : 2010(平成22)年4月29日




上記真田氏館跡のすぐ近くにある「真田氏歴史館」 真田一族ゆかりの資料等が展示されている

所在地 : 長野県上田市真田町本原   訪館日 : 2010(平成22)年4月29日




1583(天正11)年 真田昌幸により築城された 真田氏と言うとすぐにこの上田城が浮かぶが1622(元和8)年に真田氏は松代に転封
になっていることから上田城には約40年しかいなかった。また、現在の上田城公園の元の形は、真田氏転封後に入った仙石氏によるもの

所在地 : 長野県上田市二の丸   攻城日 : 2010(平成22)年4月29日




JR上田駅前に建てられている真田幸村公騎馬像

所在地 : 長野県上田市天神1丁目   訪問日 : 2010(平成22)年5月23日




古くは鎌倉時代に北条義政の居城であったが、その後いろいろな武将の支配下となり、武田氏滅亡後は真田氏の支配下になったが
上田城の完成により廃城となった

所在地 : 長野県上田市前山   攻城日 : 2010(平成22)年5月23日




1622(元和8)年 真田信之が上田から転封されて13万石で入城 当時の城名は松城 1711(正徳元)年に幕令により松代城に改名
明治維新まで真田氏の居城・・・上田城よりこの松代城の方がはるかに長いのにちょっとマイナーかな

所在地 : 長野県長野市松代   攻城日 : 2010(平成22)年5月22日




新御殿跡(真田邸)は、1864(元治元)年に、松代藩9代藩主・真田幸教により、義母・貞松院の住まいとして建てられた松代城の城外御殿。その後は幸教自身の
隠居所、さらに明治以降は真田家の私邸になり1966(昭和41)年に、真田家から当時の松代町へと譲渡された。(訪問時、工事中のため見学はできませんでした)

所在地 : 長野県長野市松代   訪問日 : 2010(平成22)年5月22日




松代藩8代藩主幸貫が水戸の弘道館にならって計画し、9代幸教の時代に完成 1855(安政2)年開校

所在地 : 長野県長野市松代   訪問日 : 2010(平成22)年5月22日




真田家12代当主幸治氏より1966(昭和41)年に譲渡された武具や調度品、書画、文書などの大名道具を収蔵、展示した博物館。

所在地 : 長野県長野市松代   訪館日 : 2010(平成22)年5月22日




この沼田城も真田氏の城であったが経緯を書くと長いので省略します(実は手抜きをしたいがため)

所在地 : 群馬県沼田市西倉内町   攻城日 : 2010(平成22)年7月19日

真田氏ゆかりの地は長野、群馬に限らず大阪、和歌山、宮城等にも及んでおりそれこそ数えきれないようです。
出来うるならばこうして過去に訪れたところのみならず色々な地を訪れてブログにできればよいのでしょうが、
それはできそうにありませんので過去に訪れた僅かな場所で記事にしてみました。