文化庁選定「歴史の道百選」に選定されている「24鎌倉街道上道跡(埼玉県小川町・寄居町・毛呂山町)」。今回は毛呂山町を散策してきました。
鎌倉街道跡(伝承を含め)は各地に遺っています。しかし、そのほとんどは舗装されたり幅が広げられたり、
或いは道筋に変更が加えられたりといった所謂今の鎌倉街道ですが、この歴史の道に選定され鎌倉街道上道跡は古道です。

上道跡の所在地がよくわかりませんでしたので、まずは毛呂山町歴史民俗資料館に行きました。この資料館近辺に上道跡があることは調べてありましたし、
マップも用意されている情報は把握していました。マップを頂いても方向音痴の自身ですからマップを見ただけでは方向が掴めませんので資料館の職員の方にお伺いしたところ
親切丁寧に教えていただき感謝です。自身にとっての高級車は同館駐車場に置かせていただきマップ片手に「いざ鎌倉」ならぬ「いざ鎌倉街道」と。

縮小された画像のマップではどこがどこだかだか分かりづらいので必要部分のみ書き加えてみました(かえって見づらいかな)

まずは資料館の西側にある鎌倉街道上道跡に向かいました ②印のところ

こうした標柱を見るとワクワクしてしまいます

「大類と川角境界の鎌倉街道上道跡」と称される古道の雰囲気が残る生活道路となっていますが、掘割状になっています

上の写真同様北方向に撮っています

振り返り南方向に撮っています

また標柱です 向かって左方向に行くと「崇徳寺跡」 この標柱の右左は「川角古墳群」となっています

標柱の後ろにある古墳の上には庚申塔が

今回の散策の主目的は鎌倉街道上道跡ですので「崇徳寺跡」は「川角古墳群」は後でと言うことでそのまま鎌倉街道跡を進むとまたまた「鎌倉街道遺跡」の標柱があり、
側面に 『ここの前を南北に通るのが鎌倉街道上道の旧道である。うしろの塚は昔大薬寺があった所。この標識に向って左手に進めば、苦林と川角との大字境に沿い、
越辺川を渡り、鳩山町に入り、笛吹峠に出る。この辺の台地を削り込んだ跡が旧道西側に残っているが、東側は崩されてしまって残っていない。この街道が作られた
当時は越辺川の水は、今より北の今宿のすぐ下を流れていたらしく、向こう岸は急な崖になっている。ごみ焼却場は中州』 と記されています

左手は「毛呂山養護学校」 右手が「大類グラウンド」

大類グラウンドは「堂山下遺跡」でグラウンドの下に遺跡がそのまま保存されているとのこと

道路に出る手前のフェンスに「鎌倉街道上道」の看板(案内板)が しっかりと「歴史の道」の文字も

大類グラウンド内に設置されている「堂山下遺跡野説明板」 内容が読めませんが次の機会に

川角古墳群 近くにはこのほか大類古墳群 塚原古墳群(坂戸市)もあるようです

この川角古墳群には38基の古墳があるようです

「崇徳寺跡」1363(貞治2)年の苦林野合戦で兵火に遭い消失したという記録があるようです
発掘調査中なのでしょうかロープが張り廻らされています

道路を渡り「延慶の板碑」まで 延慶・・・エンキョウ

延慶3年(1310)の銘があり3mを超える大板碑
元々は崇徳寺跡に立ってたが、1960(昭和35)年に板碑のすぐ西側に道路ができて通行者の目につくようになり、板碑に
石を投げて破損する者などが現れたlことから、保護する必要に迫られ、1967(昭和37)年に現在地に移設したたようです。

板碑の文字の下に 延慶3年(1310) と親切な悪戯書き 許される行為か許されざる行為か?

歩いてきた鎌倉街道跡に戻り、(資料館の方には曲がらず)今度は次の目的地に向かうべく直進
古道の雰囲気を残す上道跡も最初に目にした標柱の前あたりから舗装道路に変わっています
この後の散策記は次回に繰り越します
散策日:2016(平成28)年2月5日(金)
鎌倉街道跡(伝承を含め)は各地に遺っています。しかし、そのほとんどは舗装されたり幅が広げられたり、
或いは道筋に変更が加えられたりといった所謂今の鎌倉街道ですが、この歴史の道に選定され鎌倉街道上道跡は古道です。

上道跡の所在地がよくわかりませんでしたので、まずは毛呂山町歴史民俗資料館に行きました。この資料館近辺に上道跡があることは調べてありましたし、
マップも用意されている情報は把握していました。マップを頂いても方向音痴の自身ですからマップを見ただけでは方向が掴めませんので資料館の職員の方にお伺いしたところ
親切丁寧に教えていただき感謝です。自身にとっての高級車は同館駐車場に置かせていただきマップ片手に「いざ鎌倉」ならぬ「いざ鎌倉街道」と。

縮小された画像のマップではどこがどこだかだか分かりづらいので必要部分のみ書き加えてみました(かえって見づらいかな)

まずは資料館の西側にある鎌倉街道上道跡に向かいました ②印のところ

こうした標柱を見るとワクワクしてしまいます

「大類と川角境界の鎌倉街道上道跡」と称される古道の雰囲気が残る生活道路となっていますが、掘割状になっています

上の写真同様北方向に撮っています

振り返り南方向に撮っています

また標柱です 向かって左方向に行くと「崇徳寺跡」 この標柱の右左は「川角古墳群」となっています

標柱の後ろにある古墳の上には庚申塔が

今回の散策の主目的は鎌倉街道上道跡ですので「崇徳寺跡」は「川角古墳群」は後でと言うことでそのまま鎌倉街道跡を進むとまたまた「鎌倉街道遺跡」の標柱があり、
側面に 『ここの前を南北に通るのが鎌倉街道上道の旧道である。うしろの塚は昔大薬寺があった所。この標識に向って左手に進めば、苦林と川角との大字境に沿い、
越辺川を渡り、鳩山町に入り、笛吹峠に出る。この辺の台地を削り込んだ跡が旧道西側に残っているが、東側は崩されてしまって残っていない。この街道が作られた
当時は越辺川の水は、今より北の今宿のすぐ下を流れていたらしく、向こう岸は急な崖になっている。ごみ焼却場は中州』 と記されています

左手は「毛呂山養護学校」 右手が「大類グラウンド」

大類グラウンドは「堂山下遺跡」でグラウンドの下に遺跡がそのまま保存されているとのこと

道路に出る手前のフェンスに「鎌倉街道上道」の看板(案内板)が しっかりと「歴史の道」の文字も

大類グラウンド内に設置されている「堂山下遺跡野説明板」 内容が読めませんが次の機会に

川角古墳群 近くにはこのほか大類古墳群 塚原古墳群(坂戸市)もあるようです

この川角古墳群には38基の古墳があるようです

「崇徳寺跡」1363(貞治2)年の苦林野合戦で兵火に遭い消失したという記録があるようです
発掘調査中なのでしょうかロープが張り廻らされています

道路を渡り「延慶の板碑」まで 延慶・・・エンキョウ

延慶3年(1310)の銘があり3mを超える大板碑
元々は崇徳寺跡に立ってたが、1960(昭和35)年に板碑のすぐ西側に道路ができて通行者の目につくようになり、板碑に
石を投げて破損する者などが現れたlことから、保護する必要に迫られ、1967(昭和37)年に現在地に移設したたようです。

板碑の文字の下に 延慶3年(1310) と親切な悪戯書き 許される行為か許されざる行為か?

歩いてきた鎌倉街道跡に戻り、(資料館の方には曲がらず)今度は次の目的地に向かうべく直進
古道の雰囲気を残す上道跡も最初に目にした標柱の前あたりから舗装道路に変わっています
この後の散策記は次回に繰り越します
散策日:2016(平成28)年2月5日(金)