四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

メジロ

2016年02月17日 | 花・鳥・風景




あるお宅の庭に木によくメジロがと止まっています。しかし、他の小鳥同様にちょっとでも近づくとサッと逃げてしまいます。
そうしたことの繰り返しでしたがやっと撮ることが出来ました。でも大砲ではなく拳銃程度の小さな口径のレンズですから
思いっきりトリミングしてもこのこれが精一杯です。まあ、メジロだと分るから良しとしましょう。

撮影日:2016年(平成28年)2月12日(金)

鹿島古墳群(埼玉県深谷市)

2016年02月16日 | 古墳






















深谷市鹿島にある「埼玉県指定史跡鹿島古墳群」を少しだけ歩いてきました。

川本の白鳥飛来地まで白鳥を見に行ったものの行った時間帯が悪かったのか肝心の白鳥には会えませんでした。
飛来地のそばにこの古墳群があり公園化されており、特段古墳に興味を持っているわけではありませんが端から端まで歩いたみたこともあります。
今回はちょっと寄ってみただけでした。鹿島古墳群の石柱を初めとして、幾つかの案内板・説明板も設置されており、古墳とは、鹿島古墳とはの勉強にはなるようです。
中には何十年も前に設置されたであろう説明板が赤茶けた姿で残されていましたが、古墳だけにこのまま後世まで遺すのでしょうか(冗談)
現在の案内板も読むことに支障はないものの表面にひびが入っていたり、合併で深谷市になってから10年以上も経過しているにもかかわらず、
旧の地名である「川本町」の標記のままです。新しいものにとは言いませんが、せめて地名の上に新しい地名「深谷市」のシールでも貼ったらと思いますが。

古墳群を歩いて古墳のことには触れず説明板の粗探しになってしまったようで・・・

散策日:2016年(平成28年)2月8日(月)

鎌倉街道 上道跡-寄居町・普光寺周囲-(埼玉県寄居町)

2016年02月15日 | 鎌倉街道
寄居町赤浜に鎌倉街道上道跡の堀割状遺構があるということで最初に訪ねたのがここ普光寺でした。
実は目的の場所はここにはなく違う場所にありました。違う場所と言ってもすぐそばだったのですがその失敗談です。



ネットで寄居町赤浜の鎌倉街道上道跡について検索したところ、この写真と同じ 史跡「鎌倉街道」上道 の標柱の写真が載った記事がありました。
この標柱の東側の道路が鎌倉街道上道跡であることには違いはないようですし、堀割状遺構もこのすぐ近くにあるとの記事もありました。




普光寺 山門・本堂  寄居町赤浜620に所在




山門前に立てられている 普光寺と鎌倉街道の説明板




地図の部分をアップにして印を入れてみました
A印の所に1枚目の写真にある 史跡「鎌倉街道」上道の標柱  住職さん手作りのものだそうです
B印とC印の場所を中心に堀割状遺構を探してみました  この日D印の場所は全く眼中にありませんでした




地図にB印をした普光寺本堂北側(裏)の堀割  でもここではない




地図にC印をした場所  ここも目的の堀割状遺構ではないようです

この後も普光寺を中心にして県道以南を2、3回徒歩ないしは車で回ってみたものの目当ての場所が分らず調べ直して再度訪ねようとした次第でした。
そうしてこの5日後である2月8日に地図のD印の場所にある堀割状遺構を訪ねるに至りました。
この時の散策記は翌日の9日「鎌倉街道 上道跡(寄居町・赤浜 天神沢)」のタイトルでブログアップして
いますが、実はこの時点でもD印の場所と理解しておらず後日改めて地図を見比べてみたところ初めて気付いたというお粗末さです。
これも今回に限ったことではなく毎度のことでいかに学習していないか!!

散策日:2016年2月3日(水)           

幻の鎌倉街道 上道跡- 嵐山町・千手堂-(埼玉県嵐山町)

2016年02月14日 | 鎌倉街道
嵐山町にある「菅谷館跡」(国指定史跡)の西側に鎌倉街道の石碑、説明板が立っています。これを目にしたとき、鎌倉街道ってここを通っていたのかと興味を持ち
いつかゆっくりと思っていたにも関わらず、どうも幻の鎌倉街道跡であったようです。



これがその石碑で昭和33年4月に建立されたことが裏面に刻まれています




いつの設置かはわかりませんが手書き文字の説明板であることからかなりの年数が経っていることは確かです




延長約200mのくぼ地で鎌倉街道上道跡の掘割状遺構と言われてきた所




鎌倉街道説明板と並んで立てられている山王古墳群説明板




山王古墳群の一部

この場所は、嵐山町大字千手堂地内に位置し、オオムラサキの森活動センターの道向いにあたり、山王古墳群の前です。
鎌倉街道跡でなく実は城域の堀であったのではないかと分ったのは昨日今日の話しではなく、30年以上も前の1983(昭和58)年のことで、
歴史の道にともなうトレンチ調査を1982(昭和57)年から2年間にわたって小川町・寄居町・毛呂山町、そしてこの嵐山町の4か所の鎌倉街道上道跡で
行ったところ、ここ嵐山町千手堂については、その構造が鎌倉街道上道跡の掘割状遺構ではなく城(菅谷館)の堀跡ではないかとの結果に至ったようです。
詳しいことは〔鎌倉街道上道跡菅谷〕等のキーワードで検索していただければいろいろ出てきますので興味ある方は・・・

撮影日:2016(平成28)年2月11日(木・祝)          〔2017.5.6再編集〕

源義賢墓・鎌形八幡神社(埼玉県嵐山町)

2016年02月13日 | 史跡・遺跡・文化財
嵐山町を流れる槻川・都幾川の付近には鎌倉時代にゆかりの史跡や社寺が多くあります。そんな中から「源義賢墓」、「鎌形八幡神社」を訪ねてみました。



源義賢墓   所在地:比企郡嵐山町大蔵66番地

木曽義仲(源義仲・朝日将軍)の父であり、源頼朝・義経の叔父でもある源義賢(みなもとのよしかた)は嵐山町大蔵地内に大蔵館を構えていましたが、甥である源義平
(頼朝・義経の兄弟)に討たれました。その墓と伝えられるのがここ大蔵にあります。その墓所はこのように民家の庭先にありますが公道から直接参拝できるようになっています。
義賢が討たれたとき駒王丸(義仲の幼名)は2歳でした。後に朝日将軍と称された木曽義仲も従兄弟である頼朝・義経に討たれてしまいましたが権力争いには一族も他人もない時代でした。




墓である五輪塔は覆屋の中に保存されています。この写真では隠れてしまっていますが、覆屋の右手にある梅の木の前に説明板が設置されています。




「源義賢の墓」の説明板です。最後の所に県指定の史跡であることが記されています。これでは読み難いので説明文を転記しておきます。

源義賢の墓
義賢は源為義の次子(長子は義朝)で、近衛天皇が東宮の時に仕え、帯刀の長となったので、帯刀先生と称され、
その後東国に下り、上野国多胡館(群馬県多野郡吉井町)を本拠地としてので、多胡先生とも称された。
更にその後、この地(大蔵館)に移住し、武蔵国や上野国に勢力を振るったが、久寿2年(1155年)8月16日、
大蔵館で義朝の長子である甥の悪源太(源)義平と合戦して討たれた。なお、木曽義仲は、義賢の次子である。源義賢の墓と
つたえられるこの五輪塔は、数度の火災にあったためか、やや赤く変色しているが、県内では、最古の部類に属するものである。
大正13年3月31日に県指定史跡に指定されている。
埼玉県
昭和55年3月




五輪塔を保存する覆屋ともうひとつの説明板(嵐山町教育委員会によるもの)




源義賢の墓と伝えられる五輪塔です。源義賢の墓ではなく妻の墓ではと言う説もあるようですが。




鉄扉の格子の間から全体を撮ってみました。




この説明板も写真では読みずらいので内容を転記しておきます。

埼玉県指定史跡 源義賢墓
指定 大正13年3月31日
所在地 嵐山町大字大蔵字大東66
時代 平安末期
この五輪塔は、火輪部と水輪部のみ残存しており、空輪部と地輪部は後から補われたもので、風輪部は欠損しています。材質は、凝灰岩
製で、火災にあったためか変色のあとがみられ、損傷も激しかったため、昭和52年に東京国立文化財研究所により修理処理されました。
このかたちは、いわゆる古式五輪塔と呼ばれ、県内に所在する五輪塔の中では最古の例です。
なお、この墓は、義賢ゆかりの人々が供養のために建立したものと考えられます。
(源氏系図)略
(五輪塔図)略
この五輪塔は本来供養のために建てられましたが、後には墓石として建てられるようになりました。
密教の宇宙観より、上から空・風・火・水・地として、五大の考え方をあらわしています。
平成4年9月
嵐山町教育委員会

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鎌形八幡神社   所在地:比企郡嵐山町鎌形1993番地
旧「郷社」であったようです




この神社も坂上田村麻呂と関係あるようですし、源氏とも縁があるようです。




木曽義仲(源義仲)に縁ある地・神社だけに木曽義仲の幟が沢山。
また、義仲ゆかりの会(正確な名称は失念)による植樹もありました。




本殿




本殿は嵐山町指定建造物と言うことです。




木曽義仲産湯清水の碑




(伝)木曽義仲の産湯に使った清水  今も枯れずに湧き出しています。

この木曽義仲産湯の清水の件は知っておりましたが初めて訪ねてみた次第です。
木曽義仲は大蔵館で誕生したとされていますが、ここ鎌形八幡神社を生誕地とする説もあるようです。

源義賢の墓や木曽義仲産湯清水の鎌形八幡神社を訪ねながらなぜ肝心の大蔵館跡(大蔵神社)を訪ねないのかと指摘を受けそうですが、大蔵館跡は
以前訪れていましたし時間の関係もあり再訪できませんでした。他にも源義賢・木曽義仲ゆかりの場所がありますので機会を見て訪問をと考えています。

散策日:2016(平成28)年2月11日(木・祝)          

鎌倉街道 上道跡 -嵐山町・将軍沢-(埼玉県嵐山町)

2016年02月12日 | 鎌倉街道
嵐山町を通る旧鎌倉街道の将軍沢に上道跡の堀割状遺構があるとのことからまたスポット散策してきました。
本来なら~寄居町~小川町~嵐山町~鳩山町~毛呂山町~と言った具合に街道の流れに沿って堀割状遺構のみにこだわらず
寺社や遺跡等を見ながら散策すればよいのでしょうが、今回も堀割状遺構目的になってしまいました。



嵐山町大蔵から旧鎌倉街道を笛吹峠まで我が高級車で向かいます。堀割状遺構はその途中の将軍沢にあるのですが、
路駐は危険ですので駐車場が有る笛吹峠まで一旦行き、駐車して徒歩で将軍沢方向に戻ってくる方法を採りました。




縁切橋  この辺りはまだ駐車可能でしたので




将軍沢の地名はこの征夷大将軍坂上田村麻呂から来ているのでしょう




笛吹峠に着きました。林道将軍沢線はここで終点 ここから先は鳩山町となります
三角屋根の建物はトイレで後方に休憩所 道路の反対側に駐車場があります ここに我が高級車をとめて




「史蹟 笛吹峠」石碑




笛吹峠の説明板 大分年季が入っていますね 手書き文字ですし「鳩山村」のままですから

昔「笛吹童子」と言うのがありましたがここをヒントになんてことは・・・




笛吹峠から徒歩にて将軍沢方向に戻ります 無理すれば車1台くらいなら止められるようなところもあり
若干後悔もありましたが既にかなりの距離を歩いて来ましたから戻るのもまた大変とそのまま進行




進行方向左側(歩いている街道の西側)の藪の中に窪みが見えます ここが旧鎌倉街道上道堀割状遺構かと思います
この地点の道路はカーブしていますが遺構と思われる所は道路に直進しています




写真の向きが逆になりましたが窪みがよくわかります 多分 堀割状遺構(はっきりとは言い切れませんが)










上4枚は堀割に降りて撮ったものですが笹が生い茂る等で遺構の形状がはっきりしませんが堀割状になっていることは分ります
なお写真は位置順ではありませんし向きも南北まちまちですが撮った本人も順番向きが分らなくなっています




堀割から道路に戻り再び徒歩で高級車が待っている笛吹峠の駐車場まで戻ります
たった今歩いてきたところが旧鎌倉街道上道堀割状遺構なんだと自身に言い聞かせながら・・・

散策日:2016(平成28)年2月11日(木・祝)           

天守 ・ 御三階櫓は歴史資料館 (3)

2016年02月11日 | 城館雑記
今更こんな古いものを出してきたところで何の役にも立たない情報かも知れませんが 昔の入場券(入館券)はこんなものだったのかと思っていただければそれだけでよいと・・・




高島城  (長野県諏訪市高島)  日本三大湖城  天守 ・・・ 復興天守     攻城日:詳細記録なしなるも1970年代

高島城の歴史等についての記述は省かせていただきますが、鉄筋コンクリートによる復興天守が完成したのは1970(昭和45)年で、自身が
攻城したのは完成から間もない時であったかも知れません。この復興天守も例にもれず歴史資料館です。この時の記憶は定かではありませんが、
他の復元・復興建築物はほとんどなかったように思います。ただ、池が「心」の文字を形どったものであるというについては今なお忘れていませんが。

若し可能であるならば当時からは大分整備されているようですので訪ねてみたい城のひとつです。


富山城 (富山県富山市丸の内)   天守 ・・・ 模擬天守      攻城日:1972(昭和47)年8月15日

富山城の歴史等についてはやはり省かせていただきますが、この模擬天守は、1954(昭和29)年、富山城跡の敷地一帯で富山産業博覧会が
開催された折りに、元々富山城には天守は存在しなかったのですが犬山城や彦根城を参考に鉄筋コンクリートで建てられ、通称「富山城」と呼ばれるようになり、
同年11月より富山市立郷土博物館として運営が始まった。自身が訪館したのは能登半島一周の旅の途中に寄ってみただけであり、攻城という意識は全くなかったと
記憶しています。この能登半島一周の旅では金沢城跡にも訪れたが、この時は金沢大学のキャンパスとなっていたころで、今の金沢城跡ではありませんでした。





上の写真の入場券は本記事のタイトルにそぐわないかも知れませんが、新旧の入場券の比較も面白いかと載せてみました。
このうち名古屋城と彦根城の古い方のものについては自身が行ったものでなく、多分家族の誰かが行った時のものと思いますがいつのものかは特定できません。
彦根城については2007(平成19)年に築城400年を迎えており、チケットには約360年前という記述があり、築城400年の約40年前のチケットで
あることから逆算して45~6年前後前のものと推定しました。二条城については新旧とも自身が行った時のものですから記録が残っておりますので・・・

* 齢をとりますと古い話しかありませんので・・・自身では若いつもりなのですが

天守 ・ 御三階櫓は歴史資料館 (2)

2016年02月10日 | 城館雑記
この(2)では、復興天守1基、模擬御三階櫓2基を載せてみたいと思います。

日本100名城を含め未攻城の城郭・城跡が数え切れないほどあります。できれば新たに訪ねた城郭・城跡の攻城記を書きたいところなのですが
最近はそうした城攻めが諸々の事情から一向にできません。そんなことから過去に攻城した中からテーマを探してこうしたものを書いています。





小田原城 (神奈川県小田原市城内) 国指定史跡  日本100名城 23  天守 ・・・ 復興天守 攻城日:2010(平成22)年5月3日 他

1495(明応4)年に北条早雲が入城し後北条氏の拠点となる。城下町を含む全周9kmの総構は難攻不落の城であった。
後北条氏が開城後、徳川の譜代大名大久保氏により近世城郭として整備されたが、明治に入り建物はほとんどが解体された。
1960(昭和35)年に鉄筋コンクリートで天守が復興再建された

* 天守は現在改修中のため来年4月まで休館になっています





忍城  (埼玉県行田市本丸) 埼玉県指定旧跡  関東七名城  御三階櫓 ・・・ 模擬櫓(復興)  攻城日:2009(平成21)年11月8日 他

小田原合戦の際、豊臣秀吉の命により水攻めを行うも失敗(総大将 石田三成)した城で知られる。
明治時代に廃城になる。後に城跡は公園(成田公園のちに忍公園)として整備され、1988(昭和63)年2月に行田市立郷土博物館の
一部として鉄筋コンクリートの御三階櫓 が再建された。鳥瞰図や文献をもとに再建されたが、位置や規模が史実と異なっている。

* 9日(火)夜、テレビでこの忍城をテーマにした映画「のぼうの城」が放送されていました





関宿城  (千葉県野田市関宿)   御三階櫓 ・・・ 模擬櫓     攻城日:2010(平成22)年1月30日 

1995(平成7)年に千葉県立関宿城博物館として、江戸城の富士見櫓を模して鉄筋コンクリートで建てられたもの。
元々の関宿城があった場所は利根川の改修工事で大半が残っておらず、近所ではあるが全く違う場所に建てられている。

鎌倉街道 上道跡-寄居町・赤浜 天神沢-(埼玉県寄居町)

2016年02月09日 | 鎌倉街道
2月に入ってから文化庁選定「歴史の道」に選定されている「24鎌倉街道上道跡(埼玉県小川町・寄居町・毛呂山)」を
散策していますが、最後に残っていた寄居町の赤浜天神沢の堀割状遺構を探して歩いてきました。



県道296号線(菅谷・寄居線)の花園橋を途中で降り荒川沿いにアイリスオオヤマ埼玉工場(旧大里郡川本町・現深谷市)の建物を目指します。
四角の大きな建物がアイリスオオヤマ埼玉工場 手前の建物が寄居町の清掃センター




清掃センターの前を通過し緩い坂道を登ったところの左側の道端にコンクリート製の標柱が立っており「鎌倉古街道 川本町教育・・・」と書かれていました。
この標柱の後方が街道跡のように見えないでもないですがただ農道あとのようでもありますし。しかし目的の街道上道跡でないことは確かなようです。
ピンクの不法投棄絶対禁止の看板が目立ちます。ここは旧大里郡川本町・現深谷市です。




道標の道を挟んで反対側に坂道がありますがここを進んで行けばアイリスオオヤマ埼玉工場近くに行けそうです。
我が高級車でも行けそうでしたが例の如く空地に止めて徒歩で散策です。




緩い坂であるにもかかわらずゼーゼーしながら登って行くと左側の土塁に標柱らしきものが見えました。




「鎌倉街道上道 平成十五年四月」とあります。合併して深谷市になる前の大里郡川本町が建てたもののようです。
平成15年は西暦2003年で川本町が合併したのは平成18年西暦2006年1月のことですから。
後ろの白い壁面はアイリスオオヤマ埼玉工場の壁面です。




赤浜天神沢の堀割状遺構と称されるこの鎌倉街道上道の遺構は大里郡寄居町赤浜と旧川本町畠山の境界上にり、標柱が建てられているのは旧川本町内ということになります。
しかし、寄居町の地名が付いた遺構であるにもかかわらず寄居町(教育委員会)が設置したと思われるような標柱の類は見当たりません(見つけられなかっただけかも知れませんが)

まあ標柱を見に来たわけではなく遺構の散策に来たわけだからと堀割状遺構の堀底部分を歩いてみることに・・・




ここの遺構は 長さ約200m 幅約6m 深さ0.5~2m ということですが現状は変わってしまっているようです。




いきなりこんな状態です。




倒れて枯れた竹が堀割を埋めてしまっています これでは前に進めません。
土塁に上がって進みながら堀割にも降りてみましたが土塁の上もまともには歩けません。




竹の枝で完全に塞がれている箇所も・・・




土塁の上にはこれも旧川本町が設置した案内板が木々の間に隠れて無残な姿になっていました。 
これが設置されたときは手入れがされていたようですが、工場が建てられたことにより・・・とは思いたくはありませんが。




何が書かれてあったかその影はありませんが
どうにか鎌倉の文字だけがうっすらとのこっていました。




この辺りで遺構は終わっていますが、こちらを散策の出発点にするにはちょっと無理なようです。
今は住宅その他の建造物等でここまでの道がないようですので。




出発点の方を振り返ってもこんな状態ですから何も見えません。




土塁上ですがここも旧川本町分でしょう。右の建物がアイリスオオヤマ。




遺構(散策の出発点とした位置)から荒川の河川敷(耕地)を。前方の橋が「花園橋」、手前に見える屋根は衛生センターの屋根。
荒川はこの写真の右側を流れています。




赤浜の渡しのあった場所




獅子の形に似ていることから獅子岩ともいわれる川越(かわこし)岩 川を渡すかどうかをこの岩で水量を測って判断したとのこと。


以上 寄居町赤浜の鎌倉街道上道堀割状遺構を散策してきましたが全く手入れされていない現状を見ればただの竹藪です。遺構だという意識を
もって見るからどうにか遺構として見るうことが出来るだけです。公道ならともかく私有地であれば仕方ないことかもしれません。


これで取り敢えず歴史の道「24鎌倉街道上道跡(埼玉県小川町・寄居町・毛呂山)」の選定対象地を終えましたので、
今後は「歴史の道」に囚われることなく鎌倉街道跡でも散策してみましょうか。

散策日:2016(平成28)年2月8日(月)

鎌倉街道 上道跡 -毛呂山町 2-(埼玉県毛呂山町)

2016年02月08日 | 鎌倉街道
県道39号線(川越・坂戸・毛呂山線)北側にある川越街道上道跡や古墳群散策の後は県道南側に位置する川越街道上道跡を目指します。



県道を渡るとここにも看板(案内板)が




鎌倉街道遺跡まで600m 往復で1200m 帰りは資料館までプラス200m 
もう大分歩いているから一旦資料館に戻り高級車に乗ってとの悪魔のささやきに打ち勝って徒歩で散策を続けることに



 
⑦と⑧の上道跡が目的です




この辺りが⑦で印した「大類と市場境界の鎌倉街道上道跡」と称される所でしょう




堀割状の遺構は認められませんが雰囲気は抜群です 生活道路として使われています




鎌倉街道遺跡の標柱の先に遺構が見えます  ここが「市場・西大久保境界の鎌倉街道上道跡」と称される遺構でしょう
歩いてきた道路の直線上に遺構があり現在の道路は一旦右にカーブしてから延びています




標柱の側面には 『ここの前を南北に鎌倉街道上道が通っていた。この標識に向って、右手の林中の道を南に行けば、葛川・高麗川を越えて、日高町の女影ヶ原古戦場へ行く。
左は北方の越辺川に出る。すぐ右手の林中の凹道は、県下でも珍しく良く旧態を残して、昭和五十七年県立歴史資料館によって、試掘調査が行われた。
堆積土の下に幅約五メートルの旧道面があり両側には排水溝もあった。低湿のため、長い間使用されず、今は旧道に大木が生えている。』と記してあります。




調べたところによればここの堀割状遺構は 長さ約200m 幅6~7m 深さ0.5~2m とありますが見た目では土塁上までは7mどころか10m以上ありそうです。
本来の古道は土塁の下あたりまでではなかったかと素人が勝手に推理します。

上記標柱側面の説明文の中に「・・・長い間使用されず、今は旧道に大木が生えている。」との記述があるように元は雑木林状態であったようですが、
ここの町道を通る車が、木があって通りずらいので地権者の判断により数年前に木を伐採したようです、それで切り株だけが残っているようです。
伐採されたのは西側(写真では右側・市場側)だけで、東側(写真では左側・西大久保側)は伐採されておりませんが、
それは地権者が異なるからであるというようなことがどこかに書かれていました。




伐採により雰囲気は半減してしまった感がしますが堀割状遺跡は確認しやすくなったかも知れません




長さ200mの突き当り近くですが、ここには木が伐採されずに残っております。
元の姿をとどめておくために敢えてここだけは伐採しなかったのでしょうか。
こうした状態で約200mも遺っていたわけですから素晴らしい遺構と言えます。




突き当りから北方向に振り返って撮ってみました。 旧道の雰囲気を偲ばせてくれるようです。




上の写真同様に北方向に振り返って




鎌倉街道上道が真っ直ぐに延びていたことがはっきりわかります


以上 鎌倉街道 上道跡(毛呂山町 1)に載せた「大類と川角境界の鎌倉街道上道跡」とあわせ「歴史の道」の対象となっている毛呂山地内3か所の
遺構を全部見て歩くことが出来ました。古墳群やその他については手を抜きすぎてしまいましたが、これはこれで機会あれば改めて・・・

散策日:2016(平成28)年2月5日(金)