四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

忍城時代まつり(埼玉県行田市)

2017年11月12日 | まつり・イベント


行田市まで忍城時代まつりを見学に行ってきました。正しくは、「第38回行田市商工祭・忍城時代まつり」のようです。
数年前までは、よく戦国まつり・武者行列等の見学に出かけたものです。1か月の間に、山梨・群馬、そしてまた、山梨
・群馬と交互に出かけていたこともありましたが、最近はとんとご無沙汰です。
忍城時代まつりの見学に出かけたのは今回が初めてです。何年か前に、よそに行った帰り道、忍城時代まつりをやってい
たので少しだけ見学してきたということはありましたが。




まずは御三階櫓の姿を何枚か










会場である行田市役所周辺には忍城時代まつりと染め抜かれた幟があちらこちらに




歴代城主武者行列前のセレモニーです。これが「第38回行田市商工祭・忍城時代まつり」のオープニングセレモニー。
1823年、桑名藩主松平忠堯を忍へ、忍藩主阿部正権を白河へ、白河藩主松平定永を桑名へ転封とする幕命による三方
領知替えがあり、3人の藩主がぐるっと回るという珍しい転封があったことから、桑名市と白河市からも来賓の方がみ
えていました。




左から松平氏、阿部氏、徳川家康公に扮したお偉方




歴代城主武者行列はセレモニーから少し間をおいてからでしたが、風が強くて藩主名の幟が煽られて幟を持つ方は大変。
出立した城主一行の写真は撮れませんでしたし、追いかけもしませんでした(その体力はないし、追いかけをすると火
縄銃演武の見学場所を確保できなくなってしまいますので)




歴代城主隊の後を自前甲冑隊(写真なし)。しんがりを忍城おもてなし甲冑隊のみなさんが。
歴代城主武者行列を見送ってから忍城の堀の端に移動し鉄砲隊の演武を待ちました。




鉄砲隊の演武の前に忍城おもてなし甲冑隊のみなさんの演武








甲斐姫さん バレーの経験ありでしょうか?








開門になり川越藩火縄銃鉄砲隊の皆さんが登場  久しぶりに川越藩火縄銃鉄砲隊の演武を観ます













最期に遠くから見た御三階櫓を・・・

他にもいろいろなイベントもありましたし、商工祭ですからいろいろなお店等も出ていたのは言うまでもありません。

見学日:平成29年(2017)11月12日(日)

平山館(埼玉・熊谷市)

2017年11月11日 | 100名城以外の城館跡


名 称:平山館(ひらやまやかた)・平山家住宅
形 態:民家(農家住宅)
建 築:17世紀末から18世紀初頭(江戸中期)
指 定:国指定重要文化財(昭和46年(1971)6月22日指定)
所有者:個人
所在地:埼玉県熊谷市樋春1067(旧大里郡江南町)

熊谷市の樋春地内の荒川右岸に位置している平山家住宅を訪ねてきました。
当主の平山氏は、源平合戦に登場する武蔵武士の一人、平山武者所季重の子孫と伝えられます。戦国時代、平山豊
後守は、現在の深谷市に居を構え、深谷上杉氏に仕えていましたが、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻
めで深谷上杉氏の衰亡に伴い、江南の地に土着、帰農しましたと言います。以後、旧樋口村の世襲名主を勤めるな
どの村内屈指の旧家となりました。樋口村とはその名のとおり樋の口(松材等で作った管を土手に通し用水の取水
口とした)のあった場所で、名主平山氏は樋管と用水路の管理をを行っていました。それだけに絶大な権力も持っ
ていたようす。
国指定重要文化財となっている今の平山家住宅は、樋口村名主となった平山家七代目勘右衛門(1670~1708)の頃
創建されたと考えられるそうです。

本件建物は平山氏が武士であったころの館ではなく、名主をしていたころの農家の住宅ですので、本稿の標題には、
国指定重要文化財指定の名称でもある平山家住宅とすべきなのかもしれませんが、敢えて「平山館」としたのは、戦
国時代への思いからです。




このあたりまできたところ、「目的地付近です」とナビが教えてくれましたが、かやぶきの屋根が目に入りませんで
したし、「平山家住宅 ふるさと歩道」の標柱にも気づきませんでした。
いずれにしろこの近くであることは間違いないので、ぐるっと回ってもう一度このあたりに戻ってこようと、荒川の
土手下の道路を走ったのはよいのですが、Uターンする適当な場所がなく、荒川大橋の手前まで行ってしまい時間とガ
ソリンの無駄使い(いつものことです。当然のことながらこの写真も帰り際に撮ったものです) 




付近まで戻り住宅街の中に入り、キョロキョロして発見したのがこの看板。




干し柿造りをしていたご当主に挨拶をして住宅見学・撮影の許可をいただきましたが、見学の前にいろいろと話をお伺
いすることができました。
小田原攻めのあと、秋元氏がここ(無論今の住宅ではないが)に住んでいたことがあるという話があるとのこと。その
秋元氏とは深谷上杉の重臣であった秋元長朝のことのようで、秋元氏と平山氏は仲がよかったようで、秀吉や家康に仕
えるようになってからも時折平山家を訪ねていたそうです。秋元氏の子孫は河越城五万石、次いで山形城・館林城六万
石に転じ、老中なども勤めて幕末を迎えています・
また、平山家はいくつもの飛び地を持っていたなど、ネットの情報では知ることのなかった話。更にここには書くこと
のできない住宅管理上の問題なども。




平山家住宅の説明板




家屋を南西から  見学を始めるとご当主は再び干し柿作りに




家屋西側




家屋北側(裏側)




家屋東側




デグチ(出居口)




奥左がザシキ 奥右がナンド




チャノマ




土間とカマド




家屋西側の堀跡




西側竹林外側の堀跡




北西角の堀跡




北側(家屋裏側)の土塁と堀跡




同上




家屋東側の土塁




平山家住宅のパンフレットの中から住宅平面図を

なお、写真はありませんが、平山家の背後を用水が流れていますが往時の用水路だそうです

ご当主にお礼を言い、またお邪魔させていただくかもしれないと伝えて平山家住宅をあとにしました。

訪問日:平成29年(2017)10月30日(月)

竹沢二郎館(埼玉県小川町)

2017年11月08日 | 100名城以外の城館跡


城 名:竹沢二郎館
別 名:竹沢氏館・もと屋敷
形 態:館
指 定:-
所在地:埼玉県比企郡小川町靱負537

東武竹沢駅から東南東約700mの山の斜面に雲龍寺があります。その背後に数段の平場があり、そこに竹沢氏の
館があったといわれます。
平安時代末期 児玉保義の五男行高が竹沢氏を名乗りここに館を構えたのが始めとされますが、応安元年(1368)
竹沢左近将監が武州平一揆に加わり、翌応安2年(1369)所領を没収されました。

【竹沢郷と竹沢氏】
槻川支流の兜川流域に位置する小川町笠原・原川・木呂子・勝呂・木部・靱負は、かつて、竹沢村という一村
であったが、その前身は中世における竹沢郷であったと推定される。児玉党に属する竹沢氏は、同郷を「名字
の地」とする武蔵武士で、南北朝内乱のとき足利尊氏に従った竹沢右京亮はその一族と思われる。
『太平記』によれば、かつて南朝の新田義興に従ったことのある竹沢右京亮は、延文3年(1358)に畠山国清
にそそのかされ、江戸高良や同冬長とともに多摩川の矢口の渡し(東京都大田区)で新田義興を謀殺したとい
う。江戸時代中期にこの事件を浄瑠璃に翻案した福内鬼外(平賀源内のペンネーム)の『神霊矢口渡』は大当
たりし、歌舞伎の台本にも転用された。そこでは竹沢右京亮は竹沢監物という名前の悪役として登場し、義興
の亡霊に身を引き裂かれ最期を遂げるという役回りになっている。
竹沢郷は、平一揆の乱ののち、竹沢氏から没収されて猪俣党に属する藤田覚能に宛行われたが、やがてその一
部は鎌倉の円覚寺に寄進されて同寺領となった。   (小川町編集発行 小川町のあゆみ より引用)

なお、本件とは直接関係はありませんが、上記に笠原・原川・木呂子・勝呂・木部・靱負は、かつて、竹沢村
という一村であったとありますが、それ以前は其々笠原村・原川村・木呂子村・勝呂村・木部村・靱負村で、
6村が合併して竹沢村(現在の小川町の一部)になったものです。




雲龍寺 曹洞宗の寺院で山号は竹澤山
嘉元2年(1304)竹沢左近将監が開創したということですが、天正18年(1590)に大火によって焼失し、再興され
るまで長い間村内に寺のない状態が続いていたようです。
ここも削平されて平場になっていることは地形から見ても明らかです。




山号寺号の入った扁額




薬師堂と六地蔵
この裏側(東側)に熊野神社の参道があります。




鳥居を抜けると参道は左にカーブし、雲龍寺本堂裏手(北側)に位置する熊野神社へ。




熊野神社
神仏分離までは雲龍寺の持ち神社であったようです。




社殿
ここ境内も削平により平場にしたことがよくわかります。




熊野神社扁額




社殿左側(南側)にある五輪塔
竹沢氏の祖である竹沢二郎行高のものといわれる。




社殿裏側(西側)は空堀跡のようです。




熊野神社境内から北東に進みますとすぐ左手に平場があります。




平場です。熊野神社の上(北側)にあたります。 
最初の居館はここに構えられていたようですが、火災により焼失し、以後現在の雲龍寺の本堂付近に館が移動した
ようです。




平場は3段あるようでここ以外にもあるということになります。
竹が倒れている先の方にあるのかとも思いましたが、こんな状態では確認しようがありませんし、または別の場所
かもしれませんが。




墓地中腹から見た遠景です。これで居館が高い場所にあったことがわかります。

かつては墓地入り口に合板製の小さな説明板があったようですが、10年ほど前には既に老朽化して剥離しほとんど
読めない状態であったようで、今はその影形もありませんでした。




これは東武竹沢駅西口前にある「慈光尊」とその由来が書かれた看板です。




看板の冒頭部分ですが最初に書かれているのが竹沢二郎館のこと。そして、腰越城、慈光寺関係などが書かれています。
末尾に「小川町竹沢東部 郷土の文化財保存を進める会」とあります。なんと郷土愛に満ちているのでしょう。

散策日:平成29年(2017)10月20日(金)

清見寺(埼玉県東松山市)

2017年11月07日 | 史跡・遺跡・文化財


名 称:熊野山清見寺(せいけんじ)
宗 派:曹洞宗
本 尊:―
創 建:―
所在地:埼玉県東松山市上野本1683

【清見寺心字座板碑】
心字座板碑は、市内では香林寺、蓮台寺跡(高坂地区)清見寺の3ケ寺のみに所在します。清見寺の板碑は
高さ128cm、幅55cm、厚さ6cmで、山形は低い三角形、二条線は浅く、額部は無いものの、初発期板碑の特
徴を持ちます。主尊には胎蔵界大日如種子を刻み、その下に心字座が大きく彫られ、建長元年(1249)銘が
あります。かつては「為橘氏」と刻文がありましたが、今は確認できません。利仁神社経塚群出土品ととも
に当地における橘氏の影響がうかがわれます。
        (埼玉県立嵐山史跡の博物館発行 改訂 歩いて廻る「比企の中世・再発見」より引用)

板碑については(も)全く無知ですので心字座とは何だろうと調べてみました。普通、主尊の下にある台座
は蓮の花を表現していますが、蓮の花に代わって「心」の字を台座にしているもののようです。
こうした心字座板碑は珍しいようで、清見寺心字座板碑は東松山市指定文化財(考古資料)になっています
(昭和49年(1974)7月10日指定)

ということで清見寺心字座板碑を見てこようと清見寺を訪ねてみました。




山門を抜けるとお約束の六地蔵尊




説明するまでもありませんが参道です




本堂  掲げられた扁額は山号の「熊野山」




本堂に向かって左手にある板碑群




檀上に三基並んで立つ板碑 と
市指定考古資料 清見寺心字座板石塔婆 の標柱




中央の板碑が、清見寺 阿字一尊種子板碑(市指定文化財、鎌倉時代中期 建長元年(1249))
撮り方が拙かったためか残念ながら彫りがよくわからない写真になってしまいました



板碑を背後から

再び清見寺に行くことがあったらもう少し上手く撮ってきましょうか

訪問日:平成29年(2017)10月27日(金)

将軍塚古墳(埼玉県東松山市)

2017年11月06日 | 古墳


名 称:将軍塚古墳
形 態:古墳(前方後円墳)
時 期:4世紀説と5世紀後半から6世紀初頭とする説など諸説あり
指 定:県指定史跡(昭和35(1960)年3月1日指定)
所在地:埼玉県東松山市下野本612

都幾川が形成した広い沖積地に張り出す松山台地の先端部に築造された将軍塚古墳を訪ねてみました。
場所的には、旧野本村地内にある野本氏民活動センター(農村センター)のすぐ東側にあたりますが、目立
つのはどちらかと言えば将軍塚古墳の方ですが。

この将軍塚古墳のすぐ北側に無量寿寺というお寺があります。無量寿寺は山号を利仁山と号し、かつては、
藤原利仁(ふじわらのとしひと)の後裔で野本氏の始祖とされる野本基和(のもともとかず)の館があった
とされます。
将軍塚古墳の名の由来は、この平安時代の武将で武蔵守を務めた藤原利仁が鎮守府将軍であったことからき
ているようで、後円部頂上には藤原利仁を祀った利仁神社が建立されています。
誰の墳墓かは不明ですが、藤原利仁のものではないことは時代が全く違いますので確かです。




将軍塚古墳の南側を走る県道345号線沿いにある標識




上の標識のすぐ道向かいが無量寿寺の参道です。参道右側が将軍塚古墳で、石碑・案内板が建てられています。
写真手前が前方部、奥が後円部です。




石碑 昭和35年3月1日指定 埼玉県指定史跡 将軍塚古墳 と刻まれています。




案内板 昭和35年3月1日指定 埼玉県指定史跡 将軍塚古墳 と記されていますがほとんど読めない状態になっ
ています。




左:寺号標 無量壽寺  右:山号標 利仁山
左側のフェンス内側が野本氏民活動センター(農村センター) 旧野本小学校校地
参道の突き当りに無量寿寺(野本氏館跡)があります




将軍塚古墳前方部への階段 上に建っているのは戦没者慰霊碑




古墳くびれ部分西側にある鳥居 奥に見えるのは利仁神社参道への階段




写真右側の階段が鳥居からの階段
写真上(奥)が前方部  下(手前)が後円部で利仁神社参道




後円部で利仁神社参道




後円部頂上部に立つ利仁神社(としひとじんじゃ)
祭 神:藤原利仁(ふじわらとしひと)
創 建:延長元年(923)
社 格:―




扁額




境内




社殿背後から下を  白く見えるのは古墳と無量寿寺との間の道路
無量寿寺はこの将軍塚古墳の北側にあたります




後円部西側の法面




後円部北側




案内(説明)板

この案内板では野本将軍塚古墳とありますが、正式名称は将軍塚古墳のようです。他の古墳等の区別、所在地を
分りやすくするために地名の野本を冠しているようで、野本将軍塚古墳と標記する方と単に将軍塚古墳と標記す
るなど両者の名称が使われています。

将軍塚古墳は今年2月、野本氏館(無量寿寺)を訪ねた折に序でに(序でも何も目の前ですから)寄り何枚かの
写真を撮ってきました。
しかし、ブログ記事にする予定はなくそのまま放置してありました。が、先日、嵐山町の将軍神社(将軍塚)を
訪問し少しだけですが調べたところ、この将軍とは征夷大将軍坂上田村麻呂の将軍から付けられたという通説の
他に鎮守府将軍藤原利仁の将軍からという説(史料)もあるとのことでした。
利仁神社があるのは将軍塚古墳でやはり将軍塚という名称ですし、ここ野本と将軍沢は市町こそ違え、距離的に
も近いです。そんなことから坂上田村麻呂と藤原利仁を混同して、将軍神社の将軍とは藤原利仁を指すのではな
いかと史料が存在したのではないか、将軍塚古墳について調べてみれば何らかのヒントがあるかもしれない素人
が勝手に期待したのですが、残念ながら何もわかりませんでした。
折角ですから、将軍神社に絡めてこの将軍塚古墳も記事に残そうと、追加の写真を撮ってきて本記事にした次第
です(何を書いているのやら書いた本人もわからなくなってしまいましたが)

散策・撮影日:平成29年(2017)2月17日(金)・10月27日(金)

向徳寺(埼玉県嵐山町)

2017年11月05日 | 神社仏閣


名 称:大福山無量院向徳寺(こうとくじ)
宗 派:時宗
本 尊:阿彌陀佛
創 建:鎌倉期
所在地:埼玉県比企郡嵐山町大蔵635

向徳寺は時宗、創建は鎌倉時代と伝わります。重要文化財の阿弥陀三尊像は、いわゆる善光寺式阿弥陀三尊の典型と
される優美な像ですが、普段は公開していません。主尊の台座の銘文から、宝治3年(1279)、児玉党小代氏の本拠
地・小代(東松山市正代)で作られた可能性が説かれていますが、詳細はわかりません。
境内には町指定文化財の板碑群があり、鎌倉~室町時代にかけての年号を刻むものが20基以上並んでいます。時宗特
有の「南無阿弥陀仏」を刻む名号板碑があり、寺の歴史を物語っています。
             (埼玉県立嵐山史跡の博物館発行 改訂歩いて廻る「比企の中世・再発見」より引用)

非公開である国指定の重要文化財阿弥陀三尊像はともかくとして、板碑群を見てこようと向徳寺を訪ねてみました。




向徳寺参道




山門




山門前左手に、国指定重要文化財の銅製阿弥陀如来及び両脇侍立像と、町指定文化財向徳寺板碑群の説明が記された
案内板があります。
残念ながら色褪せており判読が大変ですが、阿弥陀三尊像の国の重要文化財指定は、昭和10年(1935)4月30日と
ありますが、これは旧法で国宝に指定された日付ですね。現法での重要文化財指定は、昭和25年(1950)5月28日
になっています。
また、当寺は、神奈川県藤沢市清浄光寺(遊行寺)の末で鎌倉時代の創建と伝えられると記されています。




本堂




本堂の向拝柱をつなぐ貫と木鼻の彫刻 本堂入り口上の扁額には「大福山」の山号




鐘楼




山門右手に板碑群があります




以前は一列に野ざらし状態にあったようですが、今はこのように覆屋の中にまとめられています。




板碑群の配置図




覆屋は施錠されていますので、中には入れませんので格子の間から写真を撮るしかありません。
中央のが向徳寺阿弥陀三尊種子板碑(町指定文化財、南北朝時代前期 康永三年 (1344)
その右側にある幅の広いものが最も古いといわれる阿弥陀如来板碑(1250年ころ)








全体を撮ろうといろいろな角度からトライしてみましたが思うようにはいかず、これで精いっぱい
細かく観察したところで自身の頭には入りませんので、「これだけの板碑が」というだけで十分です。

散策日:平成29年(2017)10月17日(火)

将軍神社(埼玉県嵐山町)

2017年11月04日 | 神社仏閣


名 称:将軍神社
祭 神:坂上田村麻呂
創 建:不詳
所在地:埼玉県比企郡嵐山町将軍沢425

嵐山町将軍沢地内を笛吹峠方向に進む途中の左手に鳥居があり、その傍らに「村社 日吉神社」の社号標が建って
います。しかし、興味を抱いたのは、その鳥居からわずかに離れたの前方にあるふたつの石標です。
ひとつは近年建てられた「入口 武蔵国将軍ノ澤村 坂上田村麻呂将軍塚」と刻まれたもの
もうひとつは小さなもので「田村将軍入口」と刻まれています。

将軍塚とは、征夷大将軍坂上田村麻呂が奥州征伐の時、この地で一夜を過ごし、陣営地であることを示す旗を立て
た塚のことで、この塚の上に坂上田村麻呂を祀ったのが将軍神社だと言われているようです。ただ、初めからここ
にあったわけでなく別の場所(旧字大宮)にあり、大宮権現社と号していたようですが、明治7年(1874)3月当所
に奉遷し将軍社と改称したようです。
また、異説(史料)では、鎮守府将軍藤原利仁がこの地を通り、腰掛けて休んだという塚のことを指し、この塚の
上に藤原利仁の霊を祀るため建てたのものであるというのがあるようです。
両者の違うところは、将軍は将軍でも坂上田村麻呂と藤原利仁との違い。塚に旗を立てたのと、塚に腰掛けたとの
違いくらいです。
このあたりの地名を将軍沢というのは、どちらかの将軍からきているのは間違いないようですが、付近には、遠征
中の坂上田村麻呂を心配して追いかけてきた奥方を追い返したという縁切橋など坂上田村麻呂に纏わる言い伝えが
多くあることから、征夷大将軍坂上田村麻呂説のほうが有力で、将軍神社は坂上田村麻呂を祀った神社ということ
になっているようです。




坂上田村麻呂将軍塚石標 大行院が平成13年(2001)に日吉神社の参道を奉納(改修)したのを記念して建てた
もののようです




田村将軍入口石標




先ほどの日吉神社の参道を進むと突き当りに境内社でありながらも鳥居のある「将軍神社」があります。




この写真ではよくわかりませんが、格子の上に「将軍神社」と書かれた木札が貼ってあります。




格子の間から中を覗いてみますと、両開きの格子戸がありその中に小さな祠が鎮座していますが、これが将軍神社
の御神体のようです。




日吉神社の本殿です。将軍神社に向かって左手のほうに位置しています。将軍神社以外の境内社が3社ありますが、
この記事の主役に遠慮して写真はありません。

散策日:平成29年(2017)10月17日(火)

羽尾館(埼玉県滑川町)

2017年11月03日 | 100名城以外の城館跡


城 名:羽尾館(はねおやかた)
別 名:羽尾堀ノ内
形 態:館
指 定:-
所在地:埼玉県比企郡滑川町大字羽尾字堀の内4806 羽尾神社

微高地先端にある羽尾神社にはかつて館があったのではないかと言われています。城館があったという記録も伝
承もないようですが、記堀の内という地名が残されていることから中世の館跡ではないかと考えられているよう
です。
また、社殿西側(裏側)には遺構ではないかと思われる空堀ようの用水路があることも、その理由付けになって
いるようですが、城館があったという確たる裏付けとなるものではないと思います。




「村社 羽尾神社」の社号標




羽尾神社の説明板
同社は倭健命(日本武尊)とともに青鳥判官として東松山市に所在する青鳥城主と伝わる藤原恒儀(ふじわらの
つねのり)を祀り「恒儀様」(こうぎさま)とも呼ばれて村人の尊崇を集めたとされているとのことですが、伝
承の要素が強くその真偽の程は定かではないようです。




参道 境内が他の場所より一段高くなっているのが分ります




境内




拝殿




扁額




本殿 この西側(裏側)にあるとされる空堀ようの遺構は雨天のため確認しませんでした(本当は失念)




拝殿前から鳥居方向に

館があったのかどうかはずぶの素人に判断できるわけでもありませんが、城館があったのではないかということ
であれば一度は訪ねてみたいと思うのが城好きの常でしょうか(たいしたことはない城好きではありますが)

散策日:平成29年(2017)10月15日(日)

勝呂廃寺跡(埼玉県坂戸市)

2017年11月02日 | 官衙・国分寺・廃寺跡


名 称:勝呂廃寺跡(すぐろはいじあと)
形 態:寺院跡
時 期:7世紀後半
脂 定:県選定重要遺跡(昭和51年(1976)10月1日選定)
所在地:埼玉県坂戸市石井354ほか

勝呂廃寺は数次にわたる発掘調査のにより、7世紀後半に建立された埼玉県最古の寺院のひとつと考えられています。
寺域を廻る大溝が発見され、南北120m、東西70mの広大な寺域であったと推定されています。また基壇状の遺構や
大型掘立柱建築跡などが発見され、塔の相輪の一部や多量の瓦が出土しています。本格的な伽藍配置を伴った寺院の
可能性が高く、入間郡の有力豪族であった入間宿襺(物部直氏)一族によって建立されたと考えられています。
             (埼玉県立嵐山史跡の博物館発行 改訂歩いて廻る「比企の中世・再発見」より引用)

鳩山町の赤沼古代瓦窯で焼かれた瓦は、ここ勝呂廃寺にも供給されていて、発掘調査でも出土しているようです。
そんな勝呂廃寺跡を訪ねてみました。




ここ勝呂公民館分館(旧勝呂公民館)周辺が勝呂廃寺跡のようです。
この勝呂公民館分館の一角に建物の柱が建っていた部分にコンクリート柱を埋めて建物の一部が示されています。




公民館分館庁舎前にその一部が残されていて、説明板も建てられています。
時期的に芝生が青々していましたので、他の場所(敷地)との区別が容易です。




角度を変えて




更に反対側から
説明板がなければ芝生の中のひとり掛けのベンチくらいにしか思わない方もいるでしょうね(笑)




説明板をアップで  読めるかどうか?




敷地隅にある石碑ふたつ
右側の石碑には「旅ならぬ 袖もやつれて 武蔵野や すぐろの薄 霜に朽ちにき」と




左側の石碑の碑文




石碑の横に置かれたこの大きな石は何でしょう? 説明するものがないのでわかりませんが。
勝呂廃寺の建物の礎石と言われるものはすぐ近くの勝呂小学校の校庭にあるようですが、そこまでは見てきませんでした。

散策日:平成29年(2017)10月18日(水)

大谷瓦窯跡(埼玉県東松山市)

2017年11月01日 | 古代窯跡


名 称:大谷瓦窯跡(おおやがようせき・おおやかわらかまあと)
形 態:窯跡
時 期:飛鳥時代(7世紀後半頃)
指 定:国指定史跡(昭和33年(1958)10月8日指定)
所在地:埼玉県東松山市大谷大谷2192-1

【大谷瓦窯跡】
大谷瓦窯跡は、県道福田・吹上線を北側にのぞむ、丘陵の東南斜面に残されています。
昭和30年5月に2基の窯跡の発掘調査が行われ、完全な形で掘り出された1基です。
瓦窯跡は、瓦を焼いて製作した窯のことで「登り窯」とよばれる形態をもっています。
また、瓦の製造は、寺院建築とともに始まったものです。
この窯跡は、地山を掘り窪めて構築したもので、前長760センチメートル、約30度の傾斜を
もっています。
幅60センチメートルの焚口は、瓦を立てて補強してあります。
燃焼部は一段深く掘り込まれて、一つの部屋を形成しています。
また、瓦を利用して13の段が形成されているなど、全体に補強工作が慎重に行われています。
出土遺物は、軒丸瓦、平瓦、丸瓦、文字瓦などです。年代としては、白鳳時代と思われます。
                      (東松山市ホームページより引用)

上記にあるよう完全な形で掘り出された1基が国指定の史跡となっています。また、付近一帯
は周辺に窯跡群が埋没しており昭和44年(1969)に県選定重要遺跡に選定されています。

そんな大谷瓦窯跡を午後のいっとき、雨降る中を訪ねてみました。




写真中央やや左に白い点(案内板)が見えると思いますが、この背後に大谷瓦窯跡はあります。




雨天、更には山陰であることから暗くなってしまいました(何か映り込んでいますが無視してください)
文面の転記は省略しますが、Ooya Gayooseki おおやがようせき と読むようですが、文字ならなんだかすぐに
わかるも、言葉で聞くと何のことやらと考えてしまいそうです。
ここの道は、「東松山ふるさと自然の道 大谷伝説の里(秋葉道・大谷窯跡コース)」となっています。




大谷瓦窯跡
屋根が設けられ周囲は金網で保護されています。




標柱と案内板




こちらの案内板は昭和48年3月設置のようで、文字・図がだいぶ薄くなっています。
この案内板では、おおやかわらかまあと とルビがふられています。




正面から  金網で保護された窯跡周囲には見学用通路が設けられています。




窯跡を上から見てみましたが窯跡周囲はコンクリートで固められ、中は真っ平らです(残念) 
保存のため埋め戻されたのでしょうね。
折角の見学用通路が活かされないと思いましたが、ここは壁のある覆屋ではないため、これは見学用を兼ねた
窯跡を雨等から守るための設けたスペースだと判断しましょうか?




斜め上から




少し離れて左側から

国指定史跡ということで期待して行ったのですが、保護保存が優先?(重要なことですが)で、遺構を見られず・・・

散策日:平成29年(2017)10月15日(日)