中国の地震の情報はテレビで多少は窺い知ることができますが、
ミャンマーはどうなっているんだろう?と気になっておりました。
NICeの知人たなぽんさんの友人が、
ミャンマーで活動された報告をブログに掲載されていたので、
了解を頂き、下記に転載させて頂きます。
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ミャンマーでの活動を終え、バンコクに戻りました。
全然心地良くない喪失感が残りました。
『惨状』と言う言葉の意味を、痛い程思い知らされる事になりました。
前首都であるヤンゴンでは、未だに倒木が彼方此方に有り、屋根が剥がされ、
まだ直せないでいる家々。洒落になりません。
行けないと思われていた、ラブッタに行けると言う事で行って来たのですが、
夜にヤンゴンを離れ6時間もすると、もの凄い異臭が漂ってきます。
異臭の素は勿論解っているのですが、
闇で見えない事だけが救いと思いつつ船着場へ。
船に乗り込み南下して行きましたが、世が明けて来ると目に映るモノは、
とても数える事等出来ない程の犠牲者と水牛の骸。
最早この世の光景とは思えない状態です。
思わず天を仰ぎました。
ラブッタの街に到着したのが、午前5時。
船着場で待っていてくれたのは、友人であり、この地区で最も力のある街の網元。
彼自身もかなりの怪我をしながらも、気合いで地元の民の為に頑張っていました。
この混沌とした状態に有っても、周りの人は彼を慕い、
彼の言う事ならば聞くと言う秩序が出来ており感動してしまいました。
網元は、顔中くしゃくしゃにしながら、私たち全員と抱き合い、
「本当に良く来てくれた。もう2度と会えないだろうと思っていたお前が
来ると言う話を聞いた時は信じられなかったが、
本当に助けに来てくれた姿を見て仏陀に感謝している。
有り難う、有り難う」と、涙を流しながら歓迎してくれた。
彼の指示で、地元民らの手伝いで約半時間かけて荷物を降ろし、
物資の分配について網元と話し合い、地元民全てから絶大な信頼を
得ている彼に全てを任せる事にしました。
そして、知り合いであった漁師達の家がどの様になってしまったのか等を
知らされ、毎朝6時から始められる犠牲者の為の葬式に参加。
親を亡くした多くの幼い子供達の健気な姿に、涙が吹き出てしまいました。
手を合わせ、彼らの冥福を祈りました。
日本の救護所に立ち寄りたかったのですが、網元が
『兎に角早くヤンゴンに逃げろ!』と言うので、その言葉に従いました。
何故『逃げろ!』だったのか、それは直ぐに解りました。
船着場から車に乗り換え、ヤンゴンに走らせると
信じられない数の避難民が走って寄って来るのです。
間違えて停車させれば、彼らに囲まれて自分達の方が危ない状態になるのです。
道の真ん中には、『俺を轢き殺せ!もう人生は要らない!』
と叫び続ける人が所々に居り、
水牛でさえが気が触れていて暴れ回っていたりする状態。
ヤンゴンに着いた時には、
ご飯も喉を通らない久々に憔悴し切った状態になってしまいましたが、
網元が最期に耳元で囁いてくれた言葉
「これで街が救われる。現状をもっと伝えて欲しい。
そして民を助けてくれ。君たちだけが頼りなんだよ。」
を思い出しながら、
『ここで負ける訳にはいかない!』と、気合いを入れ直しました。
まだこの地域が復興するのには数年が必要です。
頑張らないといけない。
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人の心も含めて、地球全体が病んでいるとしか思えません。
癌の末期状態ではないかと思います。
たぶん・・・西洋医学的な手術で切り取ることは不可能だと思います。
それぞれの細胞(一人ひとりの人間)の
自然治癒力を高めていくしかないのではないかと思います。
ミャンマーはどうなっているんだろう?と気になっておりました。
NICeの知人たなぽんさんの友人が、
ミャンマーで活動された報告をブログに掲載されていたので、
了解を頂き、下記に転載させて頂きます。
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ミャンマーでの活動を終え、バンコクに戻りました。
全然心地良くない喪失感が残りました。
『惨状』と言う言葉の意味を、痛い程思い知らされる事になりました。
前首都であるヤンゴンでは、未だに倒木が彼方此方に有り、屋根が剥がされ、
まだ直せないでいる家々。洒落になりません。
行けないと思われていた、ラブッタに行けると言う事で行って来たのですが、
夜にヤンゴンを離れ6時間もすると、もの凄い異臭が漂ってきます。
異臭の素は勿論解っているのですが、
闇で見えない事だけが救いと思いつつ船着場へ。
船に乗り込み南下して行きましたが、世が明けて来ると目に映るモノは、
とても数える事等出来ない程の犠牲者と水牛の骸。
最早この世の光景とは思えない状態です。
思わず天を仰ぎました。
ラブッタの街に到着したのが、午前5時。
船着場で待っていてくれたのは、友人であり、この地区で最も力のある街の網元。
彼自身もかなりの怪我をしながらも、気合いで地元の民の為に頑張っていました。
この混沌とした状態に有っても、周りの人は彼を慕い、
彼の言う事ならば聞くと言う秩序が出来ており感動してしまいました。
網元は、顔中くしゃくしゃにしながら、私たち全員と抱き合い、
「本当に良く来てくれた。もう2度と会えないだろうと思っていたお前が
来ると言う話を聞いた時は信じられなかったが、
本当に助けに来てくれた姿を見て仏陀に感謝している。
有り難う、有り難う」と、涙を流しながら歓迎してくれた。
彼の指示で、地元民らの手伝いで約半時間かけて荷物を降ろし、
物資の分配について網元と話し合い、地元民全てから絶大な信頼を
得ている彼に全てを任せる事にしました。
そして、知り合いであった漁師達の家がどの様になってしまったのか等を
知らされ、毎朝6時から始められる犠牲者の為の葬式に参加。
親を亡くした多くの幼い子供達の健気な姿に、涙が吹き出てしまいました。
手を合わせ、彼らの冥福を祈りました。
日本の救護所に立ち寄りたかったのですが、網元が
『兎に角早くヤンゴンに逃げろ!』と言うので、その言葉に従いました。
何故『逃げろ!』だったのか、それは直ぐに解りました。
船着場から車に乗り換え、ヤンゴンに走らせると
信じられない数の避難民が走って寄って来るのです。
間違えて停車させれば、彼らに囲まれて自分達の方が危ない状態になるのです。
道の真ん中には、『俺を轢き殺せ!もう人生は要らない!』
と叫び続ける人が所々に居り、
水牛でさえが気が触れていて暴れ回っていたりする状態。
ヤンゴンに着いた時には、
ご飯も喉を通らない久々に憔悴し切った状態になってしまいましたが、
網元が最期に耳元で囁いてくれた言葉
「これで街が救われる。現状をもっと伝えて欲しい。
そして民を助けてくれ。君たちだけが頼りなんだよ。」
を思い出しながら、
『ここで負ける訳にはいかない!』と、気合いを入れ直しました。
まだこの地域が復興するのには数年が必要です。
頑張らないといけない。
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人の心も含めて、地球全体が病んでいるとしか思えません。
癌の末期状態ではないかと思います。
たぶん・・・西洋医学的な手術で切り取ることは不可能だと思います。
それぞれの細胞(一人ひとりの人間)の
自然治癒力を高めていくしかないのではないかと思います。