憲法記念日、新緑の大原に行ってきました。思えば、縁あって5月3日は毎年のように寂光院参道を訪ねています。壇ノ浦の戦いで、平家滅亡の修羅をみて、ひとり敵方の源氏に助けられた高倉天皇皇后・建礼門院徳子を想い、平和な世に生まれたことの意味を再認識します。
徳子の幼子、安徳天皇は、海の底にも都はあると言われ、祖母の胸に抱かれて入水したといいます。たったひとり残された徳子は京で出家、余生を大原・寂光院で過ごしました。大原名物の柴漬けは、里の人が届ける野菜を保存して食するため、建礼門院が考案したものといわれているようです。慎ましい暮らしぶりがわかります。
放火で焼ける前の寂光院を、学生の頃一度だけ訪ねた記憶があります。参道で親戚の小さな土産店を手伝っていました。あのとき、あの場所にあった、ひなびた像のたたずまいを思い出すと、今も無念の思いで胸がつぶれそうになります。先人の足跡を後世に伝える歴史文化遺産を失う喪失感は、観光的なダメージとは違う重さがあります。
安徳天皇亡き後、皇位の象徴である三種の神器が揃わないまま天皇の位に就いたのが、弟(母は違う)の後鳥羽天皇。後に後鳥羽上皇を祀る水無瀬神宮は、建礼門院が余生を送った大原寂光院と時代がつながっていることになります。
日本通史をいまだ充分に理解していないわたしですが、「ふるさと島本」を知ることで日本史が多少なりとも身近になりました。とはいえ、浅すぎる歴史認識では、面白味を感じるところまでには至りません。
里の駅では、次回「まなびとひろば」の講師をお願いしている渡辺さんが育てられた黒米を購入(昼頃でしたが野菜は完売)。これもまた、つながっています。憲法記念日に寂光院を訪ねる・・・偶然でありながら、実は必然のような気がしています。
画像は、寂光院の入り口の門
ひっそりと風情のある石段を登ります
が、今日は観光客で賑わっています
16花弁の菊の紋は後鳥羽上皇が好まれました
徳子の幼子、安徳天皇は、海の底にも都はあると言われ、祖母の胸に抱かれて入水したといいます。たったひとり残された徳子は京で出家、余生を大原・寂光院で過ごしました。大原名物の柴漬けは、里の人が届ける野菜を保存して食するため、建礼門院が考案したものといわれているようです。慎ましい暮らしぶりがわかります。
放火で焼ける前の寂光院を、学生の頃一度だけ訪ねた記憶があります。参道で親戚の小さな土産店を手伝っていました。あのとき、あの場所にあった、ひなびた像のたたずまいを思い出すと、今も無念の思いで胸がつぶれそうになります。先人の足跡を後世に伝える歴史文化遺産を失う喪失感は、観光的なダメージとは違う重さがあります。
安徳天皇亡き後、皇位の象徴である三種の神器が揃わないまま天皇の位に就いたのが、弟(母は違う)の後鳥羽天皇。後に後鳥羽上皇を祀る水無瀬神宮は、建礼門院が余生を送った大原寂光院と時代がつながっていることになります。
日本通史をいまだ充分に理解していないわたしですが、「ふるさと島本」を知ることで日本史が多少なりとも身近になりました。とはいえ、浅すぎる歴史認識では、面白味を感じるところまでには至りません。
里の駅では、次回「まなびとひろば」の講師をお願いしている渡辺さんが育てられた黒米を購入(昼頃でしたが野菜は完売)。これもまた、つながっています。憲法記念日に寂光院を訪ねる・・・偶然でありながら、実は必然のような気がしています。
画像は、寂光院の入り口の門
ひっそりと風情のある石段を登ります
が、今日は観光客で賑わっています
16花弁の菊の紋は後鳥羽上皇が好まれました