とだ*やすこの「いまここ@島本」

暮らしの豊かさ最優先!
ひとが主役のまちづくり!

大阪府島本町議会議員
とだ*やすこの活動報告

攝津と山城を往来

2010年04月10日 | とだ*やすこの活動日記
大阪府(摂津)と京都(山城)を言ったり来たりの一日でした。午前10時、ふるさと島本案内ボランティの会の一員として「関大明神社」の案内を担当しました。会の発展とともに膨らんでゆく活動に、できる範囲のことは積極的にお引き受けしようと思うのですがなかなか参加できずにいます。

今日は、和歌や俳句をたしなむ女性の少人数グループということで、「山崎宗鑑ゆかりの井戸があるお屋敷」にちなみ俳句の起源を説明させていただきました。「二の句がつけない」「花をもたす」「挙句の果て」これはすべては俳諧連歌に由来する言葉です。

俳句が俳句と呼ばれるようになったのは、正岡子規、高浜虚子の時代以降で、松尾芭蕉の頃には(俳諧連歌の)「発句」と言われていたそうです。主宰していた「俳句のいろは」で教えていただきました。案内の途中、青空に初燕をみていよいよ春本番という気分です。

案内を終え、天気に誘われて大山崎駅前の「十日市・素敵発見市」へ。島本町にあった「テクテク」さんが、ケーキ&パンで出店され、ランチの珈琲サービス券(手づくり)を配布しておられました。広瀬のお店を再開されるようです。

有機野菜、イタリヤのオリーブオイル専門店、作業所のクッキー、ラオスとの手工芸品、ビーズの手づくりアクセサリー、グリーン、バラの切花、インナーチャイルドカード・・・十日市&素敵発見市では、すべてのお店に「ストーリー」と「まごころ」があります。草創期に出店させていただいていたこともあり、実感としてわかります。

午後は桜バザーへ!「ゆりの礼拝堂」に素敵なアカペラグループ「ミルフィーユ」(女性四名)の美しいハーモニーが似合っていました。同世代の女性の選曲はすべて心地よく、特に「蘇州夜曲」には驚きました。もっとも好きな昭和の名曲のひとつです。これからの時代には、昭和の名曲をクラシックとしてレコードで(!)聴く茶話会があっても素敵ですね。

再び十日市。インナーチャイルドカードを使ったトークセッションで、今現在わたしの頭のほとんど全部を占めている「仕事」の中味から、もっとも切羽詰まった案件を整理しました。課題を理解し、なにを拠りどころとするべきなのかが再確認できました。

カードリーダーは学生時代の友人であり「起業カウンセラー」的な存在。課題や混乱を整理し、わたし自身が自ら解決の糸口を見出せるように軽やかに導いてくれます。十日市で偶然に再開していなければ、議員になろうという決断には至らなかったように思います。多くの女性起業家のサポートをしている女性です。

よくみれば美男美女の燕かな  靖子
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小学校入学式に参加して

2010年04月07日 | とだ*やすこの活動日記
ご卒園ご卒業、ご入園ご入学、おめでとうございます。幼・小・中学校の卒業式、入園式にはできる限り出席させていただきました。母でもなく祖母でもなく、子どもたちの晴れの日に臨席させていただけることは光栄です。子どもたちをとりまく課題が多少なりともみえてきたりもします。

それにもまして、今の政治が若者の未来の時代を創ることを、節目節目で自分自身が確認するためにも大事にしたいと思うようになりました。負の遺産(環境・食品・財政・医療・福祉・社会保険等)を若者に遺さない、これがわたしの議員としての原点です。負の遺産、その最たるものは「戦争」です。

さて、新年度を迎えて、今、とてもプレッシャーとストレスを感じています。3月議会の報告は会派ではなく個人で行う予定です。平野議員からのアドバイスであり、与えていただいた課題です。不安でも未熟でも、たとえ参加者おひとりでも、自分でやらなければならないと理解できています。これから「ふりかえり&整理」が必要です。

画像は一小の通学路交差点 広瀬地区の民家の角の花壇です
この角を落とした配慮が、横断歩道の視界を広くしています
毎回、通るたびに温もりを感じます

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正しさのセンス

2010年04月06日 | とだ*やすこの町政報告
午前中は「ふるさと島本案内ボランティアの会」の総会に参加、午後は議会だより編集委員会でした。わたしにとって、議会だより編集委員会はとても疲れる委員会です。一般質問に質問した議員の名前を記載していない島本町議会ですが、少なくともわたしの感覚では理解できないことです。

以下は愚痴のようなものでもあり、自らの無能をさらけ出す行為ですが、わたしからの視点で、議会だより編集委員会の一端をレポートしておきます。住民の目が届かない「コップの中の改善議論」がいかに恐ろしいか、知っていただきたいと思うからです。

過去一年の編集委員会において、共産党の議員が粘り強く「そろそろ、一般質問の名前を載せませんか?」「先送りせず検討しませんか」と折にふれ提案しています。わたしもまったく同感であると言い続けています。

しかし、その度に「本日のテーマとは違う」「逸脱している」「ルールを守ってください!」という委員長(自民党)の発言が繰り返されてきました。「検討事項」「合意に至らない」「引き続き検討事項とする」として延々と実現しないままです。なぜ、毎回のように逸脱した議論が繰りかえされるのか、もう少し誠実に考えられないものでしょうか。

本日、共産党から採決内容表示についての提案があり、わたしはそれを受けて「議会改革特別委員会が発足し、議会だよりについての改革を特別委員会で議論することは可能なのか」という内容で発言しました。休憩の間の質問としてでもよい、教えていただきたいと発言しましたが、最終的に委員長は「本題に戻ります!」「休憩はとっていません!」と随分ご立腹の様子でした。

さらに委員長は「議会改革特別委員会で議論する内容ではない」と断言、その理由を「改革の検討項目にあがっていない」とし、「議会だよりのプライドにかけて当委員会で検討すべきこと。プライドをもっていただきたい!」と発言しました。理解できません。さらに「各委員会には委員会の役割があります。ごちゃまぜにしないでください!」と激しく言われましたが、質問したのであって「ごちゃまぜにした」のではないと思います。

少なくとも「議会改革特別委員会における議会改革とはなにか」、委員会が一度も開かれていないのですから、議論はなにひとつはじまっていません。議会運営に関することのなかに「議会だより」=「住民への開かれ方」が入るのか、入らないのか・・・ちなみに、議会改革特別委員会の委員長も議会だよりの委員長が務めることに決定しています。

わたしは、当然、議会のあり方の一部として入れることは不可能ではないと考えますが、学習に基づいた理論で武装しておかないと、また不毛の議論に疲れることになります。それにしても、わたしがかつて一住民として議会事務局に電話をし「なぜ、一般質問に議員の名前を載せないのですか。違和感があり、不思議です」と伝えてから、すでに3年以上が経っています。

当時、事務局は「検討中」と答えました。また民主党のある議員が(それまでに特に面識なし)町でわたしに唐突に声をかけ「質問の時間など、いろいろ関連の課題がある」と説明しました。どうして電話をかけたのがわたしとわかったのか、いまだ謎ですが、その答えの意味もいまだに???です。

議員となり「議会だより編集委員会」に所属して一年、わたしの記憶では「前向きに」このことについて検討されたという印象がありません。ひとこと口にしようものなら「過去の経緯がある」「全員合意に至っていないということ!」などの委員長発言が繰り返され、まさに地雷を踏んだような雰囲気が漂います。「出て行ってもらいますよ!」と激しく恫喝されたこともあります。

「質問者の名前を載せないという理由にはどのようなものがあるのか」との質問にも「他の自治体で、実名を挙げたことにより、被害にあうというケースがあった」という以外に具体的に答えてもらったという記憶がありません。しかし去る12月から質問の内容がホームページに掲載されていますから「覆面効果」はもうありません。

聞き及ぶところでは「質問した議員の宣伝に使われる」「質問する議員としない議員で不公平」などがその理由らしいのです。ため息どころか、涙がでます。前号の「編集後期」にあった「政権交代が実現しました」「結果がどうあれ・・・」などの表現に意義があるという公明党の発言に、「嫌だという人がいれば、やめた方がいいだろう」という配慮で民主党の議員が自ら文章を削除したときには鼻血がでそうでした。

開かれた議会の基礎的な手段である議会だよりを編集する委員は、いったいどっちを向いているの?

議員の仕事は「尊い」。しかし議論の内容がその「尊い」に値するのか、議員報酬の金額に値するのか、重い一票に値するのかを思うとき、どっと哀しい疲れが襲ってきます。もちろん、一期目一年目のわたしですから頓珍漢な発言が多いことは認めます。が、正しさのセンスは経験で養われるものではありません!

手段や手続き論に終始しているようでは、議会の存在意義はありません!島本町民の良心が議会に反映できるよう、どうかみなさんのお声を「わたしの声」として積極的にお寄せください。議会は議員のものではなく住民のものです。

画像は円山公園の夜桜(4月5日撮影)
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若山神社桜まつり

2010年04月04日 | とだ*やすこの活動日記
議員生活もまもなく二年目にはいります。4月に入って1日、2日とふたつの学習会に参加しました。いづれも北摂の議員の横のつながりによるものです。これからは、こういった会にできる限り参加し、周辺自治体の様子と各地の議員の活動内容を知っておきたいと考えています。

さて、本日4日は若山神社の桜まつり。桜の下での宴会に誘っていただき(PTA活動で親しくなった人)差し入れ(だし巻き卵と筍ご飯)を手にいそいそとでかけました。仮設舞台ではコーラスやオカリナの演奏が奉納され、山の桜に負けじとばかり華やかでした。島本町の女性は活動的です。

しかし、午後には京都で急用が。そこで、遊びに来ていた母を送って(筍は母が湯がいてくれた)家族とともに京都に向かい、三条の文化博物館で「チュニジア展」の最終日を楽しみました。夕方には島本町から関東方面に引っ越した友人との再開が実現し四条で待ち合わせ。

京都育ちの彼女にとって懐かしい店名である「まんざら帝」(烏丸錦・京町家の居酒屋)で飲み、さらに彼女の希望で円山公園、河原町の喫茶店「築地」へと精力的に移動。女三人、共通点はまず第一に年齢、時を同じくするように父を亡くしたこと、人知れず実はそれなりの苦労人であること、などでしょうか。

夜空に浮かぶ円山公園のしだれ桜は、まるで天国につながっているような美しさ。もっとも身近な社会共同体である「家族」の理解と協力あっての充実した一日に感謝した日でした。
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大山崎の離宮八幡宮

2010年04月03日 | とだ*やすこの活動日記
愛媛県松山市で毎年10月に行われる「けんか神輿」が大山崎町の離宮八幡宮にやってきました。離宮八幡宮創建1150年を記念して、神仏に供える灯明に使われた荏胡麻(えごま)を仕入れていた伊予の国、松山の朝日八幡神社より来たお神輿(3体)が町を練り歩きました。

駅前郵便局、西田書店、ぱり仕込みのパン屋さんエトルタ、アロマテラピーサロン・クレア、暮らしのうるおいサロン・レリッシュ、デイリーヤマザキなど、常々お世話になっているお店がたくさんあります。大山崎の駅前の賑わいと、個々のお店の取り組みと協働はとても参考になります。

今日のお祭りでは、ふだん顔馴染みのみなさんがいつもと違う姿で活躍されていました。男女ともに、多くはわたしと同世代、あるいはもっと若い方です。観光で味わうお祭りのよさも否定はしませんが、祭りというものは、つくづくその土地の住民のものだなぁと思います。今回は伊予の国の元気をいただいた感じです(ボクシングの亀田兄弟がいっぱいという感じでちょっとびっくりしましたが)。

松山市のみなさんは宵明けに四国を出発し、おそらく昼食を取る暇もなく祭りを演出してくださったはずです。自宅より徒歩5分ということもあり、1)阪急大大山崎から八幡神社までの神輿パレードとお迎え太鼓、獅子舞、2)神社境内での神輿鉢合せ、3)JR山崎駅前でのエンディング、と合計3回すべてを楽しみました。

島本町からは町長、教育委員長、政策本部長などの姿がみられました。JR島本駅ができて2年が過ぎています。島本町が考える「駅前周辺のにぎわい」は今なお具体的に示されないままです。10年、20年はすぐです(ふれあいセンターができて13年)。島本駅開業から20年先を見込んだまちづくりに、10代、20代、30代の若者の視点が活かせるかどうかが、ひとつの鍵になります。
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「べてるの家」の当事者研究

2010年04月01日 | もっと生きやすい社会は可能だ!
3月6日ぴあ・ネット主催の講演会「地域で共にくらす べてるの家から吹く風」で、向谷地好生良さんの講演を聴きました。ぴあ・ネットは、女性やマイノリティな人権問題など、当事者とつながる活動をしておられるグループです。

この講演を通じて、わたしは「べてるの家」のことが少し理解でき、なにより「当事者研究」という言葉をはじめて知りました。そして「生きる」ことの当事者である「人」にとって、「障害をもつ、もたない」の境界線は限りなく太く広く、根源的には変わりのない課題を抱えてるいう感覚がもてる、その「入り口」に立てたような気がしました。

もちろん、現実は厳しく「意識のバリアフリー」はそう簡単に築けるものではありません。障害をもつ人と、そうでないと思われている人がともに暮らしているという点では実は島本町も同じです。子をもつひとりの母親として、保育所、小中学校を通じて普通学級に席を置いてみんなとともに学ぶ、欧米で「チャレンジド」と呼ばれる子どもたちの姿に触れてきました。

けれども「べてるの家」の「ノリ」は少し違っていました。たとえば「過疎の町でなんにもない。けれども病気があれば生きてゆける・・・」「治りませんように・・・おかげさまで病気です」という表現。そこに底なしの明るさを感じます。「安心してサボれる職場づくり」「昇る人生から降りる人生へ」「弱さの情報公開」「自分でつけよう自分の病名」「弱さを絆に」「手を動かすより口を動かせ」など、深く含蓄に富んだ「理念」が示されています。で「今日も順調に問題だらけ!」。

精神障害を体験された回復者数名が、浦河という北海道の小さな町の教会の片隅で「昆布の袋詰めの下請け作業を始められたのが1983年。「これは福祉ではなくビジネスである」という立ち位置ではじめられたそうです。「社会的な支援体制の貧しさや地域経済の弱体化が、精神障害を抱えながら生きようとする当事者自身の生きづらさと重なり合って生まれた起業精神」という表現が講演会資料にありました。

「○○さん、金欲しくないかい!」「欲しい!」といった当事者がお風呂に入りはじめたと向谷地さんはおっしゃいました。コロンボテクニック」と名づけ、質問を通して相手に考えさせる手法も紹介されましたが、これが実に興味深い、慈悲深い内容でした。

ケアマネージャー「効き目はありますかね。副作用は?」当事者「最悪です」ケアマネ「おぉ、ちゃんと現状を受け止めているね、素晴らしいです!いっしょに研究してみませんか?!」自分にとって忌まわしい経験が社会的に意義があるということに気づいてゆく・・・多くの人がこの気づきによって再生できる。

ケアマネ「あなたの今おしゃったことは、たいへん参考になりました。これは役に立ちます!ありがとう」自分自身の存在が家族や周囲の人びとに迷惑で害のある存在であると考えがちな当事者が、常に保護され管理される対象であったことから解き放たれる瞬間です。

「べてるの家」のある浦河に引越して来て、ここで暮らしておられる方も少なくないといいます。自分が「自分の苦労の主人公」になることで、研究的な関心、客観的な関心を自分に向け、自分が自分の支援者になることが自立(=仲間と補い合って)への一歩です。

精神的な障害を抱えてしまった人にとって、「自己管理」という「病の基本中の基本」に到達することの意味は大きく、感動的です。精神医療の分野において欠落していた部分であり、浦河の取り組みは世界的に注目されつつあると聴きました。凄いことだと思います。

薬の内容も病名も知らされず、家族や医師(ときに=薬)に任されて「管理されていた」当事者が、「自分に起きていることを認知」して「仲間とともに起こっていることを研究」する。体調管理、気分管理、考え方の癖などが理解できれば、自己管理しながら「少しは楽に」暮らしていけます。特に精神疾患の場合、既に手につけている「職」が本人を支えます。

「地域密着=ともに寂びれる」という宿命を負った北海道の僻地において、自分たちの取り組みが町に活力をもたらすものとなるかを考えて起業されたそうです。障害を抱えた人が、ひとりひとり自立の道を模索しながら、決して事業を大きくし過ぎないでやっていく。その「ひとり起業」を支援してゆくのが「べてるの家」だそうです。

地域の課題は地域にあり解決の道も地域にころがっている。「天地人」がそろって「必然」が起こります。浦河で起こっていることが他の地域で起こるとは限りませんが、生きづらさを抱える人が「べてるの家」を知ることによって再生できる可能性は感じます。当事者、家族、医療介護従事者の見学研修を受けておられるそうです。

身近な人が当事者になり、自分がどうやって手を差し伸べてよいものか悩む人の声を聴きます。絡まりあった糸がほどけないと当事者をますます追い詰めてしまうことにもなり、みんながそれぞれの生きづらさを背負い、不幸の主人公だらけになってしまう。

「べてる」の関連本はたくさん出版されています。一度ふれてみてください。ヒントがみつかるかもしれません。わたしは、講演会で手にした、実践的非援助論「技法以前~べてるの家のつくりかた」という本を読みます。奇跡のリンゴ・木村秋則さんのお話も収録されているそうです。

画像は春の比叡山(3月14日撮影)
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