十方世界共生山一法寺

自己の世界を建設しよう
 日本のことも世界のことも自分自身のこともみな自己の内のこと。

キリスト教式結婚式

2008年11月08日 | 他教

近頃、キリスト教の形式で結婚式を挙げる人が多くなった。ホテルなんかもほとんどがそうなって来ている。


 何故か、近頃結婚式には女性が主導権をとって、教会形式でバージンロードを歩きたい、それが格好いい、ということらしい。とうの昔にバージンでもないくせに・・・


 しかし、実際問題とて簡単にエホバ神に近づくのはヤバイことなのである。キリスト教ではカトリックでもプロテスタントでも「使徒信条」だけは誰でも信じることになっている。


それは次のとおりのものである。 


「天地の創造主、全能の父である神を信じます。
父のひとり子、わたしたちの主イエス・キリストを信じます。


主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ、ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられて死に、葬られ、陰府(よみ)に下り、三日目に死者のうちから復活し、天に昇って全能の父である神の右の座に着き、生者(せいじゃ)と死者を裁くために来られます。


聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを信じます。


アーメン」


 キリスト教徒となるためには、この「使徒信条」を信じなければならない。こんなことが信じられるだろうか。余程頭をひん曲げなければ信じられるものではない。
 
 信じられない者が軽薄にバージンロードを歩きたいだけで神の前に立ち誓いをする、罰当たりもはなはだしい。そんな者を取り持ち「汝と汝は今何時」とやっている神父たら、牧師たらも罰当たりというべきだ。離婚が流行るのも当然といえる。


 もともと日本の結婚は縁談というくらい双方の結びつきを大切にし縁起の良さを尊ぶものである。処刑台に手足を釘打たれ血を流しているところで式をする、どこに縁起の良さがあるのだろうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

命を生み出したもの

2008年11月07日 | 生命

 前に「命の重さ」で個々の命は宇宙全体で支えられていると書いた。個々の命、いや石ころ一つにだって宇宙の全体の力が及んでいるのである。


 そもそも自分の生みの親は人間の両親というだけの簡単なものではない。ましてや神様がポンと創り出したという簡単な話でもない。


 宇宙がその全力を使って137億年かかって生み出したものなのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自立 立つべき地盤

2008年11月06日 | 共生

  自立は自ずから立つと書く。自分はどこに立っているのか。


 その立つべき地盤は内山老師の分類によれば二つある。一つは生命地盤ともう一つは生存地盤。生命地盤はその上で生まれ生き死んでいく。私の身体を支えてくれる地盤で宇宙全体にまで広がりを持っている。


 一方、頭で考えられた約束事で造られた地盤、人が生きることだけに拠って立つ地盤で死がオミットされているから老師はこの地盤を生存地盤と名付けたのである。


 国、社会、組織、組合、団体等全て約束事の世界である。この世界は言葉で通じ合い、金が取引の道具となる。どこかの会社に就職し金を稼ぎ自立するというのはこの地盤に立つことなのである。


 ところがこの地盤は危ういもので約束が破綻すればそこから落っこちる。高いところに登っていれば落ち目がひどいというは道理である。小室のように塀の中に落ちることになる。
 大統領や首相だって落っこちる時は落っこちる。


 国というのは堅いものの代表だと思っていたら、どんどん軟弱化し崩れかけている。生存地盤のものは何も当てにはならないのである。


 確固たる生命地盤の上に立つ。いや、誰でも生命地盤の上に立っているのに生存地盤だけに目が向いてそれを見失っているのである。目を見開いて自らが立っている生命地盤を地固めして生きることが大切ではなかろうか。そうでなければ安心がない。


 宗教とは生命地盤のことを教えるものである。ところが生存地盤のことに一所懸命という宗教もあるようである。こんなのはそもそも本来宗教というべきものではないのである。


 えっ、どこって。ちょっと頭をめぐらせばすぐ分る。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

命の重さ

2008年11月03日 | 生命

 今日の朝日新聞の読者の声欄に久しぶりに目にする言葉が出てきたので、それについて書いてみる。


 それは「人の命は地球より重い」という言葉である。
 田母神俊雄航空幕僚長が「我が国は侵略国家だったなどというのはぬれぎぬである」という趣旨の内容で懸賞論文に応募したことに反対意見を述べている中に出てくる。


 この「人の命は地球より重い」はもともと誰が言い出したのか私には分らないが、1977年に起こった日本赤軍によるダッカでの日航機をハイジャック事件時に、超法規的措置として服役中の過激派や爆弾魔を釈放した時、福田赳夫首相が言った言葉として有名である。それ以前は1948年に最高裁判決の中で使われたということである。


 さて、人の命ってどれくらい重さなのか、まず体重でみるとギネス載ったメキシコ人男性は560Kgだとか、小錦の倍、私の10倍以上。いずれも一人の人間だとするとこの人無駄なものをいっぱいくっつけているなあという印象、要するに食い過ぎだ。


 で、そんな体重をどう支えるか。例えば私は今椅子に坐ってタイピングしている。私の体重を椅子が支えている。しかし、椅子自体で私を支えることはできない。椅子を床が支えているから椅子は私を支えられるのである。床は建物に支えられ、建物は地面に支えられ、地面は地殻に、地殻はマントルに、マントルは外核に、外核は内核に支えられる。と考えていくと私は地球全体によって支えられている。


 その地球だって単独には存在し得ない。太陽系に支えられている。太陽系は銀河に、銀河は銀河群に、銀河群は銀河団に、銀河団も大規模構造の中にあり支えられている。大規模構造は宇宙全体に支えられてある。


 要するにこの身は宇宙全体の力がなければ支えられないということになる。
 とすると、「人の命は地球より重い」という程度では、いささか軽い扱いとなるのでないか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

音楽は聴き手の内で作られる

2008年11月02日 | 道楽

 今日は私がファンであるクラリネット奏者 西川香代さんが出演するコンサートがあって大阪狭山市まで行ってきた。天下茶屋から南海高野線に乗って「サヤマ~」という車内アナウンスで飛び降りたら何か雰囲気が違う感じ。出口に向かって歩きかけたら掲示が目に入った。会場のSAYAKAホールは次に「大阪狭山市」で降りてくださいとのこと、こんな掲示があるということは結構間違う人が多いに相違ない。


平成20年さやま芸術祭
 “あにまる・お~けすとら”の動物の謝肉祭


 というのが演奏会の名称で出演者はグループで演奏活動しているので見知った人が多く、親しく演奏を楽しめた。


 ところで、音楽というものは演奏者の上手下手を問題にされるが、じつは聴き手が問題なのである。演奏者というものは切れ切れの音を出しているに過ぎない。それをメロディーに仕上げるのは聴き手なのである。


 たとえば演奏者がド・レ・ミと音出ししたとする。ドと音を出した時にはまだレもミもない。レの音が出た時にはドは消えミは出ていない。聴き手の耳に入って来るのはド・レ・ミと音が順に入ってくるだけである。それではメロディーにならない。メロディーになるにはミと聞いた時にドとレが聴覚器官で保持されド・レ・ミと認識してメロディとなるのである。


 聴き手の側で音を記憶しそれによって音をつなげ音楽とする。  聴き手のこの作業がなければいかなる名手の名演奏も名演奏とはならないのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

優先席眠りこけてる若者よ

2008年11月01日 | 共生

ダ萓別欧蠅海韻討觴禺圓br>
 現在会員となっている退職者の会の会誌10月号に掲載された川柳である。
 近頃電車やバスでこんな風景をよく見かける。起きていても年寄りとおぼしき人が前に立っても知らん顔の若者も結構いる。注意しても恐縮するどころか、逆切れした顔でこちらを睨みつける。


 後で因縁つけられても困るから、つい注意を躊躇する。何せ子どもの自分から喧嘩弱いのである。


 で、私が以前から実行している方法は、乗り物に乗り込んで空いた座席があればその席を確保し坐る。電車やバスは事故を起こす場合もあるし急ブレーキで将棋倒しなんてこともあるから立っているより坐っている方がずっと安全なのであるから、坐れるものなら坐るべきである。


 その上で坐れなかったお年寄りや妊婦さんなんかを見かけたら席を代わってあげるのである。座席を必要とする人のために座席を確保する、自分が今坐っているのは席取りのためと考えれば簡単に席を譲ることができる。


 仏教では布施を重要な徳目としているが、お金がなくてもできる7つの布施を無財の七施をいい、その一つ、席を譲るのを床座施という。座席だけなく地位や名誉を譲るのもこれに当る。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする