2月朔日(ついたち)の言葉は漢詩からとった
「春は枝頭(しとう)にあってすでに充分(じゅうぶん)」です。
中国宋の時代の詩人「載益(たいえき)」という人の詩に次のようなものがあります。
探春(春を探る)
尽日(じんじつ) 春を訪ねて 春を見ず
(一日中春を訪ね歩いたが、春らしい風景を見る事ができない。)
杖黎(じょうれい) 踏破(とうは)す 幾重(いくえ)の雲
(杖をつき幾重にも重なる雲を見ながら歩き回ったが、徒労に終わった)
帰り来たりて 試(こころ)みに 梅梢(ばいしょう)を把(と)ってみれば
(家に帰って何気なしに梅の枝をとってみると)
春は 枝頭(しとう)に在って すでに 充分(じゅうぶん)
(いつの間にかつぼみもふくらみ、春の訪れを知らせている)
「春」を「幸せ」や「生きがい」に替えて読んでみると作者の言いたいことが伝わってきます。
すなわち幸せや生きがいは何か遠くにあるものではなく
「枝頭にあってすでに充分」日常の生活の中にあるものなのです。
人もうらやむような立派な家に住んでいても争いの絶えない家庭があると思えば、
小さな家に住んでいても、年中笑いの絶えない家もあります。
そこに住んでいる人の気持ちの持ちようで、幸せにも不幸せにもなるのです。
長引く「コロナ禍」で心も沈みがちですが、身近のところに楽しみや幸せを見つけて、前向きに生きていきましょう。
心が変われば、見える景色も変わってきます。
そうすれば、毎日が「立春大吉」心の中はいつも春でいっぱいになる事でしょう。
「春は枝頭(しとう)にあってすでに充分(じゅうぶん)」です。
中国宋の時代の詩人「載益(たいえき)」という人の詩に次のようなものがあります。
探春(春を探る)
尽日(じんじつ) 春を訪ねて 春を見ず
(一日中春を訪ね歩いたが、春らしい風景を見る事ができない。)
杖黎(じょうれい) 踏破(とうは)す 幾重(いくえ)の雲
(杖をつき幾重にも重なる雲を見ながら歩き回ったが、徒労に終わった)
帰り来たりて 試(こころ)みに 梅梢(ばいしょう)を把(と)ってみれば
(家に帰って何気なしに梅の枝をとってみると)
春は 枝頭(しとう)に在って すでに 充分(じゅうぶん)
(いつの間にかつぼみもふくらみ、春の訪れを知らせている)
「春」を「幸せ」や「生きがい」に替えて読んでみると作者の言いたいことが伝わってきます。
すなわち幸せや生きがいは何か遠くにあるものではなく
「枝頭にあってすでに充分」日常の生活の中にあるものなのです。
人もうらやむような立派な家に住んでいても争いの絶えない家庭があると思えば、
小さな家に住んでいても、年中笑いの絶えない家もあります。
そこに住んでいる人の気持ちの持ちようで、幸せにも不幸せにもなるのです。
長引く「コロナ禍」で心も沈みがちですが、身近のところに楽しみや幸せを見つけて、前向きに生きていきましょう。
心が変われば、見える景色も変わってきます。
そうすれば、毎日が「立春大吉」心の中はいつも春でいっぱいになる事でしょう。
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