現代ビジネス6/13(火) 17:03配信
司祭の死後、日記で発覚
「カトリック司祭、日記から死後に児童性的虐待が発覚 ボリビア」
これは、世界三大通信社の一つであるAFP(フランス通信社)が、2023年5月25日付けでウェブ配信した記事の見出しである。
‘09年に癌で死亡した司祭の日記から、貧しい農村部の子供たちのために設立された寄宿学校において、4人の司祭が85人もの児童に性的虐待を繰り返し、上級聖職者は罪を知りながら沈黙していたというのである。
何ともおぞましい事件だが、実はカトリック教会の不祥事はこれにとどまらない。ここ2年あまりで、同じくAFPから以下の記事が配信された。
「米東部カトリック教会の児童虐待、60年で600人超が被害」(‘23年4月6日)
「仏検察、児童虐待で枢機卿を捜査 80年代に14歳少女が被害」(‘22年11月9日)
「ローマ教皇、カナダ先住民への「悪行」謝罪 寄宿学校虐待で」(‘22年7月26日)
「前教皇、児童虐待の対処怠る ドイツで調査報告書」(‘22年1月21日)
「カトリック教会の性的虐待被害者、70年間で21.6万人 仏調査報告」(‘21年10月5日)
今回事件が発覚したボリビアは、南米大陸のほぼ中央に位置するカトリック国で、脱宗教が進行するヨーロッパ諸国に比べれば、敬虔な信者が多い。そのボリビアとアメリカ、カナダ、フランス、ドイツでも同種の事件が発覚しているわけだ。
なぜ発覚が相次ぐのか
‘18年にはオーストラリアの首相が、教会や学校、スポーツクラブなど国内の施設で、過去数十年間、数万人の児童が性的虐待の被害に遇っていたことに対して公式謝罪を行っている。
ニュージーランドでも1950年からの70年余りの間に教会の司祭、男女修道会の会員、一般の信徒から虐待を受けたとの訴えが1680件にも上ることが明らかにされた。
アジア最大のカトリック国であるフィリピンでも、4歳の少女を性的虐待した神父が裁判にかけられ、教皇のお膝元であるバチカンの神学校内でも性的虐待の事実が明らかにされている。
これを見る限り、聖職者による主に児童を対象とした性的虐待は、カトリック文化圏のかなり広範囲に及ぶと言える。
聖職者による性的虐待は、ここ最近急激に増えたわけではない。それでも不祥事の発覚が相次いでいるのは、現在の266代教皇フランシスコが進める改革から生じた必然の成り行きだった。
聖職者による性的虐待はかねて問題視されていたが、歴代の教皇のなかで、それを優先課題とする者もいなければ、断固とした姿勢を示す者もいなかった。カトリック世界の秩序を崩壊させかねない、「パンドラの箱」と目されていたのだろう。
前教皇のベネディクト16世に至っては、大司教をしていたとき、側近による性的虐待を隠蔽したとの嫌疑をかけられている。
隠蔽の真偽はともかく、聖職者による性的虐待に関して、バチカンの教皇庁に両極端な二つの姿勢があったと考えられる。あくまで蓋をし続けるか、一気に膿を出し切るか。
フランシスコ教皇の改革
フランシスコ教皇はアルゼンチンの出身、史上初めての南米出身の教皇である。それだけにしがらみも少なかったのか、'13年に新たな教皇に選出されてからというもの、性的虐待の根絶と透明性の向上を図る取り組みを本格化させた。
こうしていざ始めてみると、何が解決の妨げになっているかが具体的にわかってきた。'19年5月に発せられた、性的虐待を把握した人に上司への通報を義務付ける教令は、その障壁を取り除く一環だった。
これに続いて、同年12月には、教皇庁から新たな方針が発表された。それまでの規定では、外交や個人的問題、犯罪容疑など、教会の統治に関わる機密性の高い情報を保護するためとして、全信者に守秘義務を課していた。
これでは被害に遇っても、性的虐待を目撃しても、カトリックの上級機関に訴えようがなかったのだ。たとえ警察に被害届を出したとしても、他に証言をしてくれる者がいなければ、起訴に持ち込むことも、裁判で勝訴することも難しい。それどころか、誣告(ぶこく)をしたとして、村八分のような扱いを受ける恐れがあった。
このような事情があるため、性的虐待を守秘義務の対象から除外するとの新方針は、画期的だった。教皇自身も同月17日に発した声明で、性的虐待に関する「告発、裁判、決定」には守秘義務を適用させないよう指示。
虐待事件に関して、「通報者、被害に遭ったと訴える人、目撃者は、いかなる守秘義務にも縛られてはならない」との方針を文書に明記させた。
次なる一手が打たれたのは'21年のこと。フランシスコ教皇は性的虐待の罪を犯した聖職者をカトリック教会独自で処罰できるよう、教会法の改正を行い、その目的を「正義の回復と加害者の更生、そして汚名をそそぐこと」と説明。改正法は同年12月に施行された。
カトリック教会に限った話ではない
つまり、教皇と教皇庁からお墨付きを得たことで、世界各地の大司教区で被害の実態調査が進められ、多くの被害者たちが沈黙を破ったわけだ。
実際のところ、フランシスコ教皇自身は、相次ぐ不祥事の発覚に驚きはしておらず、期待通りの展開と受け止めているのではないだろうか。カトリック教会に自浄作用があることを世界に示すには、衆目を集めることも重要だからだ。
それにしても、カトリックの信者でなければ、帰依する宗教さえ持たない身からすれば、やはり聖職者による性的虐待と件数の多さは異常であり、罪を犯した聖職者個人の性癖という説明だけでは、素直に納得ができかねる。
この点に関しては、『教皇庁の闇の奥』(ピーター・デ・ローザ著、遠藤利国訳)という著作がヒントになるかもしれない。著者はカトリックのエリート・コースを歩みながら、聖職を捨てた人物である。
同書では、道を外す聖職者が多い原因として、聖職者の独身性に無理があるとしている。個人の意志で独身を貫くのは立派な選択だが、それを制度化したこと、叙階(聖職者に品級を授けること)を受ける際の必須条件としたことは自然の理に反し、独身は通しても貞節は重んじず、乱行に明け暮れる、名ばかりの聖職者を生み出したというのである。
この説が的を射たものかどうか、にわかに判断はできないが、子供たちにとっていちばん危険な場所が教会で、いちばん危険な人物が聖職者という状況は、やはりおかしい。
しかも、これはカトリック教会に限った話でなければ、宗教に限った話でもない。組織の体面を守るために隠蔽を重ねる行為は罪の上塗りにすぎず、歴史の審判に委ねるなどという誤魔化しを許していては、世の中は悪くなるばかりではなかろうか。
島崎 晋(歴史作家)
https://news.yahoo.co.jp/articles/67c57c3312c1f66ecaf7ef0fb348d886556d24c9?page=1