10年ちょっと前、私は、blogではなく、HPをやっていました。
そこには、おりおりに、エッセイを綴っていました。
なんで急に、こんなことを思い出したかというと、原稿に向かいながら、バッハの「マタイ受難曲」を聴いていたからです。
とつぜん、わたしは書棚から、長田弘の『深呼吸の必要』をだしました。
↓は、2004年、ホームページの「エッセイ」のコーナーに書いたものです。
無料のHPだったので、知らない間に消えていました。
大切に書いていた、エッセイもすべて消えていました。
でも、なぜかこれだけが、メモに残っていました。
写真は、昨日の、朝焼け。
活力がみなぎってきます。
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年暮るる
2004 年も、あとわずかで暮れていく。
北風の強い晴れた日は、遠くの景色までよく見える。
2004 年も、あとわずかで暮れていく。
北風の強い晴れた日は、遠くの景色までよく見える。
雪をかぶった富士山、丹沢の山々、秩父連山、群馬の山々、レインボーブリッジ、東京タワー、空高くのびる、遠くの高層ビル群。
それらに、きーんと澄みきった冷たい風が吹きつけ、落日があたっている。
ある詩人が、12月は、ひとり静かにバッハを聴くと書いていた。
ベートーベンではなくて、バッハ。
「ひとをけっして孤独にしない、それがバッハ」そう書いている。
風の冷たい、陽のかたむきかけた夕暮れ。
「ひとをけっして孤独にしない、それがバッハ」そう書いている。
風の冷たい、陽のかたむきかけた夕暮れ。
窓の外のそんな景色を見ながら、私はバッハを聴いている。
バッハの「マタイ受難曲」を聴いていると、暮れの慌ただしさを忘れ、心が静かになる。
バッハの「マタイ受難曲」を聴いていると、暮れの慌ただしさを忘れ、心が静かになる。
音楽がこんなにも豊かで、あたたかなものであったかということを、しみじみと思わせてくれる。
その詩人、長田弘は『深呼吸の必要』に、こうも書いている。
「音楽を聴くのは、胸中に、三本の小さなローソクをともすためです。一本は、じぶんに話しかけるために。一本は、他の人に話しかけるために。そして残る一本は、死者のために」
暮れゆく年に、亡き義父と父、そして、急逝した我が友に感謝をささげながら、私はこうしてバッハを聴いている。
その詩人、長田弘は『深呼吸の必要』に、こうも書いている。
「音楽を聴くのは、胸中に、三本の小さなローソクをともすためです。一本は、じぶんに話しかけるために。一本は、他の人に話しかけるために。そして残る一本は、死者のために」
暮れゆく年に、亡き義父と父、そして、急逝した我が友に感謝をささげながら、私はこうしてバッハを聴いている。