20階の窓辺から

児童文学作家 加藤純子のblog
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年暮るる

2015年12月29日 | Weblog
             
 10年ちょっと前、私は、blogではなく、HPをやっていました。
 そこには、おりおりに、エッセイを綴っていました。
 
 なんで急に、こんなことを思い出したかというと、原稿に向かいながら、バッハの「マタイ受難曲」を聴いていたからです。
 とつぜん、わたしは書棚から、長田弘の『深呼吸の必要』をだしました。
 
 ↓は、2004年、ホームページの「エッセイ」のコーナーに書いたものです。
 無料のHPだったので、知らない間に消えていました。
 大切に書いていた、エッセイもすべて消えていました。
 でも、なぜかこれだけが、メモに残っていました。
 
 写真は、昨日の、朝焼け。
 活力がみなぎってきます。
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    年暮るる

 2004 年も、あとわずかで暮れていく。
 北風の強い晴れた日は、遠くの景色までよく見える。
 雪をかぶった富士山、丹沢の山々、秩父連山、群馬の山々、レインボーブリッジ、東京タワー、空高くのびる、遠くの高層ビル群。
 それらに、きーんと澄みきった冷たい風が吹きつけ、落日があたっている。
 
 ある詩人が、12月は、ひとり静かにバッハを聴くと書いていた。
 ベートーベンではなくて、バッハ。
「ひとをけっして孤独にしない、それがバッハ」そう書いている。 
 風の冷たい、陽のかたむきかけた夕暮れ。
 窓の外のそんな景色を見ながら、私はバッハを聴いている。
 バッハの「マタイ受難曲」を聴いていると、暮れの慌ただしさを忘れ、心が静かになる。
 音楽がこんなにも豊かで、あたたかなものであったかということを、しみじみと思わせてくれる。

 その詩人、長田弘は『深呼吸の必要』に、こうも書いている。
「音楽を聴くのは、胸中に、三本の小さなローソクをともすためです。一本は、じぶんに話しかけるために。一本は、他の人に話しかけるために。そして残る一本は、死者のために」

 暮れゆく年に、亡き義父と父、そして、急逝した我が友に感謝をささげながら、私はこうしてバッハを聴いている。
コメント
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