金曜日の武蔵野吟行は、夏至で梅雨入り。
でも、とても素敵で、楽しい1日でした。
これをお読みになって、俳句を作るのって楽しそう。と思っていただけたら、嬉しいです。
前日は、「晴れ」と言っていたのが、夜から「雨」に変わり、慌てて、カーブスに着ていくチュニックとレギンスで、雨に濡れてもいいようなファッションに変更。
バッグは、事前に、生協で、布製で、なんでも入るような千円くらいのを買っておきました。
これなら、いろいろ入れても重くありません。
当日は、大雨。
電車に乗って「お茶の水」あたりから、窓の外は白く、雨粒が車窓にいっぱい。ゆったり、ゆったりと中央線に揺られて「西国分寺」までいきました。
すごく早く着いたのに、もう、お仲間で、当日のお世話をしてくださった、句友のお二人が、待っていてくださってびっくり。
「この雨でしょ。コースを変更しようと、二人で話していたのよ」と。
お二人は、偶然にも徒歩3分くらいのお近くにお住まいで、町会もご一緒の仲良しさん。
「じゃあ、お二人のお家拝見がしたい」と言ったら、「お掃除してこなかったから」と。
お二人とも豪邸だそうです。
少しづつお仲間が集まってきて、「国分寺に行き、そこの殿ケ谷戸庭園を吟行で歩きましょうか?」と、お二人が。
それが大正解。
大雨にも降られず、駅からすぐの、その庭園を散策。
お茶室では、みんな、青紅葉の美しさを堪能しながら、俳句を捻り出しています。
雨に洗われた木々は、美しく、みずみずしく、素敵でした。
次には、歩いてすぐのところにある「北海道」という居酒屋へ。
美味しいお料理に舌鼓を打ちながら、飲み放題。
すぐに俳句作り。
宗匠が用意してくださった紙に自分の俳句を書いていきます。
リアルに集まっての句会は、やはり面白いです。
ご都合がつかれ、ご参加された10名のみなさんに、お心遣い、お気遣いしてくださる地元在住の作家のお二人に、感動しながら、どんどん酔いが回ります。
(飲んでない私が、匂いに酔って、一番酔っ払っていました)
みんな、勝手なことを言い合い・・・選句をしました。
「え〜、自分の句を天に入れたい」と言ったら、
「入れてもいいよ。みんなに、わかっちゃうんだから」と、みんなにからかわれ・・・。
結局、入れませんでしたが・・・。
友情句も作っていただき、リアルだからこそわかる、お互いの息遣い。
「好きだよね、この季語」と、宗匠が私に。長いお付き合い。私の心理などバレバレです。
「バレてるのなら、点を入れてよ」と、脅迫し・・・。
思い切り飲んで、思い切りしゃべって、思い切り笑って、新提案の宗匠の言葉も半分しか聞かず、怒られ、(大丈夫。ちゃんとデスクトップに出して、準備してありました)
また、お楽しみが増えました。
どんなものができるでしょうか。
天も何もいただけず、わずかに何点が入っただけの、私の句。
ご紹介しちゃいます。(心臓に毛が生えている、と、どなたかに言われそう)
俳句とは「侘び寂び、枯淡の境地を形式で紡ぐ」と言った視点からちょっと離れた、この句会。
そこが面白いところです。
萩原朔太郎が『郷愁の詩人 与謝蕪村』(岩波書店)で、何度もこう書いています。
「俳句のリリシズム・俳句が叙事詩であることの本義」
我が句会の宗匠は、こんな句をへっちゃらで作ります。
「海鼠の日石川くんの歯が抜けた」
どうです?
飄々としていますが、本質はリリシズムです。
そしてさらに、宗匠はこう書きます。
「心の底を叩いてみると、どこか悲しい音がする。その悲しみも少しづつ薄れてくるように思う。あるがままに生きる。それが老人の特性だ」
こうした視点の上での、俳句的リリシズム。
この句会の、面白さの原点です。
あるがままに生きる。
だから、平気で「自分の句を天に入れちゃおうかな」なんて図々しいことが言えるのです。
・夏暖簾ざわめく木々に雨の降る
・かく降るる卯の花くたし武蔵野道
・ペタペタと足音ならし夏野ゆく
え?小学生レベルだって?
はい、その通りでございます。まだまだ、まだまだです。
帰りは、「特快は、ひと月に一本くらいしか走らない」(ジモティのAさん曰く。みんな、酔っていて、何が何だか・・・笑。「あ、1時間に3本くらいだった」と・笑)
その1時間に3本の中央特快が、ホームに降りたら、ジャストタイムに来ました。
女3人、それに乗って
「やっぱり早いわね」と、おしゃべりしながら、ピューんと、帰路につきました。
強者男性陣は、さらに二次会へ。
「飲んだことのない日本酒が飲めた」なんて、翌日、全員メールに届いていたりして・・・。
みなさん、次の吟行を今から心待ちに・・・。
楽しかったです。
ありがとう、ふくねさん、てんまりさん!!