折にふれて

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ある陶工、百年の系譜    その一

2019-01-14 | 自分史・家族史

その陶工が世を去って百年が経った。


九谷焼が、石川県南部の、今は加賀市に併合された山あいの地、九谷村で起ったのは1650年頃と伝えられる。

加賀前田家の支藩である大聖寺藩が、当時、姻戚関係に合った佐賀鍋島藩の有田に藩士を遣わし、

有田焼の技法を学ばせ、殖産政策のひとつとしたことがその始まりだった。

しかし、九谷という名が示す通り、その地はいくつもの山や谷が折り重なる辺境の地、

ましてや冬ともなると、豪雪で人の行き来すらも滞ってしまう。

そのせいか、わずか50年ほどで九谷焼はすたり、

以来、その技法はもちろん、その地すらも忘れ去られ、「古九谷」というわずかな作品の記憶を残すだけとなる。

ところが、それから一世紀余り後、九谷焼を復興させようとの動きが加賀地方各地で起り、

その動きのひとつとして、大聖寺の豪商、吉田屋伝右衛門がふたたび九谷の地に窯を開いた。

これが再興九谷、吉田屋窯の始まりである。

吉田屋窯は、江戸後期の名窯としてよく知られ、世に数多くの名品を送り出している。

だが、その厳しい自然環境がまたしても経営に影を落とし、

開窯から二年後に山代の地(加賀市山代温泉)へと窯を移したが、

その衰退を止めることができず、紆余曲折の末、大聖寺藩がその経営を引き取ることとなった。

藩はその管理を、藩士、藤懸八十城(ふじかけやそき)らにあたらせるとともに、

京の名工、永楽和全を招へいするなど、技巧向上の指導と後継者の育成に、藩をあげて取り組んだのだった。

 


  永楽和全作 金襴手鳳凰図向付

 

さて、その陶工、清七の話である。 

当時の九谷焼は「古九谷」以来の青手と呼ばれる技法が主流で、

これは、加賀五彩(緑、黄、紫、紺青、赤)のうち、主に、赤をのぞく四色を重厚に塗り固めた大胆な構図が特長だった。

その芸術的価値は広く認められるところで、現代の九谷焼の技法としても引き継がれているが、

それはまた、当時の九谷焼の弱点を補う技法でもあったともいわれる。

その弱点とは焼物そのものの素地の粗さで、

もともとは、窯の構造や焼き方などは有田焼に学んだものの、

その出来栄えは、どうしても有田焼には及ばなかった。

おそらくは気候の違いが大きく影響していたものと思われるが、

当時としては、その出来栄えを埋める知見が不足していたのだろう。

永楽和全はまず素地の改良に取り組み、その弟子としたのが、若き陶工、清七だった。

和全は清七を有田へ留学させることで、素地の研究にあたらせようとしたのだが、それには大きな障害があった。

身分の低い清七には、留学はおろか、学問をさせることさえ許されなかったのだ。

ところが、そこへ助けの手を差し延べたのが、藩吏、藤懸八十城だった。

藤掛は清七を養子とし、武士の身分を与えた上で、有田へと送り出したのである。

かくして、九谷焼の素地は改良され、清七ら陶工の手によって、

「赤絵」や「金襴手」と呼ばれる精緻で繊細な作品が作りだされることとなり、

その窯は九谷本窯と呼ばれるようになった。


 清七作 銀欄手茶器

 

 ... この稿、続く。

 



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※ 作品の写真は、九谷焼窯跡展示館(石川県加賀市)で開催された企画展「寿楽窯今昔」に展示されていたもので、

  撮影制限のかかっていないものです。

※ 参考文献

  九谷の文様    中田喜明 著   京都書院

  和全九谷の華   中田喜明 著   中田康成・向陽書房

 

 

 

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