全体として元気に見えるけど…ちょっとしおれたコスモスも(-_-;)
いいや、出しちゃえ!
ということで、「元気にコスモス!」第2段!
ピンボケだけど出しちゃえ!
ついでに、「シロ飛び」も行っちゃえ!
そんなこんなで… 在庫、大放出の巻でした(*^^)v
全体として元気に見えるけど…ちょっとしおれたコスモスも(-_-;)
いいや、出しちゃえ!
ということで、「元気にコスモス!」第2段!
ピンボケだけど出しちゃえ!
ついでに、「シロ飛び」も行っちゃえ!
そんなこんなで… 在庫、大放出の巻でした(*^^)v
のと鉄道 能登鹿島駅
能登半島、海のほとりの無人駅です
ふだんはひっそりとして、木漏れ陽が美しい駅
でも、春になって、ホームに沿って植えられたソメイヨシノが一斉に開花すると
まるで桜のトンネルの中にいるかのよう
この時ばかりは、鉄道ファンがどっと押し寄せます
さあ、1時間に1本の列車がタイミングよく入ってきました
小学生低学年の頃、夏休みになると能登にあった母方の実家によく預けられたのですが
そのときに金沢駅から姉と二人で乗せられたのがこの路線
こども旅の心細さも初めのうちだけ、
車窓に能登の海が見えだすと
姉と大はしゃぎした想い出があります
当時はまだ国鉄でしたが、今は三セクによる運営
払い下げ直後は、三セクのモデル路線と言われたこともあったそうですが
残念ながら、現在の経営はかなり厳しいとのこと
でも、なんとかこの風景は残して欲しいものですね
駅舎の前にあったポスト、こんな風景にも懐かしさを感じました。
毎月11日は「鉄写同好会」の日
詳しくは発起人てくっぺさんのブログ「高橋さんの写真記念館」をご覧ください
そうそう!
北陸新幹線の名前、決まりました!
「かがやき」、「はくたか」、「つるぎ」 だそうです
「けんろく」、「ひゃくまんごく」、「かが」、「はくさん」、「まえだ」、「まつ」、「としいえ」、「いぬちよ」・・・全部ダメでした
今月初めての空倶楽部
お決まりのお題の日 、「鉄塔のある空」です
これ田舎に住んでるものにはけっこう難しいのです
そんなわけで、前にも一度だしたけど
風力発電機(…調べたら、鉄でできてました)
福井県あわら市
海を見下ろす丘陵地帯にある10基の発電機
「あわら夢ぐるま」です
のどかな田園風景から見え隠れする海と広い空
なかなかいいところなんだな
9のつく日は空倶楽部の日
當麻寺の本堂
ここの本尊は「當麻寺曼荼羅(まんだら)」
浄土を描いた絵図と理解して下さい
平安末期に始まった末法思想の世相の中で
「當麻寺へ行けば、お浄土が拝める」と、この御本尊はたいそうな人気だったそうです
イマ風に表現するなら、浄土バーチャル体験!
ちなみに、いま本堂にあるのは鎌倉時代に作られたとされるレプリカ ...それでも重要文化財です
白鳳時代に作られたとされる本物は封印、当然ながらこれは国宝だそうです
本物を見た従兄弟が言っていたことですが、
まるで絨毯の様、当時の日本に作れるはずもない
また、絨毯といえばペルシャ
日本でないどこかで作られたものが、シルクロードを通って持ち込まれたのでは …そんな仮説が思い浮かびます
さて、本堂と講堂の不思議の話
當麻寺境内図 を参照していただくとその位置関係がよくわかります
通常ですと、南に門があって、東西の塔の真ん中を通り、金堂(本堂)、講堂という配置となります
これまでの説明の通り、南門がない以外は當麻寺もこの配置
そして、金堂の中には、弥勒仏座像(白鳳時代:国宝)と四天王像(白鳳時代:重要文化財)が安置されています
この仏像群だけでも、じゅうぶんに本尊と成りえるものですが
當麻寺境内図をあらためて見ると
わざわざ、東側に東大門を設けて、曼荼羅堂と呼ばれる建物に直線的な導線ができています
この曼荼羅堂に本尊の當麻曼荼羅が安置されている・・・すなわち本堂ということになります
ここで本堂が二つある(曼荼羅堂、金堂)不思議の謎解きです
おそらくは曼荼羅堂と東大門は創建からずいぶん後にできたものと推測されます
目的は、末法思想が世に広まる平安末期以降、浄土を現す當麻曼荼羅を本尊に仕立てたかった
ここで本尊のくら替えがおこった、つまり、拝観者確保のためのしたたかな経済感覚から、
本尊を仏像群から曼荼羅に変更した
そして、それに合わせて、今の建物と導線が作られたと考えられるわけです
さらに、時代が下った鎌倉時代
中の坊には大和三庭に数えられる庭と茶室が作られます
中世、歴史の表舞台に立ち始めた武士階級
武士たちの間でブームが巻き起こった「茶のたしなみ」を巧みに利用することで
パトロンとして取り込もうとしたのではなかったでしょうか
創建こそ法隆寺と肩を並べるくらい古いにもかかわらず、メジャーにはなれなかった當麻寺
それゆえに、あの手この手で時代を乗り切ろうとした
そんなたくましい経営感覚をこの寺は脈々と持っていたようです
そんなことをツユとも感じさせない静かな境内
私にとっては、この佇まいと時代をしたたかに乗り切ってきた人間臭さのギャップがたまらない魅力なのです
私説 當麻寺縁起 おしまい
※その二にも記しましたが、記載した内容は
あくまでも、當麻寺をこよなく愛する私と私の従兄の私説であり、
史実に基づくものではありません
當麻寺境内 講堂(右)と本堂(奥)
さて、昨日の続き
...なぜ、塔の先端が八輪なのか
...なぜ、南門がないのか
もし、當麻寺が葬送を目的として建立されたとすればその理由が説明できます
古代、皇族や身分の高い人を葬るときに「殯(もがり)」という習慣がありました
殯とは、死者を本葬する前の仮安置を意味しますが、死者に対する悲しみ、畏れ(おそれ)などが癒えるまで、長期間にわたることもあったようです
この葛城付近は高貴な人を葬るところに近かったわけですから、殯を行う場所が必要だったはず
つまり、當麻寺で殯をした後、竹内街道を葬送し、河内飛鳥に葬った...と考えるなら
塔に陰の数字を込めたことや
遺体を送りだすのに立派な南門など必要なかったこととつじつまが合います
あくまでも私説です
それも、私ではなく、奈良在住で歴史家だった従兄弟の説です
従兄弟は若い時に奈良を放浪し、落ち着いた先がこの當麻寺だったそうです
それ以来、當麻寺中の坊の住職さんとの親交が始まったと聞いています
残念ながら、その従兄弟も5年前に亡くなり、今は當麻寺の境内の一隅にあるお墓で静かに眠っています
さて...
もうひとつの不思議、本堂と金堂の話は次回あらためて
少しですが
境内の木々の紅葉が始まっていました
當麻寺 ・・・境内から東塔(国宝)を眺める
創建は612年、聖徳太子の異母弟、麻呂古王による...とありますが、はっきりしたことはわかっていません
ただ、法隆寺などと同じ時期、飛鳥時代の建立ですから、知名度はともかく、たいへんな古刹、境内は国宝、重文の宝庫です
縁起がしっかりしているはずのお寺で、創建が不明という話も不思議なことですが、
お寺に詳しい方が訪れたなら、さらにこの寺の不思議に気づくはずです
當麻寺の所在地、葛城は飛鳥の西の果て
古代飛鳥の人々は當麻寺の後ろにそびえる二上山を超えたところには西方浄土があると信じていました
二上山の向こうはいわゆる河内飛鳥(大阪府)で
そこには聖徳太子や叔母の推古天皇など飛鳥時代のたくさんの皇族の墓があります
つまり、当時の皇族たちは西方浄土に一番近いところに葬られているわけです
実は、これが當麻寺の不思議を解明する上でとっても大事
この話を覚えておいていただいて、あらためて當麻寺の写真を!
塔の上に立つ丸い輪っか、九つあるから「九輪」と言いますが...よく見ると、當麻寺の塔の輪っかは八つしかない
昔の人たちは数字に陰陽を込めていて、奇数が陽、偶数を陰としていました
七五三、三三九度、三が日...と言われるよう、奇数はおめでたいことに使われ、すなわち陽とされたわけです
それでは當麻寺は塔になぜ陰の数字を込めたか...これが大きな不思議のひとつです
二つ目の不思議
それは伽藍配置です
東西の塔があって、金堂、講堂とならぶ伽藍配置 ...おなじ伽藍配置を持つメジャーな寺にちなんで「薬師寺式」と呼ばれたりもしますが
この薬師寺方式に限らず、ほとんどの寺にあって、當麻寺にないもの
・・・それは南門です(大きさによっては南大門と言われたりもします)
南門があるはずの場所からは最古の官道(いわゆる国道です)と言われた竹内(たけのうち)街道が始まります
飛鳥から堺へと続くこの道、シルクロードの起点として重要な役割を持っていたといわれます
これだけの伽藍を持つ寺がなぜ官道に向けて南大門を作らなかったのか
ちょっと、長くなりそうなので、その謎解きは次回へ
...ということで
金堂越しに見る本堂
・・・・じつは、これも変な話なんです。
通常は金堂と本堂は同じもの...なんで二つあるの?
その謎もこんど? ・・・シャレじゃありません(^^;)
弘法大師こと空海が開いたという室生寺
高野山と異なり、古くから女性にも参拝を許したことから
女人高野とも呼ばれるそうです
山の中腹を切り開いて建てられたお寺
この山門を抜けると...
石段・・・
そして、まだ石段...
極めつけは奥院に続く...この気の遠くなるような石段
ここだけでおそらくは300段以上はあったと思います
真言密教、修行のために建立されたとはいえ
車社会にどっぷり浸かった中年サラリーマンにとっては
お参りだけでも荒行そのもの
それにしても、なんて、縦構図の似合うお寺でしょう!
ところで、金剛峯寺にしても、この室生寺にしても
人里離れたところ、しかも山を切り開いて建てられている
ここまでしなくても、お寺用地なんてどこにもあったはず...
そんな疑問がふつふつと湧いてくるわけですが・・・
空海さん、お寺用地を探す別の目的があったという説があるそうです
水銀の鉱脈探し
これが最大の理由とか
当時、水銀は不老不死の薬と信じられていたようで (実はたいへんな猛毒です)
これがたいへんなお金になった
空海さん、唐で修業した高僧ということになっていますが
元々は四国の出身で、そう身分の高いお坊さんではなかった
ところが、水銀の鉱脈探しに優れた知識を持っていて
いわゆるひと山あてたお金で、唐へ私費留学果たし
歴史に残る高僧として名を残したという...
うそかほんとか知りませんが、そんな説もあるそうです
というウンチクは横に置いといて
縦構図で首が痛くなったところで
ようやくの横構図...このお寺では山門とこの写真くらいのものです
夏を思わせる暑い日でしたが
木々の間からこぼれる陽ざしは秋のそのものでした