MJHA(日本を再び健康な国に)〜東洋医学の実践的理論研究~

MJHA(日本を再び健康な国に)という志で、食・運動(姿勢)・休息(睡眠)に関わる問題等を論理的に説きます。

学校の先生のアタマの中身〜受験勉強的と資格試験勉強的〜

2017-04-07 13:44:51 | 覚え書
鍼灸学校の先生方は国試勉強をいかに捉えているのだろうか?(高校、大学の)受験勉強のありかたを横滑りさせたものなのではないのだろうか?

アリストテレスならば国試勉強をいかに捉えるのだろうか?と『古代ギリシャ哲学、その学び方への招待』(悠季真理著 『学城 第9号』所収 現代社)で説かれているアリストテレスのアタマの働きの過程的構造を読み返している。

そこで思ったことは、鍼灸学校の先生方は「国試勉強」というものを、どのように考えてどのような結論に至ったのだろうか?ということである。

進学校を出られた優秀な先生方がおられると聞いているのであるが、もしかしたら国試=資格試験を(高校、大学の)受験勉強そのものと捉えての、では無いだろうか?と危惧する。

人間というものは、確たる方法論、その学びがなければ、つまり自然成長的にアタマを働かすならば、それぞれに自身の過去の成功した失敗したという経験からの、無媒介的にその経験を横滑りさせての実践になっていく、とは『弁証法はどういう科学か』(三浦つとむ著 講談社)にも述べられていること(そのような言語表現は使われてはいないが……)であるが、そのままの国試勉強=受験勉強としてしまっている現実があるのではないのだろうかと思える。

本来ならば、国試=資格試験であるだけに、基準点というものがあっての試験であるだけに、本質的には他を蹴落とすために一点でも多くとることに無限の努力を求められる(高校、大学の)受験勉強とは違うものになっていってもいいはずなのに、例えば、将来的に鍼灸師としてたっていくための基本となる知識と論理を自身の実力とするための学び、としていくこと等のことも可能であるはずなのに……。
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