脈診の意義を考えると原点を問うことの大事性痛感する。
今週はじめの鍼灸実技の授業で酒井先生より「脈診不要論」をうかがった。酒井先生の説かれていることについては、自身の理解が未だ浅いと思えるので改めて説きたいが、端的には、「脈診とは証を立てる方法の一つであるのに、多くの経絡治療家と称する人々は脈診で証を立てるのが経絡治療であるとしてしまっている。極論すれば脈診あっての経絡治療としてしまっている。が、実際には脈診が一番あてにならないし、百人いれば百通りの証の立てかたになってしまうのが脈診の現実であるから、脈診は捨てるべきものである。」と捉えている。
酒井先生の「脈診不要論」を知って、思ったことは、自身の脈診の捉えかたの不充分さである。自身の脈診の捉えかたは、脈診を肯定するにせよ否定するにせよ、脈診に効果があるのか否かという問いかけである、でしかない。
それに対して、酒井先生の捉えかたは、そもそも脈診は何のためにあるのか、鍼灸治療全体から見ての脈診の役割は何なのかであり、それは鍼灸を学ぶ上での、指導する上での脈診とは何なのか、ということでもある。と思える。
この酒井先生の脈診の捉えかたは、酒井先生の一つのもの、確かなものを求めるゆえであり、それは酒井先生が教育者、指導者としての数十年の経歴を持っておられるがゆえの認識のスケールの大きさであり、単なる治療家にはわかりえない酒井先生の偉大性である、と思う。
それはさておき、自身でも酒井先生の「脈診不要論」に学び、そもそも脈診は何のために誕生させられたのか?と原点を問い、どのような変遷を経て、現代では鍼灸の治療体系の中でどのような意義を持っているのか、いないのか、持たせるべきなのか、持たせるべきで無いのかを、また鍼灸の上達体系の中でどのような意義を持っているのか、いないのか、持たせるべきなのか、持たせるべきで無いのかをも問わねばならないと思える。
脈診については、改めて説きたい。
今週はじめの鍼灸実技の授業で酒井先生より「脈診不要論」をうかがった。酒井先生の説かれていることについては、自身の理解が未だ浅いと思えるので改めて説きたいが、端的には、「脈診とは証を立てる方法の一つであるのに、多くの経絡治療家と称する人々は脈診で証を立てるのが経絡治療であるとしてしまっている。極論すれば脈診あっての経絡治療としてしまっている。が、実際には脈診が一番あてにならないし、百人いれば百通りの証の立てかたになってしまうのが脈診の現実であるから、脈診は捨てるべきものである。」と捉えている。
酒井先生の「脈診不要論」を知って、思ったことは、自身の脈診の捉えかたの不充分さである。自身の脈診の捉えかたは、脈診を肯定するにせよ否定するにせよ、脈診に効果があるのか否かという問いかけである、でしかない。
それに対して、酒井先生の捉えかたは、そもそも脈診は何のためにあるのか、鍼灸治療全体から見ての脈診の役割は何なのかであり、それは鍼灸を学ぶ上での、指導する上での脈診とは何なのか、ということでもある。と思える。
この酒井先生の脈診の捉えかたは、酒井先生の一つのもの、確かなものを求めるゆえであり、それは酒井先生が教育者、指導者としての数十年の経歴を持っておられるがゆえの認識のスケールの大きさであり、単なる治療家にはわかりえない酒井先生の偉大性である、と思う。
それはさておき、自身でも酒井先生の「脈診不要論」に学び、そもそも脈診は何のために誕生させられたのか?と原点を問い、どのような変遷を経て、現代では鍼灸の治療体系の中でどのような意義を持っているのか、いないのか、持たせるべきなのか、持たせるべきで無いのかを、また鍼灸の上達体系の中でどのような意義を持っているのか、いないのか、持たせるべきなのか、持たせるべきで無いのかをも問わねばならないと思える。
脈診については、改めて説きたい。