MJHA(日本を再び健康な国に)〜東洋医学の実践的理論研究~

MJHA(日本を再び健康な国に)という志で、食・運動(姿勢)・休息(睡眠)に関わる問題等を論理的に説きます。

弁証法が血肉と化すということのイメージ〜何重にもの量質転化の過程の必要性〜

2017-04-16 16:35:11 | 日記
本日は、鍼灸国家試験模擬試験があるので日曜日であるが昼のお弁当をつくった。いつもの朝よりも時間に余裕があったので、玄米に小さな煮干しを入れて動物由来の栄養が取れるようにと準備をはじめたのだが、動物とくれば植物となって牛蒡の笹掻きを入れ、根に対しては葉となってネギを入れ、これならいっそ「炊き込みご飯」にとなって冷蔵庫にあった蒟蒻を入れ酒と薄口醤油で味付けをして炊いた。

炊き上がった玄米を味見して、「あ〜キノコも入れれば良かった」となって……自身の行動を振り返ると、人間の行動というものは本当にその人なりのものなのだなあ、何をやるにしてもちょっと気を抜くとこの調子だものなあと我がことながらあきれてしまった。

さて、「弁証法が血肉と化す」ということ、端的には、人は何事を成すにしてもその人らしくということの、意図的かつシビアに創り上げたものである、のだと思う。

現実にはあり得ない譬え話をすると、ある治療院に手技の施術で度々、患者を骨折させるという施術者O先生がいたとする。そのかたは患者を骨折させたことを経営者から注意された時には落ち込んで見せるのだが、半日もしないうちにけろっとして何事も無かったがごとくに楽しくであり、そんなことを年に何度も繰り返す。

普通に考えるならばあり得ないことであるし、そのような方は医療に携わるべきでは無いと思える。それ以上に、その人のアタマの中はどうなっているのか、全く訳がわからない、となってしまう。

しかしながら、「患者を骨折させて、平気である。何度も繰り返す。」ということを、形而上学的(三浦つとむ)にみるから「全く訳がわからない」となってしまうのであり、弁証法的にそのことを捉え返してみるならば違った姿が視えてくる。弁証法的に視るとは、歴史的形態として視ることであり、全体として視ることである。

そのようにO先生の生い立ちから、日常の言動から、彼を視ると、「このかたは我慢するとか忍耐とかいうことや規則を守るということを学ばないままに、あろうことかそれを良しとして、子供的な認識のままに幸せ一杯に大人になったのだなあ」ということが視えてくるし、その結果としての、「何事も最後まできっちりと出来ない、日常生活レベルの規則を破ることが平気である、要するに何事も対象の構造に見合った形で最後まで頑張りきれない、その忍耐力がない」のだということが見て取れる。

それゆえの、度重なる「骨折という施術の失敗」なのだといえば、まともな師匠についてまともな修業を積んできた方ならば、そういうことか!?と納得いただけるであろうが、手技の施術に関わりのない方がブログ読者にはおられるであろうから、もう少し解説したい。

手技の施術において、強い刺激であるほどに効果が高いという場合が往往にしてある。そういう経験から、手技は強刺激が良いのだ!となってしまう治療家が多く存在するし、通常の治療家にも強刺激の誘惑は常に存在すると言って良いと思う。(特に、マッサージ・指圧等では)

何故ならば、強刺激によって患者の訴える症状を一発で治した時の快感は、その治ったことに対しての患者の、周囲の賞賛の眼差しと言葉とは、自身の自尊心を満足させてくれ、「本当にこの仕事を選んで良かった!」との思いにさせてくれるものであるのだから。

しかしながら、強刺激は一歩間違えば、逆に強い痛みを誘発したり、場合によっては骨折させたりの大きなリスクをも伴うものでもある。それゆえに、通常の治療家は施術の刺激量を効果とリスクとを秤にかけての施術を行うものであり、それだけに常に自身の施術を客観視しての、宮本武蔵のいう観見二つの眼を持っての、施術でなければならない。

これは例えば、時速300kmの速度が出るスーパーカーに乗るには、よほどの自制心が無ければ大事故に繋がりかねないということと同じだといえばイメージしていただけるであろうか?

施術においても、強刺激の施術を行うには同様の自制心が無ければならないのであり、常にここまでは大丈夫だろうか?少し強過ぎではないだろうか?と自問自答しながらの施術で無ければならない、少なくとも自身が強刺激の施術を行う時には常にそうである。

強刺激による施術とは、常にそのような葛藤、相克、矛盾を内に秘めての「ちょっと我慢してくださいね!」と言いながら施術であるのだから、当の施術者に、対象の構造に見合ったアタマが無ければ、患者と周囲の賞賛という誘惑に負けないだけの我慢するココロ、忍耐心が無ければ、いかなることになるかは……。

余りに譬え話が長くなり過ぎたので本題に戻って、「弁証法が血肉と化す」ということは、自身の料理の例に見る凝り性であったり、それ以上の譬え話のO先生の忍耐心の無さのレベルである、その人のアタマの働きが、その人なりに量質転化してしまっている結果として、意識しなくてもそう働くというだけでは無しに、そう働かないように意識してもそうとしか働かないというレベルにまでの強烈な量質転化なのではないのか?そこまでのレベルになっていくように意識的に弁証法を身につけることを行なっていってこそ弁証法ははじめて役に立つのではないのか?というのが、現在の自身の「弁証法が血肉と化す」のイメージである。「弁証法を血肉と化す」べく全力を尽くしていきたい。
今日のお弁当
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