是動病と所生病について学んだ。人類の認識の発展段階の学びの必要性痛感した。
昨日の東洋医学概論の授業で是動病と所生病について学んだ。「両者は基本的に同一のものなのだ。」と説いていただいたので、「同一 のものを何故、別のものとして説いているのか?」との質問をしたところ、「一般的には同じく経絡に関わる病を分けて、是動病といった場合は経絡上の病の問題であり、所生病といった場合には経絡と関連のある臓腑等の病の問題であるとしたものという意味で基本的に同一ということ。ただ、これらはしっかりと区別されているわけでは無いが。」と。また、「黄帝内経は一人の著書による著作ではなく、複数、いくつかの医学の流派の論文集であるから、同じことが様々に説かれたりするのだ。」とも説いていただいた。
説いていただいたこと、「そんなものなのか。」と思う反面、何か釈然としないというか、「事実としてはそのとおりなのかもしれないが・・・・・・・。」との思いがした。
その釈然としないという像の中味は何なのか、と言えば端的には、「古代中国という時代、社会に生きる人間の、そういう意味では人類の幼い発展段階の、認識=像の文章化である『黄帝内経』を、現代という時代、社会に生きる我々の認識=像の文章化と同じものとしている。」のでは?ということであった。
例えば、「黄帝内経は一人の著書による著作ではなく、複数、いくつかの医学の流派の論文集であるから、同じことが様々に説かれたりするのだ。」というのは、現代の『黄帝内経』に対しての定説であるようだが、書き写しで伝わるうちに、残っていない部分が後の時代に書き加えられることで、いくつかの時代の文体が混在する。ということもありうるだろうし、そもそも、古代中国という人類の認識の発展段階においては、まだ明確になっていないことを常に同じ説(解)きかたが出来るものだろうか?かえって、様々な部分で様々な説(解)きかたをしている方が自然なのでは無いか?等々、あれこれと思える。
しっかりと人類の認識の発展段階の学びをすることで、東洋医学のあらゆる問題が解けていくのでは?と思える。そのためにも、「育児の認識学」(海保静子著 現代社)の学びに挑まねば、と思う。
昨日の東洋医学概論の授業で是動病と所生病について学んだ。「両者は基本的に同一のものなのだ。」と説いていただいたので、「同一 のものを何故、別のものとして説いているのか?」との質問をしたところ、「一般的には同じく経絡に関わる病を分けて、是動病といった場合は経絡上の病の問題であり、所生病といった場合には経絡と関連のある臓腑等の病の問題であるとしたものという意味で基本的に同一ということ。ただ、これらはしっかりと区別されているわけでは無いが。」と。また、「黄帝内経は一人の著書による著作ではなく、複数、いくつかの医学の流派の論文集であるから、同じことが様々に説かれたりするのだ。」とも説いていただいた。
説いていただいたこと、「そんなものなのか。」と思う反面、何か釈然としないというか、「事実としてはそのとおりなのかもしれないが・・・・・・・。」との思いがした。
その釈然としないという像の中味は何なのか、と言えば端的には、「古代中国という時代、社会に生きる人間の、そういう意味では人類の幼い発展段階の、認識=像の文章化である『黄帝内経』を、現代という時代、社会に生きる我々の認識=像の文章化と同じものとしている。」のでは?ということであった。
例えば、「黄帝内経は一人の著書による著作ではなく、複数、いくつかの医学の流派の論文集であるから、同じことが様々に説かれたりするのだ。」というのは、現代の『黄帝内経』に対しての定説であるようだが、書き写しで伝わるうちに、残っていない部分が後の時代に書き加えられることで、いくつかの時代の文体が混在する。ということもありうるだろうし、そもそも、古代中国という人類の認識の発展段階においては、まだ明確になっていないことを常に同じ説(解)きかたが出来るものだろうか?かえって、様々な部分で様々な説(解)きかたをしている方が自然なのでは無いか?等々、あれこれと思える。
しっかりと人類の認識の発展段階の学びをすることで、東洋医学のあらゆる問題が解けていくのでは?と思える。そのためにも、「育児の認識学」(海保静子著 現代社)の学びに挑まねば、と思う。