ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

私の関西百山(付録?)

2014-10-15 08:38:26 | 私の関西百山
*牛松山に登ったときの山日記の末尾に【雑感】として、こんなことを書き残しています。読み返してみると、ちょっと面白いので加筆して写真とともにUPしました。*

【雑感】牛松山を「丹後のカイラス」といった人があると何かの本で知った。近辺の信仰を集める神の山の故だろうか。



頂上の金比羅神社に舟が奉納されていることで分かるように、昔は保津川は物資や人の重要な運送路であり、舟運に携わる人から尊崇されていたようだ。コンピラの語源はサンスクリット語のクンビーラである。宮毘羅(クビラ・十二神将)、金毘羅(コンピラ)はその漢訳で、ヒンズー教の神・クンビラがガンジス河のワニ神であることと関連がありそうである。



ワニはエジプトでもナイル川の神としてコム・オンボ神殿に祀られている。ここの御神体はワニのミイラで、おそらく力の象徴であるとともに水運の守り神として崇められたのであろう。牛松山の祭神である大物主命は、讃岐の金毘羅さんと同様、金毘羅と同一視されている。





たまたま、牛松山に登ったこの年(2009)の4月に大麻山(象頭山)に登った。登山口の金毘羅本宮にも数々の絵馬とともに、太平洋横断の堀江謙一のマーメイド号や最新のソーラー船まで奉納されていた。



そういえば大黒様が助けた因幡の白兎とワニの話を思い出す。



ネパールではクンビラはシェルパ民族の最も尊敬する神で、標高5673mのクンビラ山は聖なる山として登ることを許されない。私なら、牛松山はカイラスというより「丹波のクンビラ」と呼びたい。また…下山地点の国分にある愛宕神社は元愛宕と呼ばれ、愛宕山上の愛宕神社は和気清麻呂の請願でここから移されたという。ここも火伏せの神として軻遇突智<カグツチ>神(火産霊神)が祀られているが、他に伊邪那美神と大国主神が祀られている。継体天皇の時に神殿が建立されるまでは、山そのものがご神体であったらしい。



そう聞くと、また大物主(大国主)とゆかりの、これもご神体山である大和の三輪山を連想するのである。

私の関西百山(84) 牛松山

2014-10-06 06:00:00 | 私の関西百山

84 牛松山(636.5m ) <京都北部>

(うしまつやま)京都府亀岡市保津町にあり、丹波富士とも呼ばれる美しい姿の山である。古くは石松ヶ岳と呼ばれたが、雨乞いのために牛を生贄にしたことから牛祭り山となり、転訛して牛松山になったという。



2009年は丑歳だった。1月27日、恒例の干支の山へ登る。亀岡市内を抜けて桂川にかかる保津橋を渡ると、正面にどっしりした牛松山が全容を現した。北保津で民家の並ぶ細い道を通り、竹林の中を抜けると福性寺駐車場の鳥居横に露地の広場があった。



注連縄の掛けられた鳥居を潜ると、山頂の金毘羅神社まで十八丁の参道が始まる。幅広い丁石道をゆっくり登って行く。



二丁には文化年間の文字が見える美しいご神塔、三丁近くには明治時代建立の鳥居があった。ここを過ぎると勾配が弱まり、松の木が並ぶ快適な尾根歩きになる。



歩き始めて20分ほどで右手の展望が開け、薄い霧に包まれた亀岡盆地の上に北摂の山々が頭を出していた。少し急な勾配と緩い登りが繰り返され、全く疲れを感じずに高度を上げる。



十一丁の石のご神塔には、たくさんの杖がもたれ掛けてあった。十三丁から急坂になる。毎日登山の人らしい男性が今日初めて出会った人だった。展望の良い場所に出て、しばらく急坂を頑張ると次の町石があった。まだ十五丁くらいかと思っていると何と十七丁まで来ている。



なんだか拍子抜けするくらいのあっけなさで、なだらかな広い道になった。鳥居を潜り、56段あるという石段を登る。小広場の右手に絵馬堂、その奥に金毘羅神社が建っている。



絵馬堂には保津川下りの安全を願って奉納された舟二艘が天井に吊るされ、建物の蔭に消え残った雪が僅かに残っていた。最高点を探して踏み跡を登るとパラボラアンテナのある建物横に山名板があった。



東側には、愛宕谷川を挟んで愛宕山から南に延びる稜線が、屏風のように連なっている。ちょうど真下辺りがユズの里で名高い水尾になるのだろう。青空から暖かい日差しが降り注ぎ、風もなく全く寒さを感じない山頂で昼食を済ませる。



分岐に下り、国分に向けて3分ほど歩くと左手に三角点があった。林の中で展望はない。すぐにテレビ中継所があり、ここからは急な下り道になる。保津ヶ岡への地図上の分岐を見送り、愛宕神社を見学して帰ることにする。ジグザグの急坂続きで、送電線の通る分岐を赤テープのある踏み跡に入る(正規の道は左)。何箇所か倒木を越えて壊れた古い祠や苔蒸した石鳥居を見ながら下ると神社南側の舗装路に出た。



愛宕神社は「全国1000社の愛宕神社の本宮」で、拝殿前に大きなイヌマキ、社務所前に大きなスギの木が聳え、いずれも「亀岡の名木」と書いた札が下がっていた。神前に詣で、しばらく境内を見学して神社を後に府道を帰った。
【コースタイム】登山口(福性寺南の鳥居)10:00…金毘羅神社11:20~11:30…牛松山(636m)11:35~12:00…三角点(629.2m)12:07~12:12…愛宕神社12:55~13:05…北保津バス停13:35…登山口13:45

私の関西百山(83)皆子山

2014-10-01 07:59:37 | 私の関西百山

83 皆子山(971.5m ) <京都北部>

(みなこやま)京都府の最高峰である。渓谷と自然林の美しさを楽しむことができる京都北山でも人気の高い山である。旧山名は霞ゲ嶽と呼ばれていたが、現在の名は旧制三高山岳部による命名である。山頂へは足尾谷~ツボクリ谷、寺谷、皆子谷からの3つのコースがある。



1998年11月3日、二人で大津市平から百井川沿いの林道を走り、ゲート横に車を置かせて貰う。いかにも北山という雰囲気の杉の美林の中、川添いの林道を抜け寺谷出合に来る。橋は流失していたが徒渉は出来そうだ。この谷を登り、皆子谷を下るつもりだったが、もし下りた後で百井川を渡れないと困るので、さらに奥へ進む。



林道終点から川へ下ると対岸に登山道が見えたが、ここにも橋はないのでズボンをたくし上げ、靴は首にぶら下げて川に入る。結構、流れが速く水嵩は膝上まであったが、それ程冷たくないのが幸いだ。



杉林の中を少し登りまた下って皆子谷に下り、飛び石伝いに何度も渡り返したり、傍らの道を辿ったりして高度を上げていく。



所どころに大小の美しい滝を架ける明るい谷で、最初の10分ほどの間は鮎釣りの人を見かけたが、後は誰にも出会わない。流れは次第に細くなり、傾斜が強まる。木の根を掴んでよじ登って小台地状の所に出た。とてつもなく大きいブナの木が、青空一杯に黄金色を散りばめて立っている。辺りは緑の笹原。思わず「静かな、静かなヤマの秋…」と和子が歌い出した。



流れを離れ、背丈を超すササの中を急勾配の直登。僅かの頑張りで寺谷からの道との合流点である稜線に出る。



蓬莱山から権現山へ続く比良南部の山並み、その左に琵琶湖と大津市街が見える。琵琶湖大橋が霞んでいた。山頂へはササの中を5分ほどで到着。



小広い台地に先客が2人、私たちと逆に、寺谷から登ってきて皆子谷へ降りるという。ここからは武奈ヶ岳のゆったりした姿が美しい。



寺谷を下る。こちらは皆子谷に比べると道も良く、傾斜も緩いので歩きやすい。深まりゆく北山の秋を惜しみながら、元来た道をのんびり歩いて帰る。しばらくぶりに快晴と展望に恵まれ、山らしい山に登れた喜びで一杯の二人だった。
【コースタイム】平8:30…寺谷出合9:00…徒渉地点9:35~9:45…<皆子谷>…尾根に出る11:30~11:35…皆子山11:40~12:25…<寺谷>…山道谷道分岐13:15…寺谷出合13:45…平14:15
 
2001年9月22日、日本山岳会関西支部例会14人パーティ。バスで鯖街道へ入り、足尾谷橋下車。15分ほどで林道が尽きると足尾谷に沿った道になる。道が次第に狭まり、木橋を渡ったり飛び石伝いに行きツボクリ谷に入る。



美しい滝やハシゴ場などが続くが、京都バスの「北山トレック」200人の大パーティに追いついてしまう。なんとかトラロープのある急坂の手前で、中間点と先頭のガイドがトランシーバーで連絡を取り合って、先に行くことができた。



目印になる大きなトチノキからの標高差300mの急な登りは少し厳しかった。まず別の支流沿いに行く。やがて水が少なくなった支流が溝になった中を登る。虎ロープの急勾配の登りから最後は笹原の急坂を登り切ると皆子山山頂だった。



今日も雲一つなく比良の山並みの眺めが美しい。正面が武奈ヶ岳、その左に蛇谷ヶ峰が見える。慌ただしく記念写真を撮る間に、山頂はぞくぞく登ってくるトレックの人で埋まってくる。予定を変更して二年前の皆子谷を下りることになった。快晴に恵まれた楽しい山行で、諸先輩から色々教わることが多かった。しかも涼しくて、ほとんど汗もかかなかった。あの大パーティに追われずにゆっくり谷歩きが楽しめたら、もっともっと良かったのに…。
【コースタイム】足尾谷橋9:10…ツボクリ谷分岐10:45…<ツボクリ谷>…皆子山山頂11:35~11:45…昼食(皆子谷)12:15~12:45…林道終点13:45…平14:50

私の関西百山(82) 峰床山

2014-09-29 16:46:16 | 私の関西百山

82  峰床山(970m ) <京都北部>

(みねとこやま)京都北山にあり、高層湿原・八丁平を抱く京都府第二の高峰である、東側の敦賀街道にある葛川小学校前から、西側の花背・大悲山口から、南側の大見町から、北側の久多下からのコースがある。
 
 
2004年、千日山歩渉会の仲間たちと葛川小学校から伊賀谷沿いに林道終点の手前まで車で入り、中村乗越を経て山頂を目指した。車を置いて30分近く歩いて林道終点の大きな岩の横で木橋を渡って山道に入る。木橋や飛び石で何度か左右に沢を渡り返し、左から涸沢が入ってくる所で山腹道になりジグザグに登る。
 
 
登るにつれてイワウチワの花が多くなり、疲れも感じぬ間に中村乗越に着いた。
 
 
ブリキ板に書かれた絵地図が立っている。少し下って40年ぶりに八丁平に来る。
 
 
北に緩く登る。道はよく整備され道標も多い。オグロ坂峠には小さな祠があり、北側の展望が開ける。右に鎌倉山の標識がある。峰床山には手前のなだらかな道を左に行く。少し下って登りになるが、大した急坂もなく頂上に着く。
 
 
東から南にかけての展望があり皆子山、雲取山も見えている筈だが、似た山が並んでいて同定不能。特徴的な比良の蓬莱山だけは分かった。昼食を終え、クラガリ谷を下る。思いがけないことに、この暑さにも雪が消え残っていた。がらがらの降りを終えると、八丁平西側の周回路に入っていく。
 
 
ジメジメした湿原に苔むした木道が設けられていて、なかなか風情がある。緩く登って「二ノ谷へ」の標識を左に折れると八丁平を見下ろす形となり、南側から回り込むようにして元の道に出て、中村乗越への分岐に帰った。

<コースタイム>駐車地点(25分)林道終点(60分)中村乗越(20分)オグロ坂峠(30分)峰床山(35分)中村乗越(45分)林道終点(20分)駐車場所

51年前の今日(1963年9月24日)

2014-09-24 06:00:00 | 私の関西百山

51年前の9月24日、私たちは当時所属していた大阪の山岳会の秋合宿で八ヶ岳におりました。

15名パーティ(うち女性4)で私はCL、結婚前の妻は会計係でした。22日、夏沢峠近くで幕営、23日は強風とガスの横岳を通過する頃に小雪が降り出しました。

赤岳山頂は霧の中でしたが、通過する頃には展望が開けてきました。写真は縦走路からの阿弥陀岳です。キレットに下り、強風で飛びそうな中、やっと4張りの設営を終えました。



24日は快晴で明けました。モルゲンロートの富士を見て勇躍して出発。(これはテント場での朝の準備体操です)

キレットから竜頭峰



ツルムの頭では赤岳、阿弥陀、権現から南ア、中ア、新雪に輝く北アまで見えました。

編笠岳に着きました。

しかし、権現岳から下る途中で浮石に乗った男が足を痛めて足を引きずるようになり、嫌がりましたが編笠からは交代で背負って長い裾野を小淵沢へ。男性だけ10分交代のボッカでしたが、重かったです。棒道の電柱に設置されていた電話でタクシーを呼んで怪我人を乗せ、残り4kmを頑張って夕暮れ迫る小淵沢に急ぎ、3日間の縦走を終えました。


私の関西百山(81) 帝釈山

2014-09-21 20:01:21 | 私の関西百山

 81  帝釈山( 585.9m 

六甲西北(行政区画上は神戸市北区)に位置する標高 500~600 mの低山の連なり丹生山系二番目の高さの山。山名は昔、山頂にあった明要寺の本尊が帝釈天であったことによる。
 

山系での最高峰である稚児ヶ墓山( 596m )への縦走路がよく歩かれているが、 2005 9 月に交通の便を考えて衝原湖畔に車を置き、帝釈山からシビレ山を周回した。衝原(つくはら)湖から義経が一ノ谷奇襲に使ったといわれる義経道を登るつもりが、少し東寄りの林道に入ってしまった。 30 分ほどで「十七丁」の町石の立つ表参道と合流する。
 
 
延命地蔵のたつ「十一丁」から山道に入り、かなりの急坂をジグザグに登って「四丁」を過ぎると道はなだらかになり、山頂部の平地に来る。
 
 
大きな石の鳥居を潜り、草ぼうぼうの社務所横の短い石段を登って丹生神社に詣でる。
 
 
ここから帝釈山までの間、至る処でママコナの群落に出会った。 
 
 
585m の帝釈山頂は小広い草地に石の祠が二つ残っていて、かっての丹生山明要寺奥の院の雰囲気を残している。草に埋まるように二等三角点があったが、残念ながら薄曇りで展望は今ひとつ。それでも西六甲の山々が近く、明石大橋も薄く霞んで見えた。
 
 
シビレ山へは砂岩の急な登りから朝日山を越えて、再び急登で山頂に立つ。
 
 
ここへは 90 年3月に来ている。少し先の古代祭祀の跡から急な尾根を下る。
 
 
白い砂岩に緑の松が点在した湖南アルプスに似た眺めだが、勾配が強いので慎重に下る。コウモリ谷の核心部手前から 尾根道に逃げて峠を越すと、眼下に青い衝原湖が見えた。
 

駐車場に帰り、箱木千年家を見学。少なくとも14世紀以前の、おそらく現存する日本最古の民家であり、国指定重要文化財である。離れの縁側に腰を下ろして、初めてひんやりした秋の気配を感じた。

私の関西百山(80) ポンポン山

2014-09-19 15:49:18 | 私の関西百山

 80 ポンポン山( 679m 

すぐ近くを東海自然歩道が通る山頂に、次のような標識が立っている。「この山は正しくは加茂勢山といいますが、標高 679m の頂上に近づくにつれて足音がポンポンとひびくことから通称ポンポン山と呼ばれています。京都市の西端にあたりますがこのすぐ東の地域に善峰寺、三鈷寺、光明寺などの古刹が多く、平安中期以来、仏教の地としても重要な位置を占めています。東海自然歩道」
 山名の由来については、この説が有力だが異説もある。確かに山頂付近では音がする気がするが、その理由は地層に由来するとも、空洞があるためとも言われている。
 登山道は南側の本山寺(高槻市)から、北側の善峯寺(京都市)、出灰(高槻市)、大沢(島本町)から釈迦岳を経ての各道がある。
 始めて登ったのは 1969 4 月、山友と二人で神峰山寺口から登った。雨とガスの中で展望全く効かず寒かった。善峰寺の新緑が美しく、沿道にはタケノコが無数に顔を出していた。
 
 
1985 3 月は町内のハイキング同好会で神峰山寺に車を置き、明るい尾根筋を行く。遠く神戸の港を見下し、本山寺に着く。山門には、縄の長さでその年の農作の出来を占うという精進掛けがあった。山道らしくなるが、しばらく登りが続くとなだらかな尾根道や捲き道があるという繰り返しで、全員快調に登り続ける。最後の尾根筋へ出、木のハシゴ道を少し登り、二等三角点のある山頂に飛び出す。周囲 360 度の大展望で京都タワーが小さく見えた。下りも同じ道を辿る。全行程15.6km
 
1991 3 月、本山寺の駐車場まで神峰山寺から 1 時間のショートカット。本山寺迄、八丁の石標がある。五丁に「役行者衣掛け松」があり、祠の中に根元の部分だけが残っている。大峯、葛城の遥拝所だけあり見晴らしが良い。遠く生駒、葛城が霞み、眼下に淀の流れが白く光っている。宝筐印塔のある三丁、一丁に勧請掛がある。寺域に入り本堂に詣で、本堂横から山道に入る。 1 時間足らずで頂上に着き、同じ道を帰った。
 
 
1994 年同じ会で善峰寺から登った。七曲がりの林道を登ると 30 分で山間の長閑な集落・杉谷に入り、舗装路が切れてようやく山道らしくなる。流れに沿って杉林の中を行くと勾配が強まりジグザグの登りになるが、自然歩道だけあってよく整備されている。急登が終わると緩い尾根道を行き、釈迦ヶ岳への分岐を過ぎて最後に短い登りで頂上に着く。下山は釈迦ヶ岳( 631M 三等三角点)を通る。北側だけが開けて愛宕山がよく見えた。杉の植林の中の小暗い急坂を下り、捲道になると道もはっきりして善峰寺の屋根が眼下に見えた。
 
 
2006年3月、 ML 低山徘徊派のメンバーで初めて北西側から登った。大原野森林公園事務所前をスタート。谷に入るには許可証が要る竈ヶ谷を遡る。
 
 
二人とも初めてゴム長靴での山歩き。軽いし、ジャブジャブ川を渡れるし、昨日の雨で少しぬかるんだ道も平気で、なかなかのものだった。野生のクレソンの葉を口にしてみると、ちょっとほろ苦い春の味がした。
 
 
ヤマシロネコノメソウの大群落を見ながら緩やかな流れに沿って行く。枝谷から西尾根に登る途中、監視員さんが頑張っていて許可証をチェックされる。
 
 
少し下った斜面一帯に黄金色のフクジュソウの花が群生していた。ロープに沿って一方通行で一周するようにコースが作られている。写真を撮り終え、元のチェックポイントから少し登ると西尾根に出た。
 
 
最後の急坂を登り切ると、人で埋まるような頂上だった。帰りは西尾根を下った。少し開けた所で、カタクリの群生地があるという小塩山、その左にぼんやり霞んだ愛宕山が見えた。
 
  

私の関西百山(79) 六甲山

2014-09-16 16:48:46 | 私の関西百山

79 六甲山(931m)<六甲山地>

(ろっこうざん)神戸市街の背後に連なる六甲山は、関西の登山愛好者にとって「心の古里」である。日本最初の社会人山岳会「神戸徒歩会」(1920年)、加藤文太郎も所属したRCC(1924年、藤木九三)もこの地で生まれ、この六甲山系を舞台に活躍したのを始め、以後、幾多の岳人がこの山から世界に大きく羽搏いた。この地方は古くから「むこ」と呼ばれてきて、享保年間の摂津志書には「武庫山一名六甲山」の記述があるという(Wikipedia)。六甲は宝塚市、西宮市、芦屋市、神戸市にまたがる長大な山系の総称で、大小多くの山を含み、最高峰は六甲最高峰と呼ばれる。

最高峰から西の麻耶山にかけては、多くのホテル、会社の保養施設を始め日本最高所の六甲山小学校まである「山上の街」で、神戸市街を見下ろす夜景の美しさは言葉に尽くせない。

数え切れぬほどの登山道があり、私たちもいろいろな道を歩いたが、一番思い出の多いのは全山縦走路である。

須磨浦公園から始まり宝塚駅に至る約56kmの道では毎年「六甲全山縦走大会」が開かれているが、私たちが所属していた社会人山岳会・大阪山友クラブでは男性30kg、女性20kgをノルマにしたボッカ訓練を三度に分けて、この縦走路で行った(冬は更に10kg増える)。うち二度に参加しなければ北アなどでの夏合宿に参加できないルールだったが、殆どのメンバーが完走した。♀ペンと知り合ったのもこのボッカ訓練である。

また9歳年下の弟と宝塚を午前 0 時にでて、西へ向かったことがある(1962年)。月明かりに懐中電灯も点けずに、ひたすら急いで市が原で 7 時。少し仮眠のつもりが 11 時まで寝込んでしまい、調子を崩した。暑さで水やコーラを飲みすぎ、ついに高取山でダウン。六甲山脈の西の果てが海に消えていくのを目前にしながら、何とも残念だったが、どうにも足が言うことを聞かなくなっていた。この高取山は毎日登山の人で今も賑わっている。

 風吹岩

最もポピュラーなのは、芦屋から高座滝、ロックガーデンを経て最高峰へ登り、有馬温泉に下るコースー魚屋道(ととやみち)である。

山を始めた年にもこの道を最高峰へ登り、東六甲を縦走して宝塚へ降りている。

幼い子供たちとも何度か一緒に歩いた。 

徳川道

他にも石切道、徳川道、トゥエンティクロス、シュラインロードなど良く歩いたが、

 地獄谷

 西山谷

大小の滝を連ねる地獄谷、西山谷の遡行も忘れがたい。

宝塚に近い座頭谷、仁川、道場などでは一時、毎週のようにロッククライミングの練習をした。お腹に子供のいた♀ペンがきて、落ちたりしたのによく無事だったものだ。

昨年、5 年ぶりに 六甲山へ登った。東お多福山口までバスで行ったが、ここからの道は最高峰への最短コースとしてよく利用されているようだ。 蛇谷の浅瀬を渡り、ひとしきり急坂を登って平坦な道になると、すぐ横まで舗装道路が来ていてユートピア芦屋の住宅横を歩く。再び抉れた道の急登になり、勾配が緩むと低い笹原の中を歩くと東お多福山の頂上に着いた。まずまずの展望で西宮港の向こうに大阪湾が光っていた。急坂を下って土樋割峠にでた。六甲最高峰に向かう道が黒岩谷と出会うところで、東谷との間の尾根(西尾根?)に取り付く。

急登が続き大きな岩の横を通ったり、痩せ尾根を上下したり、斑らロープが付いている急坂を登ったりと、実に変化に富んだ楽しい道だ。緑の松と白い岩が散在していてアルペン的な感じもする。林を抜け深いクマザサの中を上下して一軒茶屋にでた。最高峰に登り昼食後、東六甲縦走路に入り、昔とは別の場所の感じがする「石の宝殿」から蛇谷北山を経て土樋割峠に降った。蛇谷北山は二度目だが、また一つ新しいルートを歩いて六甲の良さを再発見した。こんな素晴らしい「品格・歴史・個性」を持つ山が深田「日本百名山」に選ばれなかったのは、唯一、標高が彼の選定基準1500mに満たないためだが、「山高きが故に貴うとからず」惜しいことだ。


私の関西百山(78)槇尾山

2014-08-25 05:18:17 | 私の関西百山

 78 槇尾山(601m)
<まきおさん>大阪府和泉市。中腹(標高500m付近)にある天台宗の寺院・施福寺の山号と同じである。

空海や行基も修行したという修験道の聖地で、山中には多くの滝がかかる。西国三十三ヶ所第四番札所である寺の背後の山頂は捨身ヶ岳というが、やや道が不明瞭である。途中の蔵岩からの展望は素晴らしい。関西の岳人には屯鶴坊を起点とするダイアモンドトレイルの終点として知られている。

 清水滝

最初にこの山を訪れたのは1959年4月10日、皇太子(現天皇)ご成婚の日だった。友人と3人で9時40分に春木駅をスタートし、側川谷を遡行して清水滝などで遊び、山頂には15時に着いている。

府中まで歩いて大阪へ帰って、居酒屋で一杯やっていると、TVでご成婚パレードに投石事件があったことが伝えられていた。翌年5月にもこの山の周辺を歩いているが、記録を残していない。

15年後の1974年5月、府中からのバスで逆コースから入山した。約20kgの荷だったが快調に尾根を越して清水の滝へ。15年前に比べると道は良くなって人も増えたか、ゴミも増え、水量はぐっと少なくなったようだった。林間でテントを張り、翌日、側川口に下った。
 
1995年3月5日、町内の山の会の下見に二人で登った。マイカーで側川林道の荒れた路面を走り終点の広場から指導標に難路とされている渓沿いの道を登る。

 清水滝

人智開明の滝から清水滝までは、大きな朴の葉を踏んでいく。和泉最大という清水滝の右岸の岩場を、ザイルにすがって登り、水平道を五ツ辻へ。ここには古い木の鳥居と各方面を示す道標がある。

鋭角に右へ折れ、整備された松林の中の道を緩く登る。少し急坂を頑張ると右へ尾根を捲くようになり、木の間越しに大阪湾や和泉の町がちらほら望まれる。三ツ辻からは再び傾斜が強まる。

尾根上の小さな突起に登ると十五丁地蔵が鎮座し、「まきのおみち」を指す古い石標がある。ここから引き返し、三ツ辻からは尾根の上を槙尾山へ向かう。右手になだらかな岩湧山が見える。顕著なピークを一つ越し、再び緩く登った檜原越で昼食。急坂を下ると滝畑ダムヘの分岐があり、すぐ施福寺の境内に入った。広場から一徳坊山と岩湧を眺めて、蔵岩に向かう。急坂を登って岩の上に立つ。

素晴らしい展望所で、東に岩湧、その向こうに金剛、葛城が、西には大阪湾と泉南の町が拡がる。早々に正面見えるビークヘ向かう。小さな松の点在する岩稜を通り、雑木林の中を登って601ピークに立つ。

三角点も見当たらず、展望も皆無で面白味のない頂上だった。(写真は1週間後の例会時、清水滝の写真も)

<参考コースタイム> 側川林道終点(30分)清水滝(10分)五ツ辻(40分)三ツ辻(10分)十五丁地蔵(10分)三ツ辻(15分)檜原越え(15分)施福寺(20分)蔵岩(15分)601M ピーク (30分)山門前バス停14:05(40分)側川林道終点


私の関西百山(77) 岩湧山

2014-08-22 19:00:53 | 私の関西百山

77 岩湧山(897m)
<いわきやま>大阪府河内長野市にあるダイアモンドトレイルの西の主峰である。山頂一帯はキトラと呼ばれるカヤの生育地で、手厚く保護されている。898M 三角点のある山頂からは、北に金剛、葛城、東に高見、国見の鋭峰、東南に大峰の山々、南に高野の山々が紫色に浮かんでいる。西峰の広場からは眼下の大阪平野、堺臨海地帯が箱庭のようで、関西空港の向こうには淡路の島影が見える。西には槙尾山から和泉葛城につづく緑の稜線に三国山の純白のレーダードームがくっきり浮かぶ。

はじめて、この山に登ったのは1960年5月で滝畑ダムのキャンプ場で幕営して、翌日、山頂から西へ延びる尾根に登り、三角点のある西峰を経て東峰から岩湧寺に下り、長い林道を歩いてダム湖へ帰った。残念ながら、このときの記録も写真も残っていない。
 その後も同じコースを歩いているが、1995年8月29日と12月17日は岩湧寺の駐車場まで車で入った。ここから参道になる「やすらぎの道」を行き、行者の滝、千手の滝、不動滝をみて岩湧寺に参拝。

8月は淀君寄進の多宝塔が見えてくる辺りから、境内のシュウカイドウの花が満開だった。

岩湧寺は大宝年間(8世紀始め)文武天皇の勅願で円小角開基と伝えられる。本堂は豊臣秀頼の再建である。12月には境内の落ち葉をと掃いていた住職から、いろいろとこの寺にまつわる話を聞くことができた。寺(山) 名の由来となった「山肌から湧き出したように見える大岩」が谷の向こうに聳えているのも初めて知った。



から「きゅうざかの道」(もとの兼松新道)に入る。丸太で土止めした階段状の道がずっと続き、遊歩道のような趣だが名の通り勾配はきつい。



最後はロープにすがって稜線に出ると、ダイアモンドトレイルの通る東峰である。ブナ林の中の坦々とした道から、いったん下って暗い林を抜けると、明るい緑の草原が広がる。





898M三角点のある西峰山頂である。帰りはダイアモンドトレイルを少し紀見峠の方に歩き、勾配のなだらかな「やすらぎの道」を辿った。例の大岩を真横から見上げ見下ろす(道が岩全体の高さの中間にある)所に立派な木の橋があり、間もなく往路の「きゅうざかの道」との分岐に帰り着いた。