今年、出羽三山へ旅したのを機に、27年前に読んだこの本を再読しました。
羽黒修験の「峰入りの行」、大峰山系の「奥駆け修行」を体験し、比叡山の回峰行者を追って早暁の山中を駆けるなど、実際に山岳巡礼を身を以て体験した筆者は、この本のあとがきで『山が日本の宗教のあらゆる要素を含む文化の母体であることを知った』と書いておられます。
この本に登場する山岳霊場は八か所。
1.恐山━みちのく三世の山 2.出羽三山━生死永劫の山 3.木曽御嶽山━ものみな集う敬神の山
4.比叡山━日本大乗仏教の発祥 5.大峰山と熊野三山━山と海の他界信仰
7.高野山━大師信仰の祖山 8.立山━地獄滅罪の山 9.白山━観音示現の白き峰 です。
筆者は「山に挑戦するとか、征服するとかという思いはただの一度も抱かなかった」と述懐されていますが、私も霊山に限らず、どんな山に入るときも「登らせてもらう」気持ちをでいます。山で危うい目に会ったとき、思わず神仏の加護を祈ったことも何度かあります。それでも、若い頃は宗教心など微塵もなく、ただただ山頂を目指すだけでした。この本に出てくる山も、とくに霊場として意識したのは中年になって以降の比叡山、大峰、熊野、高野山くらいです。そんな私でも「霊山」と呼ばれる山には、足を踏み入れると身が引き締まるような特別な雰囲気を感じます。
以下、この本の一部紹介を兼ねて想い出を綴ってみます。『』の部分は同書からの引用、写真は変愚院のアルバムからのものです。恐山はまだ訪ねる機会がなく、また出羽三山はつい先日レポートしましたので、木曽御嶽から始めます。
「木曽御嶽」の名は山を始める前から「木曽のな~仲乗りさん…」の木曽節で知っていた。関東の御岳も大峰の金の御嶽(金峯山)もすべて「みたけ」で「おんたけ」、しかも「おんたけさん」と呼ばれるのは木曽御嶽だけである。古い記録では、この山は「王嶽」と呼ばれていた。『「おんたけ」と呼ばれるようになるのは、室町時代の中期という』
初めてこの山に登ったのは1972年5月、八合目田ノ原へ登る道はまだ舗装のない地道で、月夜に浮かれた野兎がヘッドライトに照らされて慌てて笹原に逃げ込んでいった。夜中の1時に田ノ原について車の下で寝袋に入って仮眠した。二度目は、75年7月でこの時はバスで田ノ原へ登った。写真はこの時のもの。
鎌倉時代ころまでは御嶽は「修験の山」で百日または七十五日の長い精進潔斎を経た「道者(どうじゃ)」の他、登拝は許されなかった。その限られた『霊峰御嶽の一般への開放を願って』新しい信仰の道を開いたのが覚明である。1791年、彼が唱えた精進の簡略化によって黒沢口からの登拝者が増え、更に普寛が「講」を作って王滝口からの登拝が一般化される。幕末期には『全国に御嶽信仰の講大小五百余といわれるほどに、隆盛の時代を迎えるに至った』
『山神が、山麓の村々を見守る御嶽の山頂へ、人知れず苦しみに堪えて登り、また降りてくる。この御嶽への登拝も根の国めぐりと同じような、新たな蘇りのための行為にほかならない。…この人を蘇らせる力を秘めた山を、信仰登山の人々は白衣をまとって辿る』写真は八丁ダルミにて(1976.08.08)
『山は下界と異なり、そこには地獄も浄土も、現実のこととしてあった』
ここ剣ヶ峰を仰ぐ王滝頂上から登った鞍部を左に行くと、奥ノ院と呼ばれる地獄谷の荒々しい噴火口を見下ろすことができる所に着く(1975年7月)。この写真を撮った4年後の1979年、御嶽は歴史上初の大爆発を起こした。この辺りの風景もかなり変わっていることだろう。
『北アルプス最南端の山頂(3063m)には大峰修験の影響を受けて蔵王権現が祀られている』
5月の頂上の祠はびっしりとエビノシッポに覆われていた。
『そして180度の視界の北方すぐ間近かに、覚明行者が入定したという二の池が望める』
近くには「賽ノ河原」と呼ばれる荒涼とした場所がある。ここにも日本宗教文化の特色である「神仏習合」が見られる。5月には地蔵の石仏は純白の雪に覆われていた。
『この山上の二の池、また近くの一の池、三の池の池水を、登拝の人々は、水筒などに入れて持ち帰る。御神水として、延命に、病気治療に不思議な力をもっていると、いまも多くの人が信じている。』
写真は1976年、三の池にて。左から息子と娘。
五ノ池から白山に沈む夕日を見る(1975年7月)
『日本アルプスの南端に位置し、信州・美濃・飛騨にまたがる独立峰として、ふるくから「名山に富士、名嶽に御嶽」とたたえられたこの山の頂上からは、中部地方の主要な霊山が一望のもとに見える』