朝の寒さが次第に緩んで、いいお天気になりました。近鉄駅前に用事があるので、近くの史跡に寄り道しながら散歩しました。
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養魚池の金魚たちが暖かい日を浴びています。通り道にある箕山町の大納言塚へ行ってみます。
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大納言塚。
豊臣秀吉の異父弟で郡山100万石の城主・豊臣秀長は天正19年(1591)に郡山城内で没しました。享年51歳。秀吉はここに菩提寺・大光院を建立して弟を弔いました。手前の大石には「大納言塚」の文字、山門の手前には「お願いの砂の箱」が見えます。
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金属製の蓋を持ち上げると中には白い砂が盛ってあり、小さな穴から箱の中に落ちるようになっています。「自分の名前と願い事を告げて砂を三度、穴に通せば、優しく賢くとても立派な殿様が、きっと願いを叶えてくださる」ということです。もともとは、墓前に敷き詰められた粗い白砂を持ち帰り、願いをかけて返納する習わしだったのですが…。
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豊臣家滅亡後、大光院は藤堂高虎によって京に移され墓地は荒廃していましたが、安永6年(1777)、春岳院の僧・栄隆らの尽力によって外塀や五輪塔など現在の姿になりました。高さ2メートルの五輪塔の「地」輪に秀長の戒名が刻まれています。
*用事を済ませた帰り道に、永慶寺町の黄檗宗「龍華山永慶寺」へ行きました。郡山城主・柳沢家の菩提寺です。
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永慶寺山門
市指定文化財。旧郡山城の南門を移築したもので、安土桃山時代の郡山城を偲ばせる現存する唯一の遺構です。
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山門から石段を登って広大な境内に入ったところ。左端のこんもり大きいのは庭石です。右は本堂。
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本堂。釈迦三尊を安置しています。
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本堂裏の高浜虚子句碑。『秋雨や俥なければ歩くまで』
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境内の拝観を終わり、弁天門を出ます。
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帰り道の城南町で古いお家の前に「荒木又右衛門屋敷跡」の石碑がありました。
伊賀の仇討「決闘・鍵屋の辻」で名高い剣豪・荒木又右衛門は、郡山藩・松平忠明に召し抱えられ剣術師範役250石に取り立てられました。その折の住居のようです。なお、又右衛門は仇討(寛永11年・1634年)の助太刀をするため、その前年に郡山藩を退身しています。
郡山に住んで30数年経ちますが、この屋敷跡は始めて知りました。ぽかぽか暖かい陽射しの下の散歩で、新しい発見もあって楽しかったです。ただ、カメラもケイタイも持たずに行って、♀ペンのケイタイを借りて移送したので写りがよくなく残念です。直線距離では家から駅まで3キロ足らずですが、寄り道したので歩数計の数字は10,580になりました。
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養魚池の金魚たちが暖かい日を浴びています。通り道にある箕山町の大納言塚へ行ってみます。
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大納言塚。
豊臣秀吉の異父弟で郡山100万石の城主・豊臣秀長は天正19年(1591)に郡山城内で没しました。享年51歳。秀吉はここに菩提寺・大光院を建立して弟を弔いました。手前の大石には「大納言塚」の文字、山門の手前には「お願いの砂の箱」が見えます。
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金属製の蓋を持ち上げると中には白い砂が盛ってあり、小さな穴から箱の中に落ちるようになっています。「自分の名前と願い事を告げて砂を三度、穴に通せば、優しく賢くとても立派な殿様が、きっと願いを叶えてくださる」ということです。もともとは、墓前に敷き詰められた粗い白砂を持ち帰り、願いをかけて返納する習わしだったのですが…。
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豊臣家滅亡後、大光院は藤堂高虎によって京に移され墓地は荒廃していましたが、安永6年(1777)、春岳院の僧・栄隆らの尽力によって外塀や五輪塔など現在の姿になりました。高さ2メートルの五輪塔の「地」輪に秀長の戒名が刻まれています。
*用事を済ませた帰り道に、永慶寺町の黄檗宗「龍華山永慶寺」へ行きました。郡山城主・柳沢家の菩提寺です。
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永慶寺山門
市指定文化財。旧郡山城の南門を移築したもので、安土桃山時代の郡山城を偲ばせる現存する唯一の遺構です。
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山門から石段を登って広大な境内に入ったところ。左端のこんもり大きいのは庭石です。右は本堂。
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本堂。釈迦三尊を安置しています。
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本堂裏の高浜虚子句碑。『秋雨や俥なければ歩くまで』
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境内の拝観を終わり、弁天門を出ます。
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帰り道の城南町で古いお家の前に「荒木又右衛門屋敷跡」の石碑がありました。
伊賀の仇討「決闘・鍵屋の辻」で名高い剣豪・荒木又右衛門は、郡山藩・松平忠明に召し抱えられ剣術師範役250石に取り立てられました。その折の住居のようです。なお、又右衛門は仇討(寛永11年・1634年)の助太刀をするため、その前年に郡山藩を退身しています。
郡山に住んで30数年経ちますが、この屋敷跡は始めて知りました。ぽかぽか暖かい陽射しの下の散歩で、新しい発見もあって楽しかったです。ただ、カメラもケイタイも持たずに行って、♀ペンのケイタイを借りて移送したので写りがよくなく残念です。直線距離では家から駅まで3キロ足らずですが、寄り道したので歩数計の数字は10,580になりました。