庭戸を出でずして(Nature seldom hurries)

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公共の財産

2019-06-26 17:22:00 | 自然
「公共の財産」について、公物、公共用物・・・云々の法律的な話は、横に置いといてまったく差し支えない。ここでは、海岸に限ってお話しする。
 
字義的に「公共」は「社会一般。公衆。おおやけ」、「財産」は「財貨と資産。所有する土地、家屋、家具、金銭、貴金属・・等」など、そこら辺の辞書に載っている意味で充分だ。ほとんどの人は「みんなのモノ」程度に理解しているだろうし、それで間違いではない。
 
本来「みんな」の中には、あなたも、私も、その他の人々もぜんぶ入っている。つまり、みんなのモノは、私のモノでもあり、あなたのモノでもあり、その他の方々のモノでもある。なんだか、桂枝雀の「茶漬け閻魔」に出てくる「あなたは私、私はあなた、あなたはあなた、私はわたし」みたいだが・・・「私以外の人の迷惑にならない限り、私は自分の所有物を自由に使うことができる」というのが大原則だ。(他者の自由権を侵害しない限りの自由・・・なんてめんどくさいことはここでは言わない)
 
ただ、「多くの方々が分かってないなぁ」と私がよく思うのは、「みんなのモノ」のとらえ方で、それらは、それらを管理している、例えば海岸なら地方公共団体の長、一級河川なら国土交通大臣のモノでは決してないということだ。彼らは公務員として、私たち私人から支給された税金という食い扶持(ぶち)で生活を立てながら(もちろん彼らも私人としては税を納めているが)、「みんなのモノ」の管理を委任されているに過ぎない。要は「所有」と「管理」を混同しているわけだ。マンションの所有者と管理者の区別などは簡単につくのに・・・。
 
海岸を「自分のモノ」だと自覚してないから、平気でゴミを捨てたり、「あなたやその他の方のモノ」だと思ってないから、醜い仕切りを付けてみたり、ときどきバカになる海岸管理者や地方公務員(警察)がたまに顔を出すと、彼らを恐れないまでも遠慮したりして、せっかくの自由を檻(おり)に入れ、人生の貴重な楽しみのある部分を減少させているように見えることがある。
 
もう一重立ち入った話をすれば、海岸も山も川も空も、本来、誰のモノでもないのだが、この辺りの話しはまたの機会にする。