アン・モロー・リンドバーグの末娘、リーブ・リンドバーグが書いた ”GIFT FOM THE SEA”『海からの贈りもの・50周年記念版』の「前書き」の訳文・・・何度見ても駄文の域を出ないが、まあ、私の才能と今の力量では、この程度が関の山である。一応、全文が完了したので、「あとがき」めいたものを少し。1000語余り(日本字で400字詰め原稿用紙に13枚分)に一月半もかかった理由の大半は、いつもの怠け癖にある。
どんなに酷(ひど)いものになっても、これを手鰍ッてみようと思ったのは、過去に上梓した、或るアメリカ人記者による『リリエンタール最後の飛行』や、無謀にもB・ラッセルの『権威と個人』に挑んでみた時と同じく、ただ、あのチャールズ・リンドバーグの生き様に興味が尽きないからであり、その妻のアン・モローの文章に惹かれたからであり、その娘のリーブの声や映像に魅力を抱いたからである。もう一つだけ控えめに付け足すと、これをまだ誰も末オた様子がなかったからである。
そして、初めの二人に共通して言えることは、「冒険」と「自由」と最後に「自然」をこよなく愛したこと。リーブに言えることは、母親・アンの生き方の精髄を『海からの贈りもの』に見出し、それを私に向けて真っ直ぐに投げてかけてきている様な気がしたこと、である。
すでに言うまでもないことではあるが、末?ニのおそらく9割以上は日本語の世界である。訳は末メの数だけあり、その質は、訳者の性格、人柄、生き方、詰まるところは人格による。
この楽しい作業をする傍ら、猪瀬尚記の『翻訳はいかにすべきか』をチラチラと見ていた。その岩波新書の帯に、平賀源内の「翻訳は不朽の業」、二葉亭四迷の「翻訳は文体である」、猪瀬本人の「翻訳に不可能はない」という、勢いの良い言葉が並んでいる。私は二葉亭に賛成するに躊躇(ちゅうちょ)なく、猪瀬にはちょっと首を傾(かし)げ、猪瀬が「大げさである」と評した源内には大きく頷(うなず)く。
不朽とは不滅という意味だが、この世界にはそのような訳書の数々が確かにあることを、こんなヘッポコ翻訳家でも、それなりに知っているからである。無論、私の訳書は、恒河沙(ごうがしゃ)のごとき金沙に混じった砂粒のようなものであり、不朽でも普及でも不滅でもない。単に趣味好みの戯(ざ)れごとだと諦めながら、読んで頂ければ、ある意味で幸いである。
何故か時を同じくして、馴染みの砂浜で拾った「海からの贈りもの」・・・大分産の麦焼酎「いいちこ」の何本目かを飲みながら、一体どうすれば、こんな「駄文」を、「名文」まで行かなくて全然いいから、せめて無理なく読める「拙文」くらいまでにできるのか、いよいよ更に楽しみながら、種々の想いを巡らせることにする。
令和元年(2019年)7月25日 梅雨あけの星空涼し松山の地にて
渡 辺 寛 爾
(画像は60周年記念版のハードカバー)