「西海の教会堂を訪ねて」の再録
最初は福岡県の今村天主堂から。
福岡県太刀洗町、筑後平野の只中、田園地帯に天主堂の双塔が聳えます。
正式には、大天使聖ミカエル今村カトリック教会。現在の信徒数は996人と言われます。
国内のレンガ造としては、唯一の双塔をもつ天主堂。大正2年の献堂。設計・施工は鉄川与助。
この地方にキリスト教の信仰が芽生えたのは、16世紀後半といわれ、その後の豊臣・徳川政権による厳しい禁令のなかで、少数の信者が秘かに信仰を守り続けたことは、奇跡といわれます。
明治6年の禁令解除後、明治12年、フランス人宣教師コール神父が着任します。現在の教会は、明治41年、本田神父により計画され、ドイツ等諸外国からの寄付や信徒達の労働奉仕により完成したものと伝えられます。
長崎県平戸、五島列島を中心に、この福岡県今村に及ぶ地域に多くの天主堂を建てた鉄川与助のことは、写真家雑賀雄二氏により記されています。
鉄川与助は、明治12年、五島列島の大工の棟梁の家に生れた。小学校を卒業の後、外国人神父の設計したいくつかの天主堂の建設に参画し、腕を磨き、27歳で、家業を相続、鉄川組を編成する。これより、組の棟梁として、雑賀氏の言う、「天主堂建築に憑かれた狂気」を纏い、多くの「光の建築」を建設して行くことになる。その間、長崎で出会ったフランス人ド・ロ神父の建築知識は、与助に大きな力を与えた。神父は与助を「てつ、てつ・・」と呼び、「てつ、悪いことをするなよ。悪い心を起こさなければ、きっといい建物を造ることができる・・」と言うのが常であったという。その言葉とともに、自らの知識の総てを与助に託したのであろう。そして、心と技術練磨の成果、与助の辿り着いた煉瓦造天主堂のピークが、今村天主堂であり、また後に紹介する田平天主堂なのである。
不思議と言えば、そうであるが、天主堂建設一筋の与助は、敬虔な仏教徒を守り、勧められてもカトリックに入信することがなかった。そのことが、信者の反対を呼んだこともあったが、与助の人柄と「鉄川でなければ、天主堂は建てきらん」と言わせる実績がそれを乗り越えさせたという。
晩年、横浜の末子の家に身を寄せた与助は、ある夜、「仏様がここに立っておられる」と言って何度も念仏を唱えたという。その1週間の後、与助は97歳の生涯を閉じた。枕元には、手がけた天主堂の写真が並べてあったという。
仏様に見守られて、天主堂を造った男、鉄川与助の話である。
広い筑後平野の田園を行くと、突然、二つの塔が聳えたつ赤レンガの天主堂が見えてきます。まるで、ヨ-ロッパの田園にでも、迷い込んだと思わせられる一瞬なのです。それは、それは見事な天主堂。設計・施工した鉄川与助のこと、以前から知ってはいました。でも、天主堂に憑かれ、誠の心血を注いだ日本人の造形物を目の当たりにするとその奇跡は、俄かには信じ難い気がしてくるのです。(2007年11月)
最初は福岡県の今村天主堂から。
福岡県太刀洗町、筑後平野の只中、田園地帯に天主堂の双塔が聳えます。
正式には、大天使聖ミカエル今村カトリック教会。現在の信徒数は996人と言われます。
国内のレンガ造としては、唯一の双塔をもつ天主堂。大正2年の献堂。設計・施工は鉄川与助。
この地方にキリスト教の信仰が芽生えたのは、16世紀後半といわれ、その後の豊臣・徳川政権による厳しい禁令のなかで、少数の信者が秘かに信仰を守り続けたことは、奇跡といわれます。
明治6年の禁令解除後、明治12年、フランス人宣教師コール神父が着任します。現在の教会は、明治41年、本田神父により計画され、ドイツ等諸外国からの寄付や信徒達の労働奉仕により完成したものと伝えられます。
長崎県平戸、五島列島を中心に、この福岡県今村に及ぶ地域に多くの天主堂を建てた鉄川与助のことは、写真家雑賀雄二氏により記されています。
鉄川与助は、明治12年、五島列島の大工の棟梁の家に生れた。小学校を卒業の後、外国人神父の設計したいくつかの天主堂の建設に参画し、腕を磨き、27歳で、家業を相続、鉄川組を編成する。これより、組の棟梁として、雑賀氏の言う、「天主堂建築に憑かれた狂気」を纏い、多くの「光の建築」を建設して行くことになる。その間、長崎で出会ったフランス人ド・ロ神父の建築知識は、与助に大きな力を与えた。神父は与助を「てつ、てつ・・」と呼び、「てつ、悪いことをするなよ。悪い心を起こさなければ、きっといい建物を造ることができる・・」と言うのが常であったという。その言葉とともに、自らの知識の総てを与助に託したのであろう。そして、心と技術練磨の成果、与助の辿り着いた煉瓦造天主堂のピークが、今村天主堂であり、また後に紹介する田平天主堂なのである。
不思議と言えば、そうであるが、天主堂建設一筋の与助は、敬虔な仏教徒を守り、勧められてもカトリックに入信することがなかった。そのことが、信者の反対を呼んだこともあったが、与助の人柄と「鉄川でなければ、天主堂は建てきらん」と言わせる実績がそれを乗り越えさせたという。
晩年、横浜の末子の家に身を寄せた与助は、ある夜、「仏様がここに立っておられる」と言って何度も念仏を唱えたという。その1週間の後、与助は97歳の生涯を閉じた。枕元には、手がけた天主堂の写真が並べてあったという。
仏様に見守られて、天主堂を造った男、鉄川与助の話である。
広い筑後平野の田園を行くと、突然、二つの塔が聳えたつ赤レンガの天主堂が見えてきます。まるで、ヨ-ロッパの田園にでも、迷い込んだと思わせられる一瞬なのです。それは、それは見事な天主堂。設計・施工した鉄川与助のこと、以前から知ってはいました。でも、天主堂に憑かれ、誠の心血を注いだ日本人の造形物を目の当たりにするとその奇跡は、俄かには信じ難い気がしてくるのです。(2007年11月)