この下五島、福江島においても、最初のキリスト教はアルメイダ修道士により伝えられたようです。天主堂の庭に、アルメイダと日本人イルマンのロレンツが五島の藩主に宣教している場面のレリーフがあります。アルメイダは医師でもあり、藩主の病気を快癒させたといいます。それを機会に多くの信者を獲得し、堂崎近くの奥浦に布教所まで与えられています。
そして、時はキリシタン迫害の時代へと・・。天主堂に向かうように、日本二十六聖人の一人、ヨハネ五島が十字架に掛けられている像があります。教徒以外の者にとっては、目を背けたくなるような残酷な像です。ヨハネ五島はその時、19歳だったといいます。
長い「隠れ」キリシタンの時代です。(五島では「隠れ」といわず「元帳」(教会暦をお帳と呼ぶことに因んで)と呼ばれたそうですが・・)現在の五島の信者の祖先は、江戸時代中期、長崎大村藩から開拓のため、信徒であることを隠し、この島に移住してきた人たちと言われます。
明治初年の狂気のような最後の迫害を越えて、明治6年禁教令が撤廃され、明治10年、フランス人マルマン神父(佐世保沖の黒島に大御堂を建て、その地に眠ったあのマルマン神父・・)が奥浦、そしてこの堂崎に居を構え、信徒発見に努め、明治21年からペルー神父がそれを引き継ぐことになったのでした。ペルー神父はこの地で30年を過ごすことになります。そして明治41年、待望の赤煉瓦のこの御堂を献堂したのです。
堂前の子供達に囲まれたマルマン神父とペルー神父の像、御堂を見つめる表情の優しさが印象的です。
堂崎天主堂は、上記のように明治41年の献堂。今に残る福江島の天主堂としては最も古いものです。平成11年、内外装の補修が行われ、イタリヤ製の煉瓦も輝きを増し、美しい姿に蘇りました。
設計はペルー神父。施工は野原与吉。鉄川与助も工事に参加。鉄川は、ここで西洋建築技術の多くをペルー神父より学び、後の天主堂建築で花開くことになったと言われています。
内部は三廊式、立面は単層構造、リブ・ヴォールト天井。側面の上部尖頭アーチ形窓は、外側両開き鎧戸、内部内開き色ガラス戸で外部に出られる構造。九州に現存する天主堂としては唯一のアメリカ積みの煉瓦(4~5段長手積み、1段小口積みを挟む)を採用。(内部は撮影禁止)
この地は島の北端、岬の先端です。なぜ、このような場所に下五島の中心ともなる天主堂が建てられたのでしょうか。陸路が整備されていない時代、信徒の人達は専ら船を利用したのです。ホラ貝の音がミサの合図でした。以後60余年間、礼拝が続けられましたが、奥浦の街に近い浦頭に教区が移り、更に昭和49年県指定有形文化財となり、ホラ貝の音も絶えて、天主堂としての役割は終えたようです。今は資料館として使われています。
私はこの日、福江島の北の久賀島の五輪を訪ねた午後、海上タクシーでここに 寄りました。船頭さんは、写真を撮るための少しの間船を止めてくれます。ひたひたと波の寄せる浜。ポツンと赤い煉瓦の天主堂がありました。観光としての顔に変わった天主堂、ちょっと寂しそうな表情に見えたものです。(2010年5月)
そして、時はキリシタン迫害の時代へと・・。天主堂に向かうように、日本二十六聖人の一人、ヨハネ五島が十字架に掛けられている像があります。教徒以外の者にとっては、目を背けたくなるような残酷な像です。ヨハネ五島はその時、19歳だったといいます。
長い「隠れ」キリシタンの時代です。(五島では「隠れ」といわず「元帳」(教会暦をお帳と呼ぶことに因んで)と呼ばれたそうですが・・)現在の五島の信者の祖先は、江戸時代中期、長崎大村藩から開拓のため、信徒であることを隠し、この島に移住してきた人たちと言われます。
明治初年の狂気のような最後の迫害を越えて、明治6年禁教令が撤廃され、明治10年、フランス人マルマン神父(佐世保沖の黒島に大御堂を建て、その地に眠ったあのマルマン神父・・)が奥浦、そしてこの堂崎に居を構え、信徒発見に努め、明治21年からペルー神父がそれを引き継ぐことになったのでした。ペルー神父はこの地で30年を過ごすことになります。そして明治41年、待望の赤煉瓦のこの御堂を献堂したのです。
堂前の子供達に囲まれたマルマン神父とペルー神父の像、御堂を見つめる表情の優しさが印象的です。
堂崎天主堂は、上記のように明治41年の献堂。今に残る福江島の天主堂としては最も古いものです。平成11年、内外装の補修が行われ、イタリヤ製の煉瓦も輝きを増し、美しい姿に蘇りました。
設計はペルー神父。施工は野原与吉。鉄川与助も工事に参加。鉄川は、ここで西洋建築技術の多くをペルー神父より学び、後の天主堂建築で花開くことになったと言われています。
内部は三廊式、立面は単層構造、リブ・ヴォールト天井。側面の上部尖頭アーチ形窓は、外側両開き鎧戸、内部内開き色ガラス戸で外部に出られる構造。九州に現存する天主堂としては唯一のアメリカ積みの煉瓦(4~5段長手積み、1段小口積みを挟む)を採用。(内部は撮影禁止)
この地は島の北端、岬の先端です。なぜ、このような場所に下五島の中心ともなる天主堂が建てられたのでしょうか。陸路が整備されていない時代、信徒の人達は専ら船を利用したのです。ホラ貝の音がミサの合図でした。以後60余年間、礼拝が続けられましたが、奥浦の街に近い浦頭に教区が移り、更に昭和49年県指定有形文化財となり、ホラ貝の音も絶えて、天主堂としての役割は終えたようです。今は資料館として使われています。
私はこの日、福江島の北の久賀島の五輪を訪ねた午後、海上タクシーでここに 寄りました。船頭さんは、写真を撮るための少しの間船を止めてくれます。ひたひたと波の寄せる浜。ポツンと赤い煉瓦の天主堂がありました。観光としての顔に変わった天主堂、ちょっと寂しそうな表情に見えたものです。(2010年5月)