長崎の天主堂と言えば大浦天主堂を欠かすことはできないでしょう。長崎湾をまわって神ノ島へ、そして西海を見渡すあの外海(そとめ)の丘へと・・そこにある二つの教会堂を併せて紹介します。
大浦天守堂
長崎の大浦天主堂、おそらくわが国で最も広く知られる天主堂でしょう。正式の名称は、「日本26聖殉教者聖堂」。
1596年、土佐に漂着したスペイン船の乗組員が、キリスト教の伝道により領土が拡張した、と誇ったことに憤慨した豊臣秀吉が神父を含む外国人6名、日本人20名のキリスト教徒の処刑を命じたと伝えられます。その処刑の地「西坂の丘」に向けて建てられたのが、この聖堂であるといいます。
明治の前、元治2年(1865)、フランス人ブチジャン神父により献堂。創建当時は、居留地のフランス人のための聖堂とされ、フランス寺と呼ばれました。
献堂式より一月ほどのち、フランス寺を訪れた子供連れの15人ほどの一団があった。それは、浦上の農民たちであった。代々秘かに信仰を守り続け、最後の 伴天連が日本を去るときの予言「七代後に再び渡来する・・」を確認しに来たの だった。一人の農婦は、ブチジャン神父の耳もとで「ワレラノムネ、アナタノムネ トオナジ」と囁き、「サンタ・マリアの御像はどこに?」と問うたという。
250年の時間を経た奇跡は、成し遂げられたのである。このことは、長崎周辺の潜伏キリシタンへ伝えられ、またブチジャン神父の喜びは横浜の教区長への手紙となり、歴史に刻まれることになる。
天主堂は、明治12年の大改修により、拡張され現在の姿となった。また昭和20年の原爆により甚大な被害を受け、昭和22年から5年を費やし、大修復工事が行われています。
現存する最古の天主堂。明治期建築で唯一の国宝に指定。(2008年2月)
神ノ島教会堂、岬のマリア像
西海から長崎湾に入る入口、高台に純白の聖堂が見えます。神ノ島天主堂です。神ノ島は、その名が示すように昔は島でしたが、埋め立てが進み、昭和24年頃に地続きとなりました。
天主堂の塔が、白い灯台のように見え、その向こうに長崎湾があり、通る船が見えます。
この天主堂は、明治25年着任したジュラン神父が私財を投入、自ら設計し、明治30年(1897)献堂したと伝えます。長崎市内では、大浦天主堂に次ぐ古いもので、煉瓦造の天主堂としても最初期のものです。
イタリア人の彫刻家の手になり、昭和59年(1984)建てられたもの。毎年5月の 聖母月には盛大な聖母祭が行われるそうです。天主堂の前の岬に、長崎湾を通る船を見守るように立つマリア像があります。
出津教会堂、大野教会堂
長崎の外海(そとめ、現在は長崎市西出津町)に、出津(しつ)天主堂、大野天主堂があります。それぞれ、明治15年(1882)、明治26年(1893)の献堂。ステンドグラス1枚持たない、誠に堅牢、簡素な天主堂です。設計者ド・ロ神父・・というより、この地では、歿後90年を経た今でも、親しみを込めて「ド・ロさま」と呼ばれる・・その人について、記しておかねばならない気がします。
フランス北部のノルマンディの裕福な家に生れた神父が、来日したのは明治元年のこと、27歳であった。明治6年、禁教令は廃止されたものの、切支丹に対する官、民双方からの弾圧と差別は、想像を絶するものであったという。そういう時代、神父は赴任地、外海において、聖職者としての務めの他に、教会、学校、受産院、工場などの建設、織物やパン、マカロニの製造、医療施設整備と救護活動、農業指導などに私財を投入し、自ら進んで身を置き活動した。その範囲の多彩さと行動力には、驚異としか、表現する言葉を持たないと語られる。
この地方で、多くの天主堂を建てた五島出身の建築業、鉄川与助に及ぼした心と技については別に記した。
ド・ロ神父の最後の仕事は、長崎大浦の司祭館の建設であった。工事現場での事故がもとで、74年の生涯を閉じることになる。遺体は小船で外海の出津に運ばれた。海辺のあちこちで、弔旗を持った人々の姿があった。「ド・ロさまが帰ってきた・・」人々は涙の中にあったという。
写真上より、出津天主堂(4枚)。入口、鐘塔、祭壇部分は、ド・ロ神父自身の手で、後に増築されたもの。出津天主堂のキリスト像。
大野天主堂(3枚)。玄武岩の小片を積重ね、石灰モルタルを目地材として用いた(通称、ド・ロ壁)九州に二つしかないという石造天主堂。出津の巡回教会として建設されたもの。
出津天主堂から丘陵を下る細い道を辿り、5分程、ド・ロ神父記念館があります。神父のコープなどとともに、農具、工具、織機などが陳列されています。ノルマンディの生家でもありましょうか、立派なフランス風の家のスケッチが目に残りました。見学をしていると、あのよく耳にする賛美歌のメロディーが聞こえてきます。この記念館を一人で守っておられるシスターが、ド・ロ神父が明治23年頃フランスから取り寄せたというオルガンを演奏してくださっているのです。
出津天主堂
大野天主堂
信徒会館
大浦天守堂
長崎の大浦天主堂、おそらくわが国で最も広く知られる天主堂でしょう。正式の名称は、「日本26聖殉教者聖堂」。
1596年、土佐に漂着したスペイン船の乗組員が、キリスト教の伝道により領土が拡張した、と誇ったことに憤慨した豊臣秀吉が神父を含む外国人6名、日本人20名のキリスト教徒の処刑を命じたと伝えられます。その処刑の地「西坂の丘」に向けて建てられたのが、この聖堂であるといいます。
明治の前、元治2年(1865)、フランス人ブチジャン神父により献堂。創建当時は、居留地のフランス人のための聖堂とされ、フランス寺と呼ばれました。
献堂式より一月ほどのち、フランス寺を訪れた子供連れの15人ほどの一団があった。それは、浦上の農民たちであった。代々秘かに信仰を守り続け、最後の 伴天連が日本を去るときの予言「七代後に再び渡来する・・」を確認しに来たの だった。一人の農婦は、ブチジャン神父の耳もとで「ワレラノムネ、アナタノムネ トオナジ」と囁き、「サンタ・マリアの御像はどこに?」と問うたという。
250年の時間を経た奇跡は、成し遂げられたのである。このことは、長崎周辺の潜伏キリシタンへ伝えられ、またブチジャン神父の喜びは横浜の教区長への手紙となり、歴史に刻まれることになる。
天主堂は、明治12年の大改修により、拡張され現在の姿となった。また昭和20年の原爆により甚大な被害を受け、昭和22年から5年を費やし、大修復工事が行われています。
現存する最古の天主堂。明治期建築で唯一の国宝に指定。(2008年2月)
神ノ島教会堂、岬のマリア像
西海から長崎湾に入る入口、高台に純白の聖堂が見えます。神ノ島天主堂です。神ノ島は、その名が示すように昔は島でしたが、埋め立てが進み、昭和24年頃に地続きとなりました。
天主堂の塔が、白い灯台のように見え、その向こうに長崎湾があり、通る船が見えます。
この天主堂は、明治25年着任したジュラン神父が私財を投入、自ら設計し、明治30年(1897)献堂したと伝えます。長崎市内では、大浦天主堂に次ぐ古いもので、煉瓦造の天主堂としても最初期のものです。
イタリア人の彫刻家の手になり、昭和59年(1984)建てられたもの。毎年5月の 聖母月には盛大な聖母祭が行われるそうです。天主堂の前の岬に、長崎湾を通る船を見守るように立つマリア像があります。
出津教会堂、大野教会堂
長崎の外海(そとめ、現在は長崎市西出津町)に、出津(しつ)天主堂、大野天主堂があります。それぞれ、明治15年(1882)、明治26年(1893)の献堂。ステンドグラス1枚持たない、誠に堅牢、簡素な天主堂です。設計者ド・ロ神父・・というより、この地では、歿後90年を経た今でも、親しみを込めて「ド・ロさま」と呼ばれる・・その人について、記しておかねばならない気がします。
フランス北部のノルマンディの裕福な家に生れた神父が、来日したのは明治元年のこと、27歳であった。明治6年、禁教令は廃止されたものの、切支丹に対する官、民双方からの弾圧と差別は、想像を絶するものであったという。そういう時代、神父は赴任地、外海において、聖職者としての務めの他に、教会、学校、受産院、工場などの建設、織物やパン、マカロニの製造、医療施設整備と救護活動、農業指導などに私財を投入し、自ら進んで身を置き活動した。その範囲の多彩さと行動力には、驚異としか、表現する言葉を持たないと語られる。
この地方で、多くの天主堂を建てた五島出身の建築業、鉄川与助に及ぼした心と技については別に記した。
ド・ロ神父の最後の仕事は、長崎大浦の司祭館の建設であった。工事現場での事故がもとで、74年の生涯を閉じることになる。遺体は小船で外海の出津に運ばれた。海辺のあちこちで、弔旗を持った人々の姿があった。「ド・ロさまが帰ってきた・・」人々は涙の中にあったという。
写真上より、出津天主堂(4枚)。入口、鐘塔、祭壇部分は、ド・ロ神父自身の手で、後に増築されたもの。出津天主堂のキリスト像。
大野天主堂(3枚)。玄武岩の小片を積重ね、石灰モルタルを目地材として用いた(通称、ド・ロ壁)九州に二つしかないという石造天主堂。出津の巡回教会として建設されたもの。
出津天主堂から丘陵を下る細い道を辿り、5分程、ド・ロ神父記念館があります。神父のコープなどとともに、農具、工具、織機などが陳列されています。ノルマンディの生家でもありましょうか、立派なフランス風の家のスケッチが目に残りました。見学をしていると、あのよく耳にする賛美歌のメロディーが聞こえてきます。この記念館を一人で守っておられるシスターが、ド・ロ神父が明治23年頃フランスから取り寄せたというオルガンを演奏してくださっているのです。
出津天主堂
大野天主堂
信徒会館