枯雑草の写真日記2

あの懐かしき日々を想いながら・・つれずれの写真日記です。

西海の教会堂を訪ねて その15 大江教会堂(天草)

2018-05-20 | 教会・天主堂を訪ねて
大江天主堂は、崎津天主堂に近い天草下島の西南、小高い丘の上にあります。明治以降に天草に建てられた二つの天主堂の内の一つです。

明治40年、この地を訪ねた紀行文「五足の靴」(岩波文庫)にこの天主堂に関し興味深い記述がありますので、引用させていただきましょう。(「五足の靴」は、与謝野寛(鉄幹)が、まだ学生の身分だった太田正雄(木下杢太郎)、北原白秋、平野万里、吉井勇の4人を連れて旅した記録、紀行文)

「「御堂」はやや小高い所に在って、土地の人が親しげに「パアテルさん、パアテルさん」と呼ぶ敬虔なる仏蘭西(ふらんす)の宣教師が唯一人、飯炊男の「茂助(もすけ)」と共に棲んでゐるのである。案内を乞ふと「パアテルさん」が出て来て慇懃(いんぎん)に予等を迎えた。「パアテルさん」はもう十五年も此(この)村にゐるさうで天草言葉が却々(なかなか)巧い。「茂助善(よ)か水を汲んで来なしやれ。」と飯炊男に水を汲んで来させ、それから「上にお上がりまっせ」と懇(ねんご)ろに勧められた。・・」「「パアテルさん」は其(その)他いろいろのことを教へて呉れた。
此(この)村は昔は天主教徒の最も多かった所で、島原の乱の後は、大抵の家は幕府から踏絵の「二度踏」を命じられたところだ。併(しか)し之で以て大抵の人は「転んで」仕舞って、唯この山上の二三十の家のみが、依然として今に至るまで堅く「ディウス」の教へを守ってゐるさうである。・・・それで信者は信者同士でなければ結婚せぬ。縦(よ)し信者以外のものと結婚するとしても、それは一度信者にした上でなければならぬ。いや、今は転んで仏教徒になってゐるものでも家の子の出来た時には洗礼をさせ、又死んだ時にも、表面は一応仏式を採るが、其(その)後更めて密かに旧教の儀式を行ふさうだ。・・」
「・・・此(この)教会に集る人々は、昔の、天草一揆時代の信徒ではなくて、此御堂建設後、二十七年の間に新に帰依したものである。それは、大江村に四百五十三人、それから此の「パアテルさん」が一週間交代でゆく崎津村に四百五十九人あるさうだ。・・・」


その「パアテルさん」、ガルニエ神父は、明治25年から50年間この地に尽し、昭和8年今の天主堂を建てます。当時の金で25000円、神父は生活を極度に切り詰め捻出したといいます。設計・施工は鉄川与助。鉄川21棟目の御堂。RC造。切妻の背面は将来の増築を考慮したもの。
緑の丘に建つ純白の御堂。折上天井、花模様に飾られた暖かな内部は、神父の人柄を表すもののようにも思えます。(内部は撮影禁止)(2010年5月)