枯雑草の写真日記2

あの懐かしき日々を想いながら・・つれずれの写真日記です。

西海の教会堂を訪ねて その2 田平天主堂(長崎県平戸市)、宝亀教会堂(平戸島)

2018-05-02 | 教会・天主堂を訪ねて
平戸の街から国道402号を南下し右折、間道に入ると、辺りの林や畑や海岸の崖を介して青い海が望めます。田平天主堂は、こんな日本ではないような・・想像のなかの南フランスの海の見える丘のような・・地にあるのです。
ここ瀬戸山一帯は、もとは広々とした原野でしたが、キリスト教の禁制が解けた後明治の中ごろ、西彼杵半島の出津・黒崎や黒島から移住してきた信徒たちによって開墾された地であると言います。
大正3年に着任した中田神父が、本格的な煉瓦造りの天主堂建設に情熱を燃やし、資金集めの苦労、それに加え海岸の崖崩れにより死者を出すなどの惨事を乗り越え、大正7年献堂。設計・施工は、鉄川与助。今村天主堂とこの田平天主堂で、鉄川与助の煉瓦造の天主堂はその頂点を迎えます。そして、鉄川として、最後の煉瓦造天主堂でもあるのです。
内部は、三廊式と呼ばれるもの、立体構成がアーケード、トリフォリウム(装飾帯)クリアストリー(高窓)からなる本格的な三層構成。木造のリブ・ヴオールト天井。内装の木部は、薄緑色。当初の色ガラス窓が撤去されたことを惜しむ声も多いようですが、それに代わって設置されたステンドグラスもまた美しいもの。
天主堂の海に面する正面に立つ、ルルドの聖母。その限りなく優しい表情にも心洗われます。
これほど美しい天主堂に会えることも、きっと得難いことでしょう。海峡を隔てた向こう、平戸島に夕日が沈む頃、天主堂は、真っ赤に燃えるようだといいます。 そういう時刻にも、またの出会いのあることを切望せざるにはおれません。

天主堂の中に、お参りする人の気持ちを書き綴るノートが、置かれていました。
息子に先立たれた、母と父の言葉がありました。この美しい天主堂に、息子と来れなかったことを悔いていたけれど、思いがけず、ここで息子と会うことができたこと。その喜びと、来年もまた、次の年も・・づっとここに会いにくるであろうことが、記されていました・・。(
2007年11月)














































































同じ平戸地区にある宝亀教会堂を併せて紹介します。
平戸市宝亀町にある平戸で最も古い天主堂(正式には、カトリック宝亀教会)です。
明治18年頃、既にこの地に天主堂があったと言われていますが、今ある天主堂は、明治31年(1898)マタラ神父の指揮のもと、大工、柄本庄一により建設されたもの。
正面から見ると、全体がコンクリート造りのようにも見えますが、正面と玄関空間のみが煉瓦造、建物全体は木造なのです。
側面にバルコニー風の外廊下があり、扉を兼ねた色ガラス窓から出入りできるようになっています。
何処か、南欧の家を思わせる・・屋根は単層構成、平面は三廊式、内部立面は二層構造、天井はリブ・ヴォールト天井。内壁には花を型どった装飾が随所に施され、華やかで心安らぐ。尖頭アーチの窓、当初からと言われる色ガラスも控え目で美しいもの。
天主堂は、海岸から少し入った丘の上にあり、正面にキリスト像が立っています。ここより見渡せば、平戸の水道の島々と海の輝きが一面に拡がっているのが見えます。見事な海の情景です。

国道から天主堂に上る1kほどの道を歩いていると、軽自動車が追い越して行きました。
車内には老夫婦の姿。天主堂に着いて正面の扉に手を掛けたが、閉まっています。素朴で品の良い感じの年配の奥様が、横の扉の前でニッコリ、扉を開けて招いて下さる。
老夫婦は、田平天主堂のすぐ近くに住まれ、毎日のミサに通われているそうです。
「この教会も世界遺産の候補にあがっとると聞いて、今日は車でお参りに来たとです・・」
老夫婦の満ち足りた日々の生活が感じられるようで眩しい。
この水道を隔てた対岸に田平天主堂があります。丘の上から輝く海を眺めておられる老夫婦に遠くから会釈して、丘の道を下りました
。(2008年2月)