枯雑草の写真日記2

あの懐かしき日々を想いながら・・つれずれの写真日記です。

きんさいYOSAKOI 2018

2018-05-23 | ヒロシマ
          広島フラワーフェスティバルの1イベントよさこい祭り。
          今年もまた、その会場に出かけてしまいました。
          阿波踊りは「・・踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らな損々・・」
          と唄われますが、このよさこいもそうかも・・
          踊り手の笑顔が溢れます。
          職場の連、県内の連、近県・四国の連・・
          お馴染みの松山風舞人、魅惑する見事な丸亀月下桜舞連・・
          殿はあの須賀IZANAI連・・
          熱狂と叫びの世界です。





































  
































西海の教会堂を訪ねて その17 楠原教会堂(下五島、福江島)

2018-05-23 | 教会・天主堂を訪ねて
楠原は、福江島の北部、海岸より少し入った内陸の地。堂崎天主堂のコメントにも記したことですが、この地は江戸中期(寛政9年、1797)大村藩の農民の五島移住地の一つです。ここでは、牧場作りが仕事で、密生した楠の林を開墾、樟脳を製造しながら整地して牧場にしたのです。勤勉な開拓民の努力により、五島一の馬数を有するまでになったといいます。
キリシタンであることを秘匿した移住でしたが、大村と違い当時はキリシタン弾圧もなく、住民にとってはこの上ない暮らしであったようです。
以前にも紹介しました、「五島へ、五島へと皆行きたがる。五島はやさしや土地までも・・」と俗謡に歌われた・・その時代です。
それは、幕末維新の頃、暗転します。長崎、大浦に宣教師再来の報と呼応するように、住民はキリシタンであることを表明し始め、藩や国の取締側も、また旧来からの郷民も過酷な弾圧に転ずるという、皮肉とも思える結果を生んだのです。当時のこの地区の信徒は800人と言われます。
天主堂の近くに、明治元年の弾圧で教徒が投獄された楠原牢屋敷跡があり、碑が見られます。

明治6年の禁教令撤廃と時を経ずして、神父がこの地を訪れますが、今に見るこの天主堂が建ったのは、約30年の資金の蓄積期間の後、信徒の労務奉仕を得て、大正元年のこと。コンバス司教により献堂。堂崎天主堂の完成後、鉄川与助を含む同じグループにより設計・施工されたと見られています。鉄川の作品と見做せば、4棟目の天主堂となります。
平面は三廊式。内部立面は単層構造。天井はリブ・ヴォールト。煉瓦造(鉄川の天主堂に共通に見られる長手積みと小口積みが交互のイギリス積み)正面部分が建物本体とは独立した、看板建築のように見えるとの評もあるようですが、鉄川が明治43年に完成した青砂ケ浦天主堂とのデザインの共通性は明らかですし、実際に堂前に立つと、その煉瓦面の美しさ、迫力には圧倒される思いです。ただ、昭和43年、全体のデザインを無視した内陣(祭壇部)のコンクリートによる増築には、残念がる声が多いようです。
海辺に建つ天主堂の多い五島にあって、内陸の農村地帯、田畑と農家と同じ立場を持つこの天主堂。老朽化の進む中、美しい姿を保持した維持保全を望まずにはおれませんでした。(2010年5月)