2009年の上五島の天主堂への旅。その折より、更に下五島や天草の天主堂を訪ねたいと思っていました。それを実現することができました。天候にも恵まれ、西海の海も山も海辺も輝いていました。その中で、心に沁みる天主堂の姿と、その背後の歴史の中の人の血と涙の跡を垣間見たように思いました。実際の行程とは逆ですが、天草から下五島へと紹介させていただきます。
江戸時代の初め、天草は島原とともに最も多くのキリシタンが住んだ所と言われます。ザビエルが鹿児島に上陸してから17年の後、30歳で商人から聖職に転じたポルトガル人、アルメイダ修道士の西九州各地への熱心な布教活動に負うところが大きいとされます。アルメイダは医師でもあり、病院や孤児院の設立など福祉への献身が人の心を捉えたのでしょう。後にマカオで司祭となったアルメイダは、再び日本に来て、崎津に近い天草の静かな浦で59年の生涯を閉じます。長年の労苦により、80歳をこえる風貌であったと伝えられています。
しかし、この天草の地、明治以降に蘇った天主堂は、大江、崎津の二つを数えるばかりなのです。1637年、あの島原の乱で原城に籠ったキリシタン3万5千人のほぼ全員が殺戮されたためなのです。天草の二万の人口は8千人になったと言われます。
島原の乱は、搾取に抵抗した農民一揆という面もあるのですが、最近の発掘などの調査の結果は、宗教的熱狂による一種の開放闘争であったという面を押してるようです。この痛みは、今もなを天草の人々の心の中で消えることがない・・と言われます。反乱軍に加わらなかった島の西南の辺縁の地の僅かな信徒が信仰を守り続け240年の後、フランス人神父を迎えたのです。
崎津は、アルメイダ修道士により最初の天主堂が建てられ、天草での布教の中心となったと伝える地。現在、天主堂のある場所は、庄屋の屋敷であったところ。天主堂の祭壇のある場所で厳しい踏絵が年ごとに行われたといいます。
今の天主堂は、明治18年以降3度目の再建で、昭和10年フランス人ハルプ神父のもとで献堂。設計施工は鉄川与助。鉄川24棟目の御堂。前部はRC造、後部は木造のコラボレーション。鉄川としては珍しく、ゴシック様式を明らかに踏襲した外観。それに反して、内部はリブ・ヴォールトの天井にデザイン化されたユリの花を飾る優しい佇まいなのです。
床には、一面畳が敷かれ、その上に折りたたみ椅子が置かれていました。(内部は撮影禁止)
しかし、何といってもこの天主堂の特徴はその立地でしょう。山に囲まれた羊角湾の畔、漁港の街の家並に囲まれて建つ天主堂は他に類を見ません。天主堂の裏山には、仏教徒とキリスト教徒が混在する墓地があります。毎朝、港を出る船人は、漁の安全を祈念して、必ず天主堂に頭を下げるといいます。港の人と共にある天主堂なのです。(2010年5月)
江戸時代の初め、天草は島原とともに最も多くのキリシタンが住んだ所と言われます。ザビエルが鹿児島に上陸してから17年の後、30歳で商人から聖職に転じたポルトガル人、アルメイダ修道士の西九州各地への熱心な布教活動に負うところが大きいとされます。アルメイダは医師でもあり、病院や孤児院の設立など福祉への献身が人の心を捉えたのでしょう。後にマカオで司祭となったアルメイダは、再び日本に来て、崎津に近い天草の静かな浦で59年の生涯を閉じます。長年の労苦により、80歳をこえる風貌であったと伝えられています。
しかし、この天草の地、明治以降に蘇った天主堂は、大江、崎津の二つを数えるばかりなのです。1637年、あの島原の乱で原城に籠ったキリシタン3万5千人のほぼ全員が殺戮されたためなのです。天草の二万の人口は8千人になったと言われます。
島原の乱は、搾取に抵抗した農民一揆という面もあるのですが、最近の発掘などの調査の結果は、宗教的熱狂による一種の開放闘争であったという面を押してるようです。この痛みは、今もなを天草の人々の心の中で消えることがない・・と言われます。反乱軍に加わらなかった島の西南の辺縁の地の僅かな信徒が信仰を守り続け240年の後、フランス人神父を迎えたのです。
崎津は、アルメイダ修道士により最初の天主堂が建てられ、天草での布教の中心となったと伝える地。現在、天主堂のある場所は、庄屋の屋敷であったところ。天主堂の祭壇のある場所で厳しい踏絵が年ごとに行われたといいます。
今の天主堂は、明治18年以降3度目の再建で、昭和10年フランス人ハルプ神父のもとで献堂。設計施工は鉄川与助。鉄川24棟目の御堂。前部はRC造、後部は木造のコラボレーション。鉄川としては珍しく、ゴシック様式を明らかに踏襲した外観。それに反して、内部はリブ・ヴォールトの天井にデザイン化されたユリの花を飾る優しい佇まいなのです。
床には、一面畳が敷かれ、その上に折りたたみ椅子が置かれていました。(内部は撮影禁止)
しかし、何といってもこの天主堂の特徴はその立地でしょう。山に囲まれた羊角湾の畔、漁港の街の家並に囲まれて建つ天主堂は他に類を見ません。天主堂の裏山には、仏教徒とキリスト教徒が混在する墓地があります。毎朝、港を出る船人は、漁の安全を祈念して、必ず天主堂に頭を下げるといいます。港の人と共にある天主堂なのです。(2010年5月)