枯雑草の写真日記2

あの懐かしき日々を想いながら・・つれずれの写真日記です。

西海の教会堂を訪ねて その7 冷水教会堂 (五島、中通島)

2018-05-07 | 教会・天主堂を訪ねて
九州、長崎・平戸の天主堂を訪ねたのは、平成20年の春のことでした。その心ときめく出会いに酔ったことを思い返すのですが、その時以来さらに海を越えて五島や天草の天主堂も訪ねてみたいという思いも止み難いものとなりました。
平成21年秋その一部が実現しました。五島列島の北端の島、中通島(五島の北半の島々は、一般に上五島と呼ばれます)の天主堂を訪ねることができました。



上五島、有川の浜 江戸時代、大村藩外海(現長崎)から移住した隠れキリシタンが上陸したのもきっとこの浜の辺り。









五島列島の教会堂(天主堂)を訪ねるにあたって、最初に二つのことを記しておかなくてはならないでしょう。
一つは、明治の末から昭和の中にかけて、この地に多くの天主堂を建てた棟梁、鉄川与助のこと。二つ目は、五島とキリシタンの係わりについて。
後者は次回に譲ることとして、前者についてはこのシリーズの以前のブログに記したことがあります。若干加筆して、再掲させていただくことにします。

長崎県平戸、五島列島を中心に、福岡県や熊本県に及ぶ地域に多くの天主堂を建てた鉄川与助のことは、写真家雑賀雄二氏により記されている。
鉄川与助は、明治12年、五島列島中通島、丸尾郷の大工の棟梁の家に生れた。小学校を卒業の後、外国人神父の設計したいくつかの天主堂の建設に参画し、腕を磨き、27歳で、家業を相続、鉄川組を編成する。これより、組の棟梁として、 雑賀氏の言う「天主堂建築に憑かれた狂気」を纏い、多くの「光の建築」を建設して行くことになる。その間、長崎で出会ったフランス人ド・ロ神父の建築知識は、与助に大きな力を与えた。
神父は与助を「てつ、てつ・・」と呼び、「てつ、悪いことをするなよ。悪い心を起こさなければ、きっといい建物を造ることができる・・」と言うのが常であったという。その言葉とともに、自らの知識の総てを与助に託したのであろう。そして、心と技術練磨の成果、与助の辿り着いた煉瓦造天主堂のピークが、今村天主堂(福岡県、大正2年)であり、また田平天主堂(長崎県、大正7年)と言われる。その後も新しい空間への追及は続き、大正8年、石造の頭ケ島天主堂(上五島)に至り、フランス人神父の影響から解き放された独自の天主堂を得たとも評される。
昭和に入り、コンクリートという素材を得て、手取天主堂(熊本、昭和2年)、紐差天主堂(平戸、昭和4年)など、生涯30を超える天主堂をこの世に残した。
不思議と言えば、そうであるが、天主堂建設一筋の与助は、敬虔な仏教徒を守り、勧められてもカトリックに入信することがなかった。そのことが、信者の反対を呼んだこともあったが、与助の人柄と「鉄川でなければ、天主堂は建てきらん」と言わせる実績がそれを乗り越えさせたという。
晩年、横浜の末子の家に身を寄せた与助は、ある夜、「仏様がここに立っておられる」と言って何度も念仏を唱えたという。その1週間の後、与助は97歳の生涯を閉じた。枕元には、手がけた天主堂の写真が並べてあったという。仏様に見守られて、天主堂を造った男、鉄川与助の話である。


さて、上五島最初の天主堂は、冷水(ひやみず)天主堂です。28歳の鉄川与助が棟梁として最初に設計・施工した木造のお堂で、鉄川の故郷にほど近い網上郷の海の畔に明治40年の献堂。
平屋の建物に、リブ・ヴォールト天井(こうもり天井)を組み入れたため、柱が短く、やや天井に圧迫された感じが伴います。外装、窓枠ともに新建材に置き換えられたことを惜しむ声もあるようですが、建設当時極めて斬新であったろうその形態の美しさは、十分今に伝わっていると感じられます。美しいステンドグラス、赤い絨毯・・、内部空間の暖かさは、信徒のみならず、訪れた者総てに、至福の時を約束するように思えました。(2009年11月)