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「龍の棲む家」 玄侑宗久

2021-10-07 | 読書

認知症になった父親を、次男幹夫が介護する話。

同棲相手と別れて、実家近くに喫茶店を開いていたが、介護していた嫂が亡くなり、同居して介護する話。

うーーむ、介護度は要介護度は3くらい?食事、トイレなどは自立。ときたま認知症の症状が出る。主なのは今の時間が分からなくなることと徘徊。家を飛び出すと幹夫もついて行き、納得するまで歩かせて帰って来る。

いつも行く公園で佳代子に出会う。佳代子は年寄りの扱いがうまく、次第に父も心を開く。佳代子は離婚後介護施設で働いていたが、施設を跳び出した利用者が事故死したことがトラウマになり、次の一歩が踏み出せずにいた。

しかし、幹夫親子と交流するうちにまた介護職に戻ると打ち明けてくれる。幹夫は思い切って「うちへ来てくれないか」と頼む。

そうやって佳代子が通いでヘルパーに来る日々が始まった。報酬は週払いで3万円。この小説には説明がないけれど、土日休みとしたら一日6千円、時給は700円から800円交通費込みと言うところ。単行本発行が2007年としても、この時給安すぎるのではないだろうか。

父親は食事もトイレも自立、介護と言っても話し相手したり、一緒に習字したり、と楽そうである。佳代子は介護のプロであると同時に母性の固まりのような人。その優しさに父親も幹夫もたいそう心が安らぐ。

やがて幹夫は住み込みで働いてほしいと頼み、佳代子はカバン一つでやってくる。そしてその夜、二人は深い仲になる。

いやあ、幹夫のこんな介護なら楽だなあと私は思った。これからが本番。ご飯食べさせて、排泄の世話をして、いつ終わるとも知れない(いつかは必ず終わるけれど)格闘としての介護が待っている。

亡くなった嫂の夏美は献身的に介護していたし、佳代子もまた天使のように父親に接する。そして幹夫を女性としても相手してくれる。これってファンタジーだと思った。

殆どの場合、徘徊する父親について歩いても天使には出会わない。その人が家に週払い3万で来てくれて、夜は自分の相手もしてくれる。。。。って、男の書く介護小説ってこんなものかなあと思った。

これからが大変です。週3万では済まないだろうし、それならば、結婚して今度は無償で介護させるのかな。自分が家の経済を支えるため働きに出て、妻に介護を頼む流れになるのかな。

妻に親の介護の報酬を払う男はいないので(たぶん、我が家もそうでしたよ)、なんで私ばかりただ働きと妻が切れる・・・いえいえそれは私の場合で(お金はどうでもよろしい。困った人に世話するのは当然。それに対して、夫及び夫親族から感謝の言葉がないばかりか、まるで私は初めから存在しないような言動の数々に傷つく)、作者の造形した心優しい佳代子さんに限ってそんなことはない。

けれど、尽くしたら尽くしたで、女としての私は悔しい。女には元々無限の無償の愛が備わっているとでも?

先のことはわからない。しばらくはこのままでいられそうな気がする。幹夫の独白で作品は終わる。介護を通じて人と人が心を通わせる美しい話も、三人の気持ちと負担の割合のバランスが何とか取れているから。介護度が進み、それがどうなるか、それはわからない。

ちょっと歯がゆい小説だったかな。現実はもっとシビア。でもそんなのは読まなくてもいいかな。実際に経験したのでもう思い出したくない。と言うのが正直な気持ち。

もう一つの介護の小説。

「テルちゃん」 玄侑宗久 - ブログ (goo.ne.jp)

こっちの方がよりムカムカした。

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「山村を歩く」岡田喜秋

2021-10-01 | 読書

作者は大正末生まれ。JTBの前身、日本交通公社に入社し、同社が出していた(今もあるのかな?)旅行雑誌、「旅」の編集長をした後、横浜商科大学で、観光学を教える。

ご存命のようですがすでに90歳を超えたご高齢。旅行に関する著書多数。

親本が1974年発行、のちに文庫になり、2016年、ヤマケイ文庫として再発行。

各地のぶっちぎりの奥地を一人で、徒歩で旅する紀行文。旅行は1960年代から70年代にかけてでしょうか。今から50年以上前の辺鄙な土地へ旅するのはそれはそれは大変と思いますが、奥地の風物、人々の暮らしへの好奇心から日本各地を旅している。

今なら高速道路も出来、たいていの奥地も車で行けるけれど、この時代は鉄道とバス。あとは歩き。とても苛酷な旅行記で、胸が苦しくなるほど。

しかし奥地にもまだコミュニティがあり、人が暮らしている。路線バスも通っている。平家の落人と自称する家を訪ね、貴種流離譚の残る歩訪ね、あるいは白神山地を津軽側から辿ろうとする。その時代の日本の奥地の様子を定着していると思う。

とても面白く読んだのですが、地図がその地域だけで、たどり着くまでのことが省略されているので場所の感覚がつかみにくいのと、写真が全然ないのでイメージがわきにくかった。

読むのに骨が折れてちょっと疲れたかな。今度はもう少し今の時代に近いもの、現代のものを読んでみたい。


いよいよ結婚の運びとなったようで、よかったと思いました。

でも女性の方はPTDSになっているとか。無理もありません。三年にわたっていろいろ言われたら、誰でもおかしくなります。

マスコミの論調に流されて、結婚に反対していた一般国民の一部の人は、本当によく反省してもらいたいものです。皇室の為を思って反対したつもりでも、全然為になってませんね。むしろ逆効果。今回の件で、今後の結婚はますます難しくなるのでは。血筋で続くこの制度、こんなことで大丈夫?

一度報道されると、マスコミに家族の来歴をあれこれ暴かれ、日本全国に知られてしまう。それを乗り越えてまで結婚しようとする人はいるのでしょうか。

また一般人よりも自分達は結婚がうんと難しいと感じ、心塞がれる思いかもしれません。系統が先細りになるのを防ぐために、男系の血を引く人を養子にする案も聞いたような気がしますが、本人の意思を全く無視して、こんなめちゃくちゃな人権侵害はありません。そこまでして男系にこだわるのは、この国の救いがたい男尊女卑の顕れ。

続けていくなら、臨機応変に変えていかなければ。それももう時間はあまりありません。


相手の人は外国で勉強して難しい資格を取って、迎えに帰られるまでになって、立派だと思います。あそこまで騒がれては日本での就職は難しかったでしょう。

しかし、夫が朝よくつけているワイドショーで(無責任な言説が横行して私は大嫌いですが)、ただの一度もよく頑張ったというコメントを聞いていません。誰か言ったのでしょうか。

学費、生活費はどう工面した?とか、資格取ったら取ったで、仕事は大変、物価も高いとか、詮索したり、けなす話ばかり。男性はそれに耐えているのかなあ、すごく根性の座った人だなあと思ったけど、女性の方はとうとう病気になったんですね。よそのお嬢さんたけど、かわいそうでたまりません。

早く結婚して嫌な嫌な日本から脱出して快復してもらいたいものです。

お母さんの金銭トラブルはお母さんが解決するべきこと。マスコミがお母さんのあれこれを暴き立てて、それに流されて結婚に反対して、反対する人は娯楽か、義憤か知りませんが、よそ様の結婚、反対するなんて思い上がりだと私は思います。その人の為と思っても全然なってないばかりか逆効果。反対するのは親親戚まで。結婚はどんな人でも私的なものと私は思います。

若い人に、好きな人と結婚させてあげましょう。そして、それを見守り、時にはサポートし、失敗しても人生はいつでもやり直せると力づける、それが年長者の取るべき態度ではないでしょうか。

早く快復して幸せになってもらいたいものです。

人類は長い歴史の中で、人権を一つ一つ勝ち取ってきました。古代的権威をまとった制度の中の人だけを普通の人間が持つ人権から疎外していいものでしょうか。

それを許す社会はいまだ未成熟と言わざるを得ません。すぐにはなくせないとしたら、制度を残したままでももう少し生きやすい方法はあるはずです。

私ですか、もし生まれ変わって、どんなに頼まれても、どんなに好きになっても絶対に行きません。なぜかって。

だって蚕の世話があるそうなので。一匹、二匹じゃなくてものすごくたくさん。それに桑の葉を与えるそうで、ひょええええええーーーー

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「染と織り」萩野健太郎

2021-09-19 | 読書

2012年刊行。民芸の教科書シリーズの一つ。

伝統的な染め、織りの知識から始まり、日常に使うものに用の美を生み出し、日本における民芸運動の先駆けとなった柳宗悦などの功績、全国の産地を訪ねての詳細なレポートなどなど。あとは買い方、身近に置いて楽しむためのアドバイスなど。

各地の染め、織りの現場を訪ねて作り方を聞き、作品の紹介をしている部分が特に読みごたえがあった。安価な工業製品がいくらでも手に入る時代に、伝統産業を継承、作り続けてまた次世代に伝えていく。大変な努力がいる。

材料なども手に入りにくく、人手がかかるので高価。それでもそれらの作品に引き付けられるのはなぜか。

それは無駄なものがない美しさではないかと私は思う。長い間に選び取られた一番いい材料で、無駄なく、手間はかけて一つのものを生み出す。近道しようとごまかすと余計なものが入る。それを排除して仕上げた作品は、職人の手技が反映された誠にすっきりとした仕上がり。そういうことかなと思う。

沖縄戦でほとんど失われた沖縄の織物の復活、植物の葛から糸を取って布を織る気の遠くなるような作業。着尺一本に20万回、葛の茎から取った繊維を結んで糸を作る。

その二つに特に感銘を受けた。

葛布に草木染した着物、今ではとてつもなく贅沢だけど、ある時代の人はそれを日常着にしていたことでしょう。

食べ物を作り、着るものを作り、住まいを作る。遠い昔からの手技の中に人の知恵が詰まっている。お金出して何でも買う今の時代の私たちは、手仕事という面では劣化しているのでしょうか。わざわざ伝統工芸品買う必要はないけれど、繕い物一つの手の使い方など、体が忘れていくことが怖いですね。

山陰は絣が盛んだっそうです。

米子市の弓浜絣。2016年、米子市のアジア博物館、井上靖記念館で。

左上。小さめの絵絣が弓浜絣の特徴。

雲州平田は海を埋めた低湿地、塩分の残る土地は綿がよくできたそうです。

2018年頃。

平田の商人が、毛利氏築城の折、広島へ呼ばれ町普請をします。以前は平田屋町という地名が市内にありました。本通りの北側。

あと、月山富田城麓の広瀬絣、記念館へ行ったけど写真見つからず。いずれまた。

旅先で機織り体験をし、藍染体験をするのは楽しい。その土地の心に触れた気がする。

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「感情的にならない本」和田秀樹

2021-09-18 | 読書

どこで買ったのかな。夏の初め、イオンのブックオフで100円で買ったかもしれない。

ずいぶん前に読んで、そのままになっていたけれど、記録として書いておきます。

感情的になると人からは幼稚に見えるし、人間関係も損なわれ、自分も気分が落ち込んでいいことはない、という話の流れです。

主に会社勤めの中でのいろいろな理不尽にどう対処し、流していくかということなので、私には会わないのですが、少しずつ読みました。

自分の価値観が絶対と思わず、そういうこともあると軽く流して心を楽にする。のがいいそうです。あいまいさを許すということだそうで。

ふむふむ、人が自分と違っているのを面白がるか、許せないと思うのか。その違いですね。

先日、久しぶりにラインで話したママ友は誰とでもすぐに仲良くなれる人。でも人の詮索はせず、自分の過去は語らない。現在、見えるものだけで人とつながる。人を否定しない。私にはそう見えました。


この半月ばかり、嫌なこと思い出して落ち込んでいましたが、時間が経てばやがて何でもなくなるでしょう。というか、その程度のことであれこれ考えてしまう私って、きっと他に心配事がないからでしょうか。

世の中にはいろいろな人がいる。義理の付き合いは最小限にして、気持ちいい付き合いをしてこれからは過ごしたいと思う。

それにしてもコロナです。コロナだから会うのや連絡とるのを遠慮している人もいますが、私の知らないところでみんなで楽しく遊んでいるんじゃないかという被害妄想。

しかしながら、私は一人でも全然平気で、一人でどこへでも行ってしまう人なので、どこかにツルミたくないオーラが出ているのかもしれません。人と遊ぶのは子供のころから苦手だった。それが人を遠ざけるのかも。


人には期待せず、自分で自分を楽しくする。これからはいっそうそうですね。と、朝からばあちゃんの長話、失礼しました。

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「暁の宇品」陸軍船舶司令官たちのヒロシマ 堀川恵子

2021-08-12 | 読書

宇品とは広島デルタの南端、広島港に臨む一帯を指す。元は遠浅の海で明治時代に埋め立てられ、港が作られた。

日清戦争のときには、広島まで開通していた山陽本線、突貫工事で広島駅から宇品を結ぶ宇品線を利用して、宇品港から大陸へ兵士や武器、食糧などが朝鮮半島に送られた。

以後太平洋戦争が終わるまでの約50年間、宇品港は陸軍の海上輸送の港として、重要な役割を果たす。

ここに置かれたのが陸軍船舶司令部で、海外派兵の最前線でもあった。

この本は8日の日曜日に息子が「お母さんへのプレゼント」と言って持ってきて、その前のお嫁ちゃん情報で何か本をくれるらしいと聞き、「読みたくない本もらっても」と思っていたけれど、案に相違して大変面白く、360ページ余りの本を4日間で読んだ。


先の戦争に関する本は膨大な数が出ているけれど、これはロジスティクス、兵站という観点から戦争の実態を明らかにしようとする労作。

著者は広島県生まれで、2004年まで地元で新聞放送記者をしていたという。たくさんの資料を駆使して船舶司令部の誕生から消滅までを辿っている。

陸軍船舶司令部・・・この矛盾した名前。陸軍なのになんで船がいる?

とここではたと思い当たる。日本は島国なので外地で戦争する場合、何から何まで船で運ばないといけないという事情。それを考えたら、作戦を練るのは東京の参謀本部としても、実際の実務は広島の司令部ということになる。

必要とされるのは軍人精神よりも、実務能力。司令長官は船の調達、後には開発、敵地での荷揚げの計画、などたくさんの仕事がある。

司令部の発展の基礎を作ったのは二代目長官の田尻昌次、船舶の数を増やし、上陸用舟艇の改良に勤め、上海事変では前もって現地調査をして船をつける場所を決め、見事な上陸作戦で世界中を驚かしたとか。

しかし、日本に資源が乏しく、資源を輸入するにも、海外に戦線を広げるにも何よりも船がなければ話にならない。その貧弱さを一番よく知っているのが陸軍船舶司令部で、その長官でもあった。また民間の船も徴用されて国内産業にもやがて支障が出始める。

中国戦線が膠着し、それを打開するために東南アジアへ戦線を広げて資源を日本に持って来る。参謀本部の方針がその流れになりかかった1939年、田尻は南進論に反対する上申書を陸軍中枢のほか関係各省庁に送る。

そしてそれがきっかけとなって軍務を解かれる。民間で言うと解雇。直前の倉庫火災の引責辞任という形だけど、本当はこの上申書が陸軍の方針と違っていたからではと本書では示唆している。

その田尻司令官の字で書かれた石碑が近所に残っています。

長い間に傾いていますが、この公園のあった場所に司令部があったそうです。

場所は雑貨などのカクタスの北側、宇品中央公園あたりです。

同じ公園の中にこちらの石碑も。

今は人気のない公園ですが、ここが日本陸軍の兵站の中枢部。知らなかったとはいえ、いやはや我が無知を恥じるのみ。

整備されたのはこの20年くらいの間。その前は広大な空き地にススキが生え、廃車があったり、バラックの建物が少しあったり、湿地帯もあったりで近寄りたくない場所でした。

他はこちらで。

広島港の朝焼け - ブログ (goo.ne.jp)


田尻昌次長官の後に来たのが佐伯文郎。戦線は広がり船は足りず、船を作る物資もなく、その苦心ぶりは目を覆いたくなるほど。民間の小さな船を船員ごと徴用、南方に兵士、武器、食糧を送ってもあとの補給が続かない。

海軍は海戦用の船は持つが輸送船は持たない。護衛には古い遅い船しか出さない。

もうお・・・・どう考えたって戦争は無理。無理だけど、現場を知らない軍の中枢が無理な戦争をする。

佐伯は穏やかな人柄で、船員の死も軍人と同じに保障してほしいと上申したり、出征兵士をこまめに見送り激励したりしている。しかしどう考えても戦争を続けるのは無理。

やがて二人乗りの舟に自動車のエンジンを積み、敵の舟に体当たりする作戦を船舶司令部では考える。そのための10代の生徒を全国から集めて訓練する。

私は光市の1人乗りの特攻舟や海に潜って敵を一人で迎え撃つ「伏龍作戦」というのは知っていたけど、この作戦は初めて知った。

小豆島の隣の豊島、宇品港に近い島や各所で訓練していたそうな。人の命が紙クズよりも軽い時代。


そして広島は1945年の8月6日を迎える。

突然の閃光に爆風、宇品は市中心部から4キロくらい離れていて被害は軽微、佐伯司令官はまず市内に偵察を出し、尋常ならざる被害と知ると、全軍を民間人の救済に投入する。船で川をさかのぼって被災者の救出、消火活動、道路の確保、軍の食料の放出、炊き出し、などなど。

そして各部隊に筆記具を持たせ、記録を取らせる。死亡者の氏名、分からないときは特徴や遺品の保管になど。宇品ではなくて、今の市庁舎のある国泰寺まで行って外枠だけになった市庁舎に蓆をしいて寝起きして指揮を執る。

敗戦までのこの足掛け10日間の働きは、目覚ましいものがあると私も思う。

著者は佐伯文郎は関東大震災を軍人として経験し、民間の救出に当たったからではないかと類推する。

佐伯はB級戦犯として1957年まで入獄し、仮釈放の後の1958年4月13日、宇品の千暁寺で開かれた「暁部隊戦没者英霊の追悼法要」に参加し、長い弔辞を読む。そこでやっと佐伯司令官の戦争は終わる。

このお寺は宇品の埋め立てをした千田貞暁から字を取ったもので、港に近く、外地から帰った遺骨はまずここに納められたそうです。

それは知っていたけど、法要のことは知らんかった。コロナで写経休んでいたけど、今月は千暁寺の写経に行く予定です。

大変に面白く読みました。

人は生まれる場所と時代を選べない。

戦争はよくないけれど、貧しい家の優秀な子弟が軍に入り、傍系ゆえに広島へ来て実務に携わる。善意で仕事を極めてもどうしようもないこともある。その中でもよく頑張ったと思う。

特に被爆者の救援は、力を温存するためには適当にしていてもよかったのだとこの本にある。現に江田島の海軍兵学校からはただの1人も被爆者の救援に出ていないそうで、そんなことでいいんかなとばあちゃんは思いました。

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「日本残酷物語」のうち、土佐梼原の乞食 宮本常一

2021-08-06 | 読書

今朝の朝日新聞に、いまだ支持される日本残酷物語についての記事があった。

おお、懐かしい。今は平凡社ライブラリーに言っているロングセラー。

貧しい人々の話が、現在に通じるものがあるそうで。


本を探して記事にある「土佐梼原の乞食」だけ読んでみた。写真の本は1976年の2版6刷。

私生児として生まれ、祖父母に育てられ、よそへ嫁いだ母は早くに亡くなり、学校へも行かず、子守りをする女の子の後について遊んでいた子供時代。その人に宮本常一がじっくり話を聞いている。

やがて祖父母が亡くなり、伯父に言われて15歳でばくろうの親方に奉公に出る。ばくろうとは家畜の売買業者。利ざやで稼ぐ。昔は土地を持つ農家以外に、農山村にも腕一本で稼ぐ様々な業種があった。

この人は家を持たず、ばくろう宿を渡り歩く。経営者は未亡人が多く、男女の仲になると親切にしてもらえる。それもまた生きる知恵。その娘とねんごろになり、伊予から土佐へ駆け落ちする。

納屋を借りて二人で住み、紙問屋の下働きで、楮の買い付けに村々を歩く。やがてまたばくろうに戻り、目を患って失明。30年も盲目の暮らし。。。。

この話の読みどころは、貧しい人の悲惨な話であると同時に、結婚後も、出会った女性とは情を交わし、豊かな性生活をしていること。決して悲惨なだけの話ではないと私は思った。

今朝の朝日新聞によると、「土佐乞食のいろざんげ」というタイトルで、地下出版されたわいせつ本の中に所収されていたという。

今朝読んだ感想は特にわいせつということはなかったけれど、元の本はもっと詳しくそこらあたりを書いていたのかもしれない。

昔の男性は、そして今もおそらく、自分本位。この人は女性を大切にする。それもまた生きる知恵ではあるけれど、「男がみんな女を粗末にするけれど・・・わしは女の気に入らんようなことはしなかった。女のいうとおりに、女の喜ぶようにしてやったのう」と言うしみじみとした述懐には、男も女も学ぶことがあると思う。

放浪していてはたまに実家に暮らす妻の元に立ち寄っていたけれど、盲目になってから妻の所へ行くと「やっと戻ってくれた」と泣いて喜ばれたそうで。

この話の時、話者はすでに80代。梼原の橋の下に妻と二人で暮らす。地域の有力者からそこに住んでいいと許され、妻は各家の残り物をもらう生活。

うーーーむ、話を聞いたのは戦後、語られた内容は明治終わりから大正時代のことかなと思う。歴史の本には出てこない庶民の暮らし。悲惨と言えば悲惨だけど、学ぶことも多い。

地域社会がどんな人も許し、いる場所のあった時代。そして生きていけた時代。そこが今と違う。


この本は結婚後、地元の学校へ勤めていて全巻を図書室で借りて読んだと思う。後に古本屋で見つけて買ったのだったかな。捨てがたくて今に持っている。こうして読み返すことがあるのは名著。これはヤフオクに出さない。

これ以外にも「忘れられた日本人」を読んだ記憶があるけれど、今日は見つからなかった。

というか国木田独歩の「忘れえぬ人々」と混同して記憶していたのではないかと思う。

あの本もよかった。自然主義の面目躍如。中二の夏休み、風の吹く涼しい座敷で横になって、母親は午前中の農作業と夕方からの作業の合間に昼寝している。今の時期なら草取りかな。草と言ってもウキクサです。ヒエはとんでもない。

その傍らで読んだ。本は学校の図書館で借りた。近代文学は10代に、たいてい寝転んで読んだ。

父は勤め人で、昼間は家にいなかった。

60年も前のことがきょうは鮮やかによみがえってきた。そして人間は気がついたときにはもう自分らしく生きている。それはもう逃れ難い道筋であります。

この私が夏のコートでテニスしたり、はたまたレオタード姿で平均台の上にいるはずがないのであります。

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「女ですもの」 よしもとばなな 内田春菊 

2021-08-01 | 読書

漫画家と作家、ほぼ同世代の結婚、子育てなどに関する対談。お二人は普段から知り合いらしく、読者にはよくわからないエピソードについても語られる。

しかし、気にせずに読み進んで行けば、今の時代の(と言っても本の出版は14年前)女の生き難さに関して、別の見方があり、窮屈に考えることはないと心が軽くなるような読後感でした。

とは言え、私自身は結婚したのも子育てもはるか昔、価値観も今とは違う時代ではあったけど、これからはどう変わっていくのか見取り図を示されたようにも思う。

一人の男性と結婚をする。戦後の民法では二人で新しい家を作り、戸籍もそのように作られる。しかし、戦後76年がたっても、嫁に入ってそこの家の考え方、やり方に慣れ、その家族のために尽くすべきという価値観はあまり変わっていないように私には思える。若い時は毎日のことに夢中で深く考えることもなかったけど、節目節目では納得いかないこともなかったと言えば嘘になる。

内田氏は離婚後に同じ相手と事実婚を選んで、この本の刊行当時は子供を含めた家族として暮らしていた。(今は事実婚は解消しているとか)

ばなな氏は初めから籍は入れずに子供は産んで育てている。

二人とも嫌なものは嫌と言って、理不尽なことは受け入れない。その潔さがうらやましかった。それというのも世に認められる仕事を持ち、人に頼らなくてもいい収入があるから。と、ご本人たちはひけらかしてないけど、身も蓋もないことを私は考えた。女が収入を得ることは、いまだに家事、育児の縛りがあるので大変なことで、その努力に対しても頭が下がる。

それでも男は女を自分の管理下に置きたがり、女性が活躍するのを快く思わない。春菊氏の友達の漫画家が、故郷の同窓会に出ての帰り、わざわざ追いかけてきた男の同級生に、「東京で漫画家しているからって、いい気になるなよ。天狗になって嫌な女になるなよ」と言われたそうな。

感じ悪るぅ―。いつでも女の上に立ちたい男は相手にしない方がよさそうです。

ばななさんは、昔同棲していた男性のお母さんが新潟から新幹線でいきなり来て、帰宅すると家にいたそうな。

それ、ちょっと困りますよね。私も、いきなり来るという夫の親族に困った経験あり。掃除していない家の中、見られたくない。ましてやアポなしでは。

いいじゃないの、家族だからって、姑は思うかもしれないけど、籍も入れてないのに嫁扱い。それがきっかけで別れたそうです。

姑の立場の私としては、息子には息子の暮らし、介入しないに限るとの学びを得ました。

先月、大分県で。

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「ハブテトル ハブテトラン」 中島京子

2021-07-31 | 読書

呪文のような題名は、備後地方(広島県東部)の方言で、ふてくされている、ふてくされていないという意味。題名が秀逸で、きっと面白いはずと、中身をよく確かめもせずに買ったけれど、期待にたがわずたいそう面白かった。

内容は、学級崩壊で登校拒否になった五年生ダイスケが、東京を離れて、母親の実家に二学期の間だけ預けられ、地元の学校で人と出会い、行事やお祭りに参加して成長していく物語。

児童文学の体裁で読みやすいけれど、そこはそれ、直木賞作家の作品、どの人物も個性的で存在感があるし、伝統産業、下駄の生産地としての福山市松永町の土地の描写もリアルで、大人が読んでも充分に面白い作品になっている。

この小説のハイライトは、ダイスケが気まずくなったまま愛媛県の今治へ転校したサノタマミに会いに行くところ。

尾道今治間は路線バスがあるけれど、それに乗ったのでは小説にならない。

初めはおじいちゃんの知り合い、訳アリのハセガワさんの車で、エンストしてからはレンタルサイクルで、最後はレンタルサイクルを世話してくれた人の車で今治城で待っているサノタマミに会い、別の車で迎えに来てくれたハセガワさんに連れられて無事帰るところ。

尾道今治間は60キロくらいあるかな。

今年5月、因島の白滝山から見たしまなみ海道。あちら尾道方面、橋は因島大橋。四国はこの写真の背後、まだまだ遠いです。

橋には自転車道が併設されていて、以前は外国人のサイクリストも多かったけど、子供が走るのは、というか大人でも、橋の高さまで坂道を自転車こいで上がるので大変です。

その大変さもよく書けていて、少年の成長物語にもなっている。

三学期はまた東京の学校へ戻るダイスケ。松永で出会った人と出来事がダイスケを大きく成長させ、学級崩壊の学校へ戻ってどう切り抜けていくか、それは読者の創造に委ねられる。

案外うまくいく気もするし、ダメならいつでも戻っておいでと、松永の学校の先生が言ってくれてるので安心。読者も安心。


この本を「ミユキテーブル」の上に放置していたら、夫が「ハブテルは標準語と違うんか」と言うので笑ってしまった。広島県の西部でもハブテルって、年寄は普通に言いますが、違います。もちろん方言です

私の実家地方では「どくれる」というのがありますが、微妙にニュアンスが違う。子供が軽く拗ねるのと、大人が本気でへそ曲げる違いかな。

この作品の中では、ダイスケに恋心を抱く同級生の女の子との言い合い、(お前)ハブテトル、(うちやあ)ハブテトラン、ハブテトル、ハブテトランと続いて行く。アッという間に方言を会得して、コミュニケーションをとるのも子供ならばこそ。

その子は「絶対に東京の大学へ行ってまたダイスケと会う」と口にする。今治のサノタマミは中学生の彼氏ができて大人っぽくなっているし、この年頃は女子がうんと大人。思うように生きていく予兆がして頼もしい。

上の方のミユキテーブルですが、年末、三男が車に積んできた立派なコタツ付き座卓。無垢材の真っ黒な塗装。これは嫁ちゃんの趣味と思うけれど、息子宅、お客さん誰も来ないので邪魔だと、譲ってもらった。ありがたや。

靴はいて玄関で、「ごめん、カメラ取って。ミユキテーブルの上にある」などと使う。

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鉄道と国家─「我田引鉄」の近現代史  小牟田哲彦

2021-07-28 | 読書

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夫が買ってきて、まだ読んでなさそうなので、拝借して読んだ。

大変面白かった。

ざっと言えば、鉄道草創期からやがて国有鉄道となり、近代化を支える大動脈として整備された経緯。

大物政治家が鉄道行政に介入して、経営的側面からだけではありえない紆余曲折のあれこれ。

世界銀行から借款して整備された新幹線。それはやがてシステム全体を輸出する一つの技術体系となっていく。と、ざっとこんなところでしょうか。


鉄道導入期、新政府の財政担当だった大隈重信は、お雇い外国人から「ところでゲージはどうしますか」と聞かれ、「そも、ゲージとは何たるか?」と聞かねばならないほど、それが当時の我が国の状況だった。

日本の鉄道は軌間1067cmの狭軌、輸送力は劣り、安定走行も劣る。世界基準とは違うけれど、当時の財政状況から広軌は難しく、大陸と違って地形の複雑な日本で、少しでも早く鉄道網を整備するためという事情もあったのではと、本書では類推している。

初めの新橋横浜間は、実用というよりも新政府の威光を示し、併せて諸外国に近代国家であることをアピールする意図があったとか。なるほど。やがて西南戦争を経て、その輸送力が次第に軍部にも理解されるようになり、鉄道網は次第に全国へと整備されていく。

昨年読んだ「不思議な鉄道路線」という本では、国防上、鉄道を内陸部に通したい軍部と、採算面から人口の多い沿岸部を結びたい鉄道当局の間の綱引きの歴史が興味深かった。

今でこそ、高速道路網が全国に張り巡らされ、鉄道一択の輸送体制ではないけれど、つい30年くらい前まで、地方では人と物の輸送にまだまだ鉄道の地位が高かった。

そこに政治家の地元への利益誘導という素地があり、私が若いころはよくそのことが話題(問題)になっていた。

田中角栄の上越新幹線、大野伴睦の東海道新幹線岐阜羽島駅、荒舩清十郎の鉄道ダイヤへの政治的介入などなど、今に記憶している。

今回分かったのは、岐阜羽島駅は地元への利益誘導の側面もあるけれど、岐阜県内に駅がないのが不満の地元民と国鉄の間に立って、調整した妥協の駅でもあること。岐阜市まで迂回すると高速性が損なわれ、岐阜と大垣と等距離の場所に作ったそうで、当時はものすごく批判されていたけど、まあ仕方ないかなと。もちろんのぞみは停まらない駅。

中央本線を、木曽谷、伊那谷どちらへ通すかの時は、木曽谷を通る代わりに、岡谷から伊那谷の入り口辰野まで南下してまた塩尻にに戻る。これも地元政治家の力でと言われているが、トンネルを作るのが大変だったという事情もあったそうで。

総じて、昔の人は鉄道が地元を通るかどうかは、その地域が発展するかどうかの分かれ目、死活問題だったのだと改めて知った。


その後、国鉄は巨大赤字で分割民営化、全国の赤字路線は多くが廃線となる。一方、新幹線は世界銀行から融資を受け、政権が変わっても継続して開発し、前の東京オリンピックの確か10日前、1964年9月30日に開業したと記憶している。

オリンピックもそうだけど、この開業に地方の高校生も、新しい時代が来たようで嬉しかったのを憶えている。

鉄道は時代がどんなに変わろうと、社会の基本インフラには違いない。一方、地方では道路が整備されて高校生の通学くらいにしか使われない路線も数多くありそう。なくなれば、住めなくなる人も出てくる。


長男はものすごい鉄道オタク。広島電鉄は各地の中古車両を買い受けたりして種類が様々。我が家は路面電車の音が聞こえる場所にあり、家にいるころは「・・・型」と電車の型番を当てていた。いつの間にか聞き分けられるようになったそうです。

先日、旅行土産を届けたら「子供のころ、鉄道で旅行したかった」と申しておりました。そうだね、子供を後ろへ積んでもっぱら車移動。楽で安上がり。どこへでも行けるし、鉄道は我が家には贅沢だった。

鉄道好きはユニークで、一芸に秀でた人も多いんだとか。三男の友達、東海道本線の駅名が全部言える人もいるそうで、その人のさまざまにエピソード、以前は聞くのが楽しみだった。

私は特に鉄道好きではありませんが、息子たちと話すときのネタの一つも仕入れたくて。夏の暑い時は、出歩かずに本を読むのもまたよし。

7/22 大分県九重町 千町無田水田公園で。ハスの花盛り。

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「若き友人たちへ」ー筑紫哲也ラスト・メッセージー

2021-07-19 | 読書

先日、段原イオンのブックオフで中古本を一気買いした時の一冊。

筑紫哲也氏は1945年生まれ、早稲田大学卒後、朝日新聞社に入り、記者、ニューヨークにも駐在後、今はなき朝日ジャーナルの編集長、退社後は長い間ニュース番組のキャスターを務めていた。

2008年、73歳で死去。

この本は、早稲田大学と立命館大学の院生に2003年から5年間講義した講義録がもとになっている。

全体に、社会を見る目の基本になるリテラシーを身に着ける大切さを、若い人に噛んで含めるように話しているのが印象的。

単純な言葉に流されることなく、自分で考えることが大切と訴えている。自分の知や経験をひけらかすことなく、学生の地平にまで下りていく姿勢がお人柄かなと思った。

末尾には死後見つかった高校時代の文章が併録。すでに客観的に物事を見ようとする姿勢が見られて、ジャーナリストの素質が垣間見えるようでした。


付け足しとして。

昨年、大分県竹田市の滝廉太郎記念館を訪ねて、筑紫哲也氏が名誉館長だったと知りました。

学芸員のお話によると、滝廉太郎の妹の孫にあたるそうです。滝廉太郎の家系は、豊後日出ひじ藩の家老の家柄だそうで。日出藩は秀吉正室、高台院の甥が秀吉の養子になって木下姓を名乗り、関が原では東軍についてその功績から日出の地を与えられました。

豊臣家は大坂夏の陣で滅んだのですが、それは淀君、秀頼ライン、血縁関係はないけれど、木下家として江戸時代も豊臣家が残っていたことは、滝廉太郎記念館へ行くまでは知りませんでした。

生前、一度も滝廉太郎が大伯父だと言ってないところが氏のお人柄かと思います。

滝廉太郎の話を先日夫としていたら、日本のために残念だったと話しておりました。私が「本人は生きていっぱい曲作りたかったはず」と言った返しに。

ドイツに留学してすぐに結核を発病、帰国して大分で亡くなるんでしたか。

しかしその曲は今に歌い継がれているのが素晴らしい。人の命に限りはあるけれど、芸術は永遠。

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「家事のしすぎ」が日本を滅ぼす 佐光紀子

2021-07-09 | 読書

先日の世界遺産の本、イタリアのアマルフィは熱海とよく似た眺めなので、熱海を見たあとではがっかりする・・・とありました。

その心は山の斜面が海岸まで迫っているから。本の写真、熱海と思っていたらアマルフィでした。ほんとにそっくり。

イタリアはそんなに雨降らないし、街の後方の山に土なんか置いてないと思う。今回の災害は雨もよく降ったけど、人災。悪い業者を指導するのが行政。放置していたのでしょうか。広島県でも近年、土砂災害が多いけど、今回のは流れる量も多くて被害が甚大。

日本全国、まだまだ似た場所があると思います。早急に点検して、対策してもらいたいものです。

朝からスマホが鳴っています。我が区は街中とは言え、近世以後の埋め立て地が多い。元々島だった場所が地続きになり、その島の斜面も宅地開発しています。過去にも何度か災害が。と言っても近年は特に多い。

一戸建てよりは街中のマンションがまだしも安全、山の斜面の空き家を見ると、家族が終わって容れ物だけ残って、寂しい気分にさせられます。

ともかく早く梅雨が明けてほしいものです。


本の感想でした。

先日ブックオフで110円で買ってきて、すぐ読めました。夫、タイトル見て「今以上手抜きしてどうする」と独り言言ってましたが軽く無視。

なかなか面白かったです。日本の常識は世界の非常識、昔に比べて日本の女性の地位も上がったと思っていましたが、まだまだ。そんな感想を持ちました。

日本の女性は家庭に入ると家事育児、きちんとして一人前の縛りがまだまだ強い。食事は手作り、家の中はきちんと片付け、子育ても気を抜くことなく。それに加えて働く女性の数が増えたのですから、一人で完璧にと思うとどこかに破れ目ができる。

男性は残業をいとわず、転勤も受け入れる人でないと出世していかない。この構造が変わらない限り、女性は結婚せず、結婚してもキャリアを積んでから出産と思ううちに少子化が進む。

人口問題だけではありません。男性や子供が身の回りのことを必要以上に人に頼っている限り、生活人とての自立もありません。

私個人のことで言えば30代の10年間くらいは家にいましたが、その前は勤めていたし、40代からは自営業手伝い。主に計算いろいろ。

でも勤務するのに比べて時間の融通が利くので、昼間は出かけて、真夜中に仕事したりとかなりテキトーでした。

夫や子供に家事教えるより自分でした方が早いし、元々、そんなにきちんとしないので教えるだけの技量もなく。

反省しています。息子たちはお嫁ちゃんに鍛えられて、はたまた一人暮らしで何とかやっている模様。家に唯一残っている男性=夫には最近、何でも自分でするように言ってある。

例えば夜中に一人でヨーグルト食べるとします。スプーンと器、洗いもせずにテーブルの上に放置。朝起きて私が洗っていましたが、最近は自分で洗って拭いて片付ける。それができないなら食べてはいけないと宣言しています。

仕事は平等、家事も対等に。それでこそ男性も女性も楽になると私は思います。子育ては家族だけでなくて社会全体でサポートする仕組みが今以上に整って欲しいものです。高齢者の介護は介護保険でだいぶ良くなりましたが、子育ても働く世代から月に500円でもいいので保険料みたいなものを徴収、施設を増やしたり、支援金を出したりとできないものでしょうか。今の日本、高齢者の介護と医療はだいぶできてきたと思うので。

してもらって当たり前の家族の前では、家事はいくらしても空しい。その思いがSNSに向かうと著者は言っています。丁寧な手作りの暮らし。そこで褒めてもらいたいそうです。確かに。それが生きがいの人もいることでしょう。それもまた時間の余裕あらばこそ。

余裕のない人がそれを見て自分はコンビニだよりでダメと落ち込まないようにと著者は言ってます。海外の主婦はあまり料理しない。東南アジアでも朝から屋台利用して食事を済ませる。なるほど。

家の中で和洋中華、全部作るので道具が増える。和風の家に洋風の暮らし、家具もたくさん。片付かないので、昔は収納が婦人雑誌のテーマ、今は断捨離だそうで。それもまた家事の一種。果てがない。

その行き着くところがミニマリストだそうで、こうなると修行僧みたいと私は思う。物がなくても暮らしていけるのは社会的なインフラが整っているから。そして一人暮らしの人が多いように思う。都市化、未婚者の増大、少子化と不即不離。

最後に、焦って物を減らすより、田舎のおばあちゃんの家の居心地の良さでいいのではないかとあります。そうですね。その田舎のおばあちゃんの家に行っても、もてなされるだけではなくて家事能力身に着けて、自分のことは自分ですると田舎滞在ももっと楽しくなることでしょう。

家の中のこと、全部自分の責任と思わなくていい。少し気が楽になりました。

 

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「行ってはいけない世界遺産」 花霞和彦

2021-07-07 | 読書

著者は50代くらいの人でしょうか。初め文筆業、現在はアニメ、映画、ゲーム、J-popなどのコンテンツ制作にかかわるそうです。

どう呼べばいいのでしょうか。メディアクリエーター・・・アイデアを作って売る?

地方のばあちゃんは想像するだけです。

世界遺産とは、1972年にユネスコ総会で決められた条約に基づき、人類が共有すべき普遍的な価値を持つ文化遺産、自然遺産、複合遺産を指定したもの。先月末までで1,121件が指定されているそうです。

海外旅行のパッケージツアーは、その世界遺産を何か所周るかが売りだった。だったと過去形で言わなければならないのが悲しい。


世界遺産と言われれば、せっかく高いお金と時間を割いて見に来たのだから、無理やりにでも感動しなければと自分に言い聞かす。ガイドブックも人の旅心に水を差すようなことは書いていない。

なあんだ、こんなものと思っても旅の同行者の手前、感動した振りする。それでちょっとは感動するけれど、やっぱりなんか釈然としない。

分かる、分かる。そのもやもやした気持ち、私もそうだったからと力づけてくれる本です。

私の旅行の数など大したことないけれど、がっかりするのも体験のうち。そうそう、そうだったと旅仲間と語り合うように、楽しく読みました。


この中で、スペイン、バレンシアのラ・ロンハ・デ・ラ・セダは見応えを求めて行ってはいけないそうで。確かにこの本読むまで、世界遺産だってことも忘れていた。

15世紀から16世紀にかけて建てられた絹の取引所だそうですが、狭いのですぐ見終わります。

そのあと搭、そして海の領事の広間、オレンジの中庭と世界遺産はこれだけだそうです。

領事の広間から中庭を見る。全部で10分くらいの見学。あまりにあっけない。これのどこが世界遺産って・・・でも申請しないことには指定されないので、指定の要件充たした価値ある建造物とは思いますが。私にその価値を受け止めるだけの能力がないということで。

オレンジは日よけで実は酸っぱすぎて食べないそうです。

世界遺産より、隣接するスペイン最大級の市場「メルカード」。こちらに感動した。品数の多さと安さ。オレンジのジュースが1ユーロ。

ここでいろいろ買い物しました。

このブログの自己紹介の写真、バレンシアの旧市街に入る手前の門、セラーノスの搭の前で。2016年6月、朝の9時頃でこの陽射し。


モンサンミッシェルの名物は卵を泡立てて焼いたオムレツ。歯ごたえも味もないそうで、ご当地グルメを期待してはいけないそうで。

確かに、そうおいしいものではありませんでした。ものすごく人が多くて、ツアーの男性が一人いなくなって、添乗員さんが大変でしたが、見つけてもらった本人は全然悪びれてなくてと、関係なことが印象に残っています。

全体の印象は金毘羅さんみたいだなと。見学場所まで狭い石段を上がる。両側は土産物屋とレストランがぎっしり。

夕方、対岸のホテル前から。

フランス北西部、ノルマンディーの地の果て。遠くにポツンと三角の島が。次第に大きくなる。どこまでも広がる牧草地。。。。

その他に印象的な話として、私は行ってませんが、ナスカの地上絵。

セスナ機に乗って上空から。

ほらあそこ、あそこに鳥の形がと言われても砂漠になんかもやもやしたものが見えるだけで、全然分らない。見やすいように飛行機は右に左に傾きつつ旋回、気分悪くて戻す人複数。そのためのビニール袋も前もって渡されるそうです。

だから行かない方がいいなんて、ガイドブックには書いてない。これは行った人だけが分かる迫真の報告。


他のどの場所の紹介も、臨場感あふれ、本当に行った気分になれる素晴らしい本と思いました。世界遺産だというだけでありがたがらずに、自分の五感を駆使していいことも悪いことも体験しよう。旅の醍醐味はそこにあり。著者はそう言いたそうです。

写真もきれいでおすすめ。

著者が選んだ、世界遺産で行くべき5件は、ペトラ(ヨルダン)、サンクト・ペテルブルク、カナイマ国立公園(ベネズエラの奥地のテーブルマウンテン)、九塞溝、バチカン市国だそうです。

あなたは何か所行かれましたか。私は2か所です。そして2か所で終わりそうな予感。もう体力が続かない。

その他に世界遺産級の5つとして、死海、マンハッタン、クアラルンプールのペトロナスツインタワー、フランス南西部のルルド、クリスタルの洞窟(メキシコ)があげられています。

ルルドはこんなところです。

2014年6月、フランス、ルルドの蝋燭行列1 - YouTube

この行列がやがて教会前の広場に集まり、春から秋の終わりまで毎夜のミサがあります。

貧しい少女の前にマリアが何度も現れ、その場所から沸く水で病気が治ったということで、世界中からご利益にあずかろうと巡礼者が集まってきます。街はホテルだらけ、教会は比較的新しく、雨除けの為か、巨大な地下空間もあり、一大ビジネスになっているのかなあと、罰当たりな私は考えました。

参加者は手に手にろうそくを持ち、前の大きなたいまつの動きに合わせて、聖歌を歌いながら左右に振るのです。

これはツアーのコースにはなくて、夜、希望者だけ添乗員さんが連れて行ってくれました。参加者はご夫婦一組、あとは全員女性で全体で8人くらい。あとは各自でホテルへ帰ってくださいと言われ、初めはみんなでテラスから見下ろしていたけど、私だけ前に移動して写真撮って戻ると誰もいません。

あの時は焦った~

今ならスマホがあるけど、あの時は添乗員さんに貰った絵図だけが頼り。もう暗くなっているし、ホテルはどれも同じ造りだし、何よりも道には物乞いがいっぱい座って通行人を見上げているのが怖かった。

ホテルから石段を下りて左へ曲がったから、今度は逆に戻って右側に石段を見たらそこから上がる。。。。と必死でした。何とかホテルに戻れましたが、10分くらいがとても長く感じました。

翌朝、「あの人なら大丈夫」と他の方たちは一緒にホテルへ帰ったそうです。そうです、旅はすべて自己責任。今思い出しても胸がバクバクする。


ルルドのろうそく行列、ビジュアル的には面白いけど、何となく新興宗教じみてるかなあと。しかし、聖水を飲んで体が治るという教えに縋りつきたい人の気持ちもわからないといけませんね。列の最初は車椅子の人たち、迷信というのは遠慮したいのですが、思い込みの強い少女とピレネー山脈麓のいい水とが合わさっての一大観光地。

いろいろあったけど、今振り返れば、行ってよかったと思っています。

もう海外旅行に行くこともないかもしれませんが、旅行はいいこと悪いこといろいろあっても、見聞が広まり、心はリフレッシュしていいものだなあと思いました。

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「山登りで作る感染症に強い体 新型コロナウィルスへの対処法」

2021-07-05 | 読書

2008年8月 長野県御代田町、コンビニ裏からの浅間山。

右が主峰。左は外輪山の一部。頂上は立ち入り禁止で黒斑山まで行って眺めます。

クリックで拡大


長いタイトルで著者名はこちらへ。斎藤繁著。

著者は群馬大学医学部の教授で、付属病院の副院長。若いころから山に親しみ、1992年、ヒマラヤ連峰のクラウン峰登山に参加、高所登山の医学研究に取り組む。山での医療支援や登山者の健康管理の啓もう活動と、活動は多岐にわたる。

このところの出版界の流れとして、タイトルにコロナをつけたがる。一時期、福島原発関係の本がよく売れたように、大きな災害の時は、人は情報を、それも紙に書かれた確かな情報を求めたがるのかなあと思った。

そそっかしい私は、山に登ればコロナに罹らずに済んでしかも楽しいと早とちり、先日お中元の注文で外出した時に久しぶりに紀伊国屋で買った。

ヤマケイ新書というのは「山と渓谷社」が出している新書。20年くらい前は雑誌の方の「山と渓谷」をよく買っていたけど、いつの間にか新書のラインナップもたくさん。ばあちゃんもたまには出かけて世間の風に当たらないといけないようです。


前ぶりが長くなりましたが、結論から言うとコロナに打ち勝つ特別に方法は書かれてません。途中でこれは期待外れかなと思いつつ読みましたが、食べ物に気を付ける、脱水しない、毎日こまめに体を動かして心肺機能他、体の機能を保つなどなど、改めて確認することがうまくまとめられていました。

山歩きはバランス能力が大切ということで簡単なテストがあります。

65歳以上だと、開眼、両腕は腰、利き足の膝の内側にもう片方の足裏を付けて、何秒立っていられるかだそうです。

女性の評価の基準は以下の通り。

~4 低い

5~11 やや低い

12~25 普通

26~66 やや高い

67~ 高い

やってみました。先日孫と競争したときは50秒、この記事書く前には30秒。あれあれ?夜中だから?

とりあえずやや高いに収まっていました。この能力、なるだけ保ちたいものです。

この本で私は体を動かす大切さを教えられました。とにかくこまめに動く。幸い女性は家の中に探せば用事がたくさん。洋裁したり、インテリアを充実させるのもいいけれど、引き算の用事で体を動かすのもいいかなと思います。

押し入れ、クローゼットの片づけ、食器棚の整理、庭の草抜きなどして物を減らしていく。物を減らすと空気がよどむ場所が減り、家の中で風が通りやすくなる気がする。

我が家は街中でビルやマンションに囲まれまくっているので、その建物の間からの風が窓を開けているとよく入る。私一人の時は真夏でもほぼエアコンなしで過ごしている。って自慢みたいでごめんなさい。その代わり冬は特に一階は寒いです。

物を減らして心の中もすっきり。物から自由になって好きな場所へ行って好きなことする。しっかり体を動かす。老年の楽しさはここりあり。頑張ります。

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「死のある風景」 吉村昭

2021-06-14 | 読書

引き続き姑様の本を読む。

一つ前に読んだ昭和歳時記はエッセィ、同じ内容を小説にしたのもあり、10の作品からなる短編集はどれも戦争末期から戦後の、作者の身の回りにあったことをもとにして書かれている。

どれも破綻なく、よくできているけれど、特に面白かったのは東京から東北へ、闇米を買いに行く話の「煤煙」。殺人的な混雑ぶり、帰りには取り締まりで没収されることも多かったが、この主人公と同行者はそれぞれ2斗の米を持ち帰る。その様子が詳しくわかってよかった。

「金魚」は拝むと爆撃から逃れられると信じられていて、主人公の家の池にあるのをもらいに来る人がいた話から始まり、進んで戦争に志願する同級生と、病気で兵役に就くのが遅れ、結局生き残った主人公のその後の話など。

戦争という非常時には、人の境遇も激変し、生死の境もほんの偶然。その運命に翻弄されるとき、人の本質が垣間見える。感動する話もあり、見たくなかったすさんだ話もある。そこのところをうまく掬い取っている。戦争はよくないけど、小説の題材はたくさん転がっていたことでしょう。

でも、私はこれからもうこの作家は読まないと思う。男で旧世代の人だと、批判的にしか考えられなくなった。

その作品は「初富士」。富士山麓にある家の菩提寺に弟夫婦、嫂と連れ立って私は新年のあいさつと墓参りに行く。先代の住職の妻から手紙をもらっていたからである。

それは、小説家の主人公が小冊子に書いたエッセイについての問い合わせ。そのエッセィとは、戦前、東京で行われた主人公の祖母の通夜のあと、父親と先代の住職が酒を飲みに出かけて待合に行き、翌朝まで帰らなかったという話。

初めて知った彼女はショックを受け詳しく知りたいというのである。

「信じていただけに・・・裏切られたような悲しい気持ちになった」という相手に、主人公は「夫の生前の遊びを知って、嫉妬を感じている老女が微笑ましかった」と書き、最後にまた「老女が今でも女らしい感情を失わずにいることに微笑ましさを感じた」ですって。なんか上から目線。ご自分の書くことで人が傷ついたことへの反省がないと思う。当人にしたら微笑ましいでは済まない感情の波立ちがあったと思う。

いやいや小説です。作者を責めてはいけない。いけないのだけど、登場人物は作者の考えを代弁している。男にとっては大したことなくても、女にとっては一大事。相手が死んでいて、文句言えないのが一層悔しい。その感情に年は関係ない。

それにやたら「老女、老女」と書いてますが、70代後半。いまのその年代の人は若く個性的。決して老女とひとくくりにされていい存在ではありません。

このあたりが、もう時代に合わない作品と思いました。

あなたがこの女性の立場ならどうしますか。しかも知ったのが、読書会の仲間に教えられて。つまり恥ずかしい思いをしたということ。

私なら「絶対許さん」と腹立てるでしょう。墓石を蹴るかもしれかもしれんけど、相手は石、バランス崩して転んだら危ないので、うーーーん、どうするかな。死んだ人への仕返し、難しいけど、残された人生楽しく過ごして鼻を明かしたつもりになるかな。(性格わるうーーー!!!)

題名通り、どの作品も死を扱っている。結核にがん。がんも30年くらい前までは不治の病と恐れられ、患者には知らせず、本人は苦しみぬいて死ぬというのが一般的だった。今はがんも治るし、完治に向けて長く付き合う病気。告知もする。

この本読んでがん告知するようになったのは、今の時代の人が動揺しない人格者になったのではなく、がんが治るようになったからと気が付いた。治療を続けるためには本人に正しく伝えるのが前提条件。時代が変わったと思った。

姑様がこの本を読んだのは舅様が亡くなった後しばらくしてだったらしい。なんでこんな暗い小説集読んだのかなと思うけど、いっぱい悲しんで死の意味を考え、それまでを有意義に過ごそうと立ち直るために読んだのかなあと思う。

気丈な人で寂しいと一言も言わず、法事をして人が来てくれることを楽しみにしていた。

この本読んで、少し前までは死は社会的なもの、人のつながりが密で、人は人の死を悼み葬式にもマメに出かけていた。今は死は世間から隠され、ほんの近い人だけで送る。負担がなくていいけれど、そうまで死を忌み嫌っていると、死について考えることも減り、自分の死について覚悟ができなくなる恐れがあり。

特に今コロナ、身内も死に立ち会えず、寂しい時代になったのだと思った。

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「昭和歳時記」吉村昭

2021-06-11 | 読書

25年前の文庫本。エッセイ集。それまでに雑誌か何かに連載されていたらしい。

昭和2年、東京の日暮里生まれの著者が、戦前戦中の世相、家族のことなどを各回のテーマごとに思い出している。

思い出していると言っても、膨大な資料を駆使して歴史小説をたくさん書いてきた人なので、内容は正確、筆致は冷静、家族の悲劇も次々起きるけれど、死が今よりもずっと身近だった時代、感傷に走らずに過不足なく書いていると思った。

特に戦争中の空襲の話などは迫真の描写で、自分の家が建っていた辺りにできたホテルで講演会して落ち着かないというくだり、エッセィでしか書けない切ない話である。

私は著者の子供の世代で、昭和三十年代に日本のあらゆるものが変わったという、その三十年代を憶えている最後の世代でもある。

東京と地方の違いはあっても「蚊帳」は普通にあったし、冬になると手編みのセーターを着ていた。我が家の場合は羊毛も自家生産、羊を飼っていて、今の時期、業者さんが毛を刈って持ち帰り、毛糸や紳士服の生地に加工して持って来ていた。

東京の人は戦後の買い出しに殺人的な混雑の列車に乗っていたけれど、県庁のある地方都市に隣接する我が実家の付近では、「町から買い出しに人が来よった」そうで、ちょっと目を出したホウレンソウでも分けてほしいと言われたこともあったとか。

おやまあ、本の感想から離れて自分のふるさと自慢になってしまいました。

著者は、昭和は古きよき時代ではなかったと言っています。貧しく、不潔で、戦争もあり。しかし、そんな時代にも、人は助け合ってけなげに生きてきた、その息遣いが聞こえるような本だと思いました。

目の前にあって当たり前すぎることも、長い年月が経てば忘れ去られてしまう。作家の達意の文章で、郷愁も刺激されつつ、楽しく読みました。

これは姑様の本。ヤフオクに出すつもりらしいけど、アマゾンでは1円です。送料込みだと300円くらいになるのでしょうか。いずれにせよ、コスパのいい読書体験でした。


追加として、この本の中で、空襲で亡くなった人を火葬にする場合、棺桶は自前で調達、火葬場へも燃料持ち込みだったそうです。燃料ない人は火葬してもらえなかったのでしょうか。

広島の被爆体験の中にも、家具職人の父親がどうしても子供の棺桶が作れず、「無理もない」と仲間の人が作ってくれた話がありました。燃料集めて、自分で身内の遺体を河原で焼く。。。。

そんな時代が再び来ないように、今生きる人間としての務めがあると私は思いました。

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